投稿者「yamamotomakoto」のアーカイブ

「イエスとの出会いにいつも備えよう」教皇、日曜の集いで

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、11月8日(日)、正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」をテーマに説教を行われた。

 教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音箇所、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」(25,1-13)を取り上げ、説教を行われた。

 教皇の説教は次のとおり。

**********

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日の日曜日のミサ中に朗読された福音書 (マタイ25,1-13)は、先日の諸聖人の祭日と死者の記念日に黙想した、永遠の生命について考え続けるよう招いています。イエスは、天の国の象徴である婚宴に招かれる十人のおとめのたとえ話を語っています。

 イエスが生きた時代のパレスチナでは、婚宴は夜に行われる慣わしでした。ですから、招待客の行列には、ともし火が欠かせませんでした。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、補充するための油を持っていませんでした。一方、賢いおとめたちは、ともし火と一緒に、補充用の油を持っていました。ところが、花婿の到着が遅れたため、皆、寝入ってしまいました。夜遅く、花婿の到着を知らせる声が響き渡った時愚かなおとめたちは、油を持って来なかったことに気づきます。そこで、賢いおとめたちに、油を分けて欲しいと願いますが、賢いおとめたちは、双方のためには十分ではないからと断ります。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿が到着してしまいます。賢いおとめたちは、花婿と婚宴の席に入っていきます。そして、扉は閉じられました。愚かなおとめたちは遅すぎました。彼女たちは、入ることが許されません。

イエスがこのたとえ話で言わんとすることは明らかです。わたしたちはイエスとの出会いにいつも備えていなければならない、ということです。最終的な出会いのためだけではなく、毎日の生活の中での、大きな、また小さな、イエスとのあらゆる出会いに備えていなさい、ということです。その出会いのためには、ただ信仰のともし火だけでは不十分です。愛徳や善い行いという油も必要です。信仰は、わたしたちを真にイエスに一致させるものです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5,6)と、使徒聖パウロが言っているとおりです。賢いおとめたちが表わしているのはそれです。賢くあること、それは、最後の最後まで神の恵みに答えるのを待つのではなく、すぐに実行することです。すべきことを後回しにせず、できる時にすぐ実行する、ということが大切です。

 わたしたちはしばしば、神との最終的な出会いのことを忘れてしまいます。そして、待つということも忘れます。ただ今のことだけに留まり、待つことを忘れるならば、後の世のことも忘れます。来世を無視し、現世だけに目を向けるならば、わたしたちの生活は不毛のものとなります。主との最終的出会いの前に、ともし火の油がなくなり、消えてしまうでしょう。できることを後回しにせず、主との出会いを目指して、今を、希望に満ちた今日を、生きるようにしましょう。毎日の善い行いという、補充の油を持っているならば、たとえ待ちくたびれて眠ってしまっても、心配は無用です。すぐに灯をともして、主との出会いに赴くことができるでしょう。

 聖母マリアのように、行いを伴った信仰を生きることができるよう、聖母の助けを願いましょう。聖母は、わたしたちの行くべき道を照らすともし火です。その光に照らされて、生命の大きなお祝いに、わたしたちも無事に到達することができるでしょう。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 15:26

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教皇、エチオピアとリビアの平和祈る

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、エチオピアとリビアに平和をアピールされた。

教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで行われた正午の祈りで、エチオピアとリビアの平和を祈られた。

エチオピアでは、数日前から、連邦政府軍と北部ティグレ州の与党「ティグレ人民解放戦線」の軍事組織が衝突、国内の緊張が高まっている。

この集いで、エチオピア情勢に憂慮を示された教皇は、武力衝突の誘惑を退けるよう呼びかけると共に、すべての人に、祈りと、兄弟としての尊重、対話、不和からの平和的再構築を促された。

また、教皇は、同日チュニジアで始まった「リビア政治対話会議」に言及。リビアで衝突する両当事者が出席するこの会議の重要性を指摘しつつ、これを機会に、リビア国民の長い苦しみに終止符を打つ解決が見出され、最近結ばれた停戦合意が尊重、実施されることを願われた。教皇は、会議参加者と、リビアの平和と安定のために祈るよう、皆を招かれた。

