投稿者「yamamotomakoto」のアーカイブ

教皇、ベルギーのキリスト教系雑誌の関係者と

バチカン放送日本語課[2020.9.18.]より

教皇フランシスコは、ベルギーのキリスト教系雑誌の関係者とお会いになった。

教皇フランシスコは、9月18日、キリスト教系雑誌の関係者とお会いになった。

この日、教皇宮殿を訪れたのは、ベルギーのキリスト教系週刊誌「テルティオ」の関係者。この訪問は、同誌の創刊20年を記念して行われた。

教皇は、同誌の名前が、第三千年期に向けてキリストとそのメッセージに心を開くよう招く、聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「テルティオ・ミレンニオ・アドヴェニエンテ(邦題:紀元2000年の到来)」に由来していることに言及。

こうした由来と姿勢は、世俗化するメディアの世界において、この雑誌を、人々に希望を呼びさまし、教会の声に耳を傾けさせ、より豊かで建設的な考察に招くものとした、と話された。

また、この雑誌がキリスト教系メディアに与えた貢献、キリスト教共同体に自由で新しい生き方をもたらしたことを教皇は評価された。

教会における報道の重要さを示しながら、教皇は、キリスト者のジャーナリストたちは、真理を隠したり、情報をゆがめることなく、メディアの世界に新しい証しを与える、「語り」の主役となる必要がある、と話し、関係者らを励まされた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために18 9月 2020, 16:49

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高齢や病気の司祭の集いに、教皇のメッセージ

バチカン放送日本語課[2020.9.17.]より

教皇フランシスコは、イタリア・ロンバルディア州の司教らによる、高齢や病気の司祭との祈りと交流の集いにメッセージをおくられた。

イタリア北部ロンバルディア州の諸教区の司教と、高齢もしくは病気の司祭との集いに、教皇フランシスコはメッセージを寄せられた。

ロンバルディア司教協議会は、毎年、司教たちと、お年寄りの司祭および療養中の司祭たちとの、祈りと交流を目的とした出会いを行っている。今年は、新型コロナウイルス感染拡大防止のための様々な制約の中にも、カラヴァッジョの聖母巡礼聖堂を会場に、恒例の集いを無事行うことができた。

教皇は、メッセージの中で、この集いが示すように、自分たちの司祭団のお年寄りや病者に向ける司教たちの配慮と関心を喜ばれた。

特に、教皇は、参加者の司祭たちの、神と教会への誠実な愛、いのちの福音を静かに告げるその生き方、教会の明日を築くための生きた記憶に感謝の言葉を述べられた。

パンデミックのために、数か月の間、わたしたちは限られた空間で、家族や友人との触れ合いさえ欠如した生活をおくり、人間存在のもろさを知ることになったが、実は、これらはお年寄りや病者の皆さんが日頃体験していることである、と教皇は指摘。この期間を、人々との出会いの素晴らしさを味わい、自分は一人で何でもできるという驕りから治るための、恵みの時としなければならない、と記された。

わたしたち司祭の生活においても、このもろさは、わたしたちを神に向かって立ち上がらせ、純化し、聖化する、「精錬する者の火、洗う者の灰汁」(マラキ3,2)となりうるだろう、と教皇は述べ、「苦しみを恐れてはならない。主がわたしたちと一緒に十字架を担いでくださる」と励まされた。

教皇は、特に新型コロナウイルスのために亡くなった多くの司祭、現在回復のために励んでいる人々を思いながら、おとめマリアに司祭たちを託された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために17 9月 2020, 16:42

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「勇気をもって赦しの力に自らを開く」教皇、日曜の集い

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、マタイ福音書の「憐み深い王と仲間を赦さない家来のたとえ」をテーマに説教を行われた。