さらにこの日、教皇は、パンデミックに加え、大型ハリケーンによる多くの犠牲者と膨大な被害のために苦しむ中米諸国を思い、犠牲者と遺族、被災者と救援者のために祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 17:41

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「ラ・チビルタ・カットリカ」誌、日本語版誕生へ

バチカン放送日本語課[2020.11.7.]より

カトリック系定期刊行物「ラ・チビルタ・カットリカ」誌の日本語版が誕生する。

 イエズス会員の執筆によるカトリック系定期刊行物「ラ・チビルタ・カットリカ」の日本語版が誕生する。

 「La Civiltà Cattolica(ラ・チビルタ・カットリカ)」のイタリア語版サイトが明らかにした。

 「ラ・チビルタ・カットリカ」は、教皇ピオ9世の在位下、1850年に創刊された歴史ある雑誌である。

 この日本語版の発行は、今年4月20日に発行された中国語版と共に、「ラ・チビルタ・カットリカ」創刊170年を記念するものとなる。

 同誌は、オリジナル版であるイタリア語版に並び、英語版、フランス語版があり、アジア圏では、2017年に発行の韓国語版、そして先に述べた中国語版がある。また、スペイン語版の再刊も予定されている。

 このたびの日本語版の刊行は、バチカンと日本の交流の歴史に光を当て、その調査研究を通し、両国のさらなる友好に寄与することを目的にした、角川文化振興財団の「バチカンと日本100年プロジェクト」の一環として計画されたものである。

 同プロジェクトは、この計画について、「ローマ教皇庁の思想、政策を理解する道しるべとして、全世界のカトリック教徒から注目されているLa Civiltà Cattolicaの日本版の発行は、バチカンと日本の関係をより強固にする」ものと、公式サイトの中で述べている。

 同プロジェクトによれば、「ラ・チビルタ・カットリカ」日本語版は、同誌の多くの記事から厳選したものを、2021年4月から隔月で発行する予定としている。

 「ラ・チビルタ・カットリカ」の現編集長でイエズス会士のアントニオ・スパダーロ神父は、このたびの日本版誕生に寄せたビデオメッセージ https://youtu.be/Cg9OmX-WCQo  で、同誌の文化的見解は、常に教皇庁の考えと一致するものであり、この教皇や教皇庁との特別な絆は、教皇フランシスコも述べているとおり、同誌の「本質的な特徴」である、と強調している。

 また、スパダーロ編集長は、教皇フランシスコがかつて同誌に宛てたメッセージで、「紙面から対話し合う周縁の声が湧き上がってくる」と記したことを紹介。この「周縁と周縁の対話」こそ、「ラ・チビルタ・カットリカ」の意義を伝えるイメージである、と説明した。

 「日本は常にイエズス会の心の中にあった」とスパダーロ編集長は語り、その意味で、この創刊は、日本語において、日本の文化と世界の他国の見解の互いの紹介を通した交流という、一つの夢を実現することになる、と話した。

 さらに、同神父は、「ラ・チビルタ・カットリカ」日本語版の構想が、2019年11月の教皇フランシスコの訪日の中で生まれたことを明かしている。

 「著者と読者の間には、思考と友好関係に近い感情のコミュニケーションが行き交う」という、1851年に同誌に記された言葉を引用しながら、スパダーロ編集長は、同誌から文化の懸け橋となる友好関係が生まれることを願った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために07 11月 2020, 16:15

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【クララ】年間第29金曜日 オミリア 2020.10.23.