教皇フランシスコは、9月13日(日)正午、バチカンで「お告げの祈り」を巡礼者と共に唱えられた。

祈りの前に、教皇はこの日の福音朗読箇所(マタイ18,21-35)を取り上げ、説教を行われた。

この箇所で、イエスは、憐み深い王と仲間を赦さない家来のたとえを用いて、赦しについて教えている。

教皇は、このたとえ話で繰り返される「どうか待ってください。きっとお返しします」という嘆願の言葉(参照:マタイ18,26、18,29)に耳を傾けつつ、家来の多額の借金を憐みから帳消しにする王と、王からその憐みを受ける一方で自分が仲間に貸した金は厳しく取り立てる家来の、二つの異なる態度を比較された。

このたとえ話の中心は、家来の一万タラントンもの借金を帳消しにする、主君の憐みに満ちた赦しにある、と述べた教皇は、その負債は膨大な額だけに、赦しも非常に大きいものである、と話された。

しかし、そのすぐ後で、この家来は、自分に借りがある仲間に対して、容赦ない態度を見せる。家来は仲間に百デナリオン貸していたが、待ってほしいとの願いに耳を貸さず、借金を返すまでと、仲間を牢に入れてしまった。

ここでは王にたとえられている、神の態度において、正義はいつくしみに満ちているが、それに対し、人間の態度は単なる正義に止まっている、と教皇は指摘。

人生において、正義だけではすべての物事は解決しないゆえに、イエスはわたしたちに、勇気をもって赦しの力に自らを開くようにと励ましている、と述べられた。

いつくしみの愛の必要について、イエスは、このたとえ話に先立つ「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(マタイ18,21)というペトロの質問に、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(同18,22)と答えている。

もし、わたしたちが生きる上で赦しといつくしみを身に着けていたならば、いったいどれだけの苦しみや争いを避けることができただろうか、と問う教皇は、いつくしみの愛を、家族、共同体、教会、社会、政治など、すべての人間関係にもたらすべき、と説かれた。

人は平和な時には赦すことができても、後で怨恨が再び頭をもたげることもある、とも教皇は述べ、赦しとはその時だけのものではなく、保たれていくべきもの、と話された。

教皇は、このたとえ話は、「主の祈り」の一文、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」(マタイ6,12)の意味を豊かに受け取ることができるように助けるもの、と語り、わたしたちが他者を赦せないならば、神の赦しを自分たちのために求めることはできない、と強調された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 18:49

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【鳥栖】年間第25主日 説教【2020.9.20.】

鳥栖教会の公開ミサ。42人の皆さんと年間第25主日のミサを11時から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】17分45秒

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【小郡】年間第25主日 説教【2020.9.20.】

小郡教会の公開ミサ。37人の皆さんと年間第25主日のミサを8時30分から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】14分28秒

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【小郡】年間第25主日前晩 説教【2020.9.19.】

ガリラヤ湖の朝

小郡教会の公開ミサ。30人の皆さんと年間第25主日のミサを19時30分から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】8分26秒

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教皇、コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を悼む

バチカン放送日本語課[2020.9.17.]より

貧しい人々に奉仕しする中、一人の被支援者によって殺害された、イタリア・コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を、教皇は一般謁見の席で祈りと共に思い起こされた。

教皇フランシスコは、9月16日、一般謁見の席で、前日イタリア北部コモで殺害されたロベルト・マルジェシーニ神父(51)を「慈愛の証し人」として思い起こし、冥福を祈られた。

マルジェシーニ神父は、9月15日、コモ市内の聖ロッコ教会で、人々に配布する朝食を準備する中、一人の精神障害を持つ路上生活者によって殺害された。同神父は、コモ教区の福者スカラブリーニ司牧共同体で、貧しい人々の支援の第一線に立っていた。

教皇は一般謁見の中で、貧しい人々に尽くしたマルジェシーニ神父を悼み、次のように参加者らを祈りに招かれた。

「この場で、コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を思い起こしたいと思います。マルジェシーニ神父は、昨朝、彼自身が支援していた、精神障害を持つ一人の貧しい人によって殺害されました。

マルジェシーニ神父のご遺族と、コモの教会共同体の悲しみと祈りに心を合わせたいと思います。コモ司教の言葉にあるように、マルジェシーニ神父の殉教、最も貧しい人々への慈愛の証しのために、神に賛美を捧げます。

ロベルト・マルジェシーニ神父のため、そして、貧しく疎外された人々のために働くすべての司祭、修道者、信徒のために、沈黙の祈りを捧げましょう」

ロベルト・マルジェシーニ神父は、1969年、イタリア北部ロンバルディア州ソンドリオ県に生まれた。銀行員として3年間働く中で、神学校に入りたいとの思いを育んだ。1998年、司祭叙階。コモ教区の2つの小教区で助任司祭を務めた後、2008年より、福者スカラブリーニ司牧共同体(2小教区の合併による共同体)の協力司祭として、司牧にあたっていた。

マルジェシーニ神父は、ドン・ロベルト(ロベルト神父)と呼ばれ、貧しい人や移民たちから、父のように親しまれていた。ロベルト神父の死は、共同体を深い悲しみで包んだ。

コモ教区のオスカル・カントーニ司教は、ロベルト神父は会うたびに自身の活動を報告しつつ、その中に素晴らしい現実を見出していた、と語り、同神父が喜びをもって行っていた貧しい人々への奉仕は、「召命の中の召命」だった、と振り返った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために17 9月 2020, 11:15

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【クララ】年間第24金曜日 オミリア2020.9.18.

第一朗読:1コリント15・12-20/福音朗読:ルカ8・1-3

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]イエスは神の国を宣(の)べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡(めぐ)って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《イエスの一行に奉仕する「けがれ」をになう女性たち》 そののち、イエスは道をつづけ、町や村ごとに神の国の喜ばしい知らせを告げていった。「十二弟子」もいっしょだった。悪霊や病気の手当てを受けた女性たち、すなわち七つの悪霊を追い出してもらったマグダレーナと呼ばれるマリア、ヘロデ王の内務長官クザの妻ヨハナ、そしてスサンナをはじめほかにも」おおぜいいて、自分の手持ちのものを出しあって一行に奉仕していた。

【オミリア】5分51秒

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「観想し、世話をする」人間と自然の関係を取り戻す道、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.9.16.]より

教皇フランシスコは、一般謁見で、自然を観想し、いたわることの大切さを説かれた。

教皇フランシスコは、9月16日、バチカンで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

バチカン宮殿の聖ダマソの中庭を会場としたこの謁見には、およそ500人の信者が参加した。

この日、教皇は、パンデミック危機における「世界のいやし」をめぐるカテケーシスで、わたしたちの「共通の家」である地球を保護し、自然を観想することの大切さについて講話された。

パンデミックから脱するには、自分たちだけではなく、互いのケアが必要であり、特に最も弱い立場に置かれた人、病者、高齢者などを支えることが大切である、と教皇は述べた。

世話をしていたわること、それは人間の黄金律であるが、わたしたちはそのいたわりを、大地やすべての生物にも向けなければならない、と話された。

すべての命は相互のつながりを持ち、わたしたちの健康は、神が創造し、わたしたちにその世話を託した、生態系の健康に依存している、と教皇は述べ、そこから搾取し、自然を破壊することは、重い罪であると説かれた。

わたしたちの「共通の家」を搾取しないための最良の対抗策は、「観想すること」である、と教皇は強調。

美しいものを前に立ち止まり、それを尊重することを学べないならば、すべてのものが無分別な利用・搾取の対象物となってもおかしくない、と話された。

わたしたちの共通の家、被造物は、単なる「資源」ではなく、その一つひとつが独自の価値を持ち、それぞれのあり方を通して、神の無限の叡智と愛を反映している、と述べた教皇は、その価値と神の光を見出すには、沈黙し、耳を傾け、観想することが必要、と語られた。

そして、この観想なしでは、人間を他のすべての被造物の支配者とみなす、均衡を欠いた高慢な人間中心主義に陥り、自ら神の座を占めようとしながら、調和を破壊してしまう、と警告された。

教皇は、いのちを守るという自分たちの召命を忘れる時、わたしたちは略奪者になってしまう、と話し、わたしたちは生き、発展するために大地を耕すが、それは搾取を意味せず、常にわたしたちの使命である「世話」を伴うものでなくてはならない、と説いた。

わたしたちが観想する時、他者や自然の中に、その有用性よりもっと大きな何かを見出し、神がそれぞれに与えたかけがえのない価値を発見することができる、と教皇は観想の重要さを指摘。

わたしたちを思いやりの行為に導く観想は、自然を外から眺めるのではなく、自然の中から、自分を自然の一部と認識することで得られるものであり、その視点はわたしたちを単なる自然の傍観者ではなく、それを守る者とする、と話された。

また、観想を知る者は、環境破壊や健康の害になる原因を変えようと働き、生産と消費の新しい習慣の教育と推進、「共通の家」と人間を尊重した新しい経済成長モデルに貢献するよう努力する、と語られた。

「観想」し、「世話」をすること。人間と自然との関係を正し、再びバランスを取り戻すための道として、教皇はこの二つの態度を示された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために16 9月 2020, 15:58

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【クララ】年間第24木曜日 オミリア2020.9.17.

第一朗読:1コリント15・1-11/福音朗読:ルカ7・36-50

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶(あいさつ)もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《宗教者はイエスをさぐり、「道をふみはずした」女性はイエスを受け入れる》 さて、一人のファリサイ派の人がイエスに、いっしょに食事をしてくれとたのんだ。それでイエスは、そのファリサイ派の人の家に入り、食卓についた。そこに、一人の女性がいた。この町の「道をふみはずした女」だった。彼女は、イエスがファリサイ派の人の家で食事の席についていることを知って、香油の壺(つぼ)をたずさえて来て、泣きながら、イエスのうしろ、足のかたわらに立ち、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻(せっぷん)しては香油を塗っていた。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、腹の中でこう言った。「この人がもし預言者なら、自分にすがりついている女が何者で、どういう類(たぐい)の者か、分かるはずだ。この女は『道をふみはずした者』なのだ」。そのとき、イエスはかれに向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言った。かれは、「導師、おっしゃってください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は二百五十万円、もう一人は二十五万円の借りだった。二人とも返す手だてがなかった。それでその金貸しは、二人とも帳消しにしてやった。ところで、二人のうち、どちらがよけいに、その人を大切にするだろうか」。シモンは、「多く帳消しにしてもらったほうだと思う」とこたえた。イエスは、「そのとおりだ」と言った。そして、女性のほうをふりかえって、シモンに言った。「この女性を、あなたは気にしているのか。わたしがこの家に入ったとき、あなたは足をすすぐ水もくれなかった。けれど、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしにあいさつの接吻(せっぷん)もしなかった。けれど、この女性は、わたしがここに入ってきてからずっと、わたしの足に接吻をくりかえしている。あなたはわたしの頭にオリーブ油もぬってくれなかった。けれど、この女性はわたしの足に香油をぬってくれたのだ。このことから、多く道をふみはずしたこの女性はゆるされている、と言えるのだ。人をとても大切にしたからだ。しかし、ゆるしてもらうことの少ない人は、あまり人を大切にしようとしない」。そして、イエスはその女性に、「あなたが道をふみはずしたことはゆるされている」と言った。すると、いっしょに食卓についていた人たちは、腹の中で、「道をふみはずしたことまでゆるすこの人は、いったい何者だ」と思いはじめた。イエスは彼女に言った。「あなたが信頼してあゆみを起こしたそのことが、あなたを救った。安心して行きなさい」。

【オミリア】3分37秒

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