第一朗読:エフェソ4・1-6/福音朗読:ルカ12・54-59

【第一朗読】 [皆さん、]主に結ばれて囚人(しゅうじん)となっているわたしはあなたがたに勧(すす)めます。神から招(まね)かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和(にゅうわ)で、寛容(かんよう)の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐(にんたい)し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは群衆に言われた。]「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様(もよう)を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴(うった)える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守(かんしゅ)に引き渡し、看守は牢(ろう)に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 「今」が見直しのチャンス《「時」を見分け、抑圧(よくあつ)からの解放(正義)を実践(じっせん)せよ》 イエスはまた民衆にも言った。「あなたたちは、西の空に雲が出るのを見れば、『ひと雨くるぞ』とすぐに言えるし、また、南風が吹くのを見れば、『あつくなる』と言い、そのとおりになる。偽善者(ぎぜんしゃ)よ、あなたたちは地と空のもようを見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。「なぜ、あなたたちは解放を求める訴(うった)えを、すすんで取り上げないのか。あなたを訴える人といっしょに役人のところに行くはめになったときには、途中でその人のこだわりを取りのぞくよう、手を尽(つ)くしなさい。さもないと、役人はあなたを裁判官の前に引きたて、裁判官は看守(かんしゅ)に引きわたし、看守は懲役牢(ちょうえきろう)に放りこむ。言っておくが、最後の一円を返すまで、そこから出ることはできない」。

【オミリア】7分44秒

*み言葉を自分で読み、黙想し、味わう自己訓練をしてみませんか。Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=霊的読書)の方法を参考にしてみ言葉の味わい方を紹介します。 ***参考 レナト・フィリピーニ「聖なる読書によってみことばを祈る」教友社 シリーズ参照***

まずは、み言葉を味わうために、20分ほど時間をとってみましょう。

祈りへの招き  始める前に、まずわたしたちがいまここに「いる」ということを意識しましょう。いすに座っている体を感じましょう。呼吸を整え、心臓の鼓動に耳を傾けましょう。これからわたしたちが体験していくことは、『祈り』です。祈りとは、神との対話であり、わたしたちに語りかけておられる神のみことばに耳を傾けることです。

聖霊の助けを求める祈り  ゆっくり唱えます。

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。優しい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、うれいの時の慰め。恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない、汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。

みことばを朗読しましょう  本日の聖書箇所をゆっくりと声を出して読みましょう。(聞きましょう)

みことばに耳を傾けましょう  みことばは、一度目を通すだけでなく、何回も繰り返し読みましょう。さらに参考となる箇所も読みましょう。みことばは互いに説明し合っていますから。「聖書による聖書の解釈」、これが聖書奉読についての揺るぎない基準です。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを味わいましょう   みことばは、いつも完全に、またすぐに、理解できるとは限りません。みことばはしばしば、自分にはほとんどわからない、もしくは全くわからないと認めるだけの、謙虚さを身につけたいものです。たとえ、今わからないことであっても、ずっと後になってわかることがあります。今、何かがわかったら、それを心の中でしっかりと噛みしめて味わいましょう。そうした後で、それを自分自身に、それぞれのおかれている状態に当てはめてみましょう。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを生きましょう   みことばを通して、あなたに語りかけている神の招きに応えましょう。友が友に語るように、神と語り合いましょう。みことばに表されているイエスの顔を仰ぎみましょう。その顔を見つめ、憧れ、とらえられましょう。あなたに贈られたみことばのゆえに神に感謝しましょう。みことばを読む中で、あなたが目にし、耳にし、味わったことを大切にしましょう。それらをあなたの心、あなたの記憶に留めていきましょう。それから、人々のところに行って、友達になり、あなたが受けたその平和、その祝福を分かち合いましょう。

——— しばらく沈黙してから、「結び」に移りましょう ———

結び   「主の祈り」あるいは別の祈り、または賛美歌

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ローマのカンピドリオで諸宗教指導者らによる平和の集い

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 ローマのカンピドリオで、10月20日、諸宗教指導者らによる平和の集いが行われた。

 この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 今年の集会は、「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに、ローマの中心地、市庁舎のあるカンピドリオの広場で開催された。

 この集いには、教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加した。

 教皇は、同日午後、このカンピドリオ広場での集いに先立ち、隣接するサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会で、キリスト教諸教会の関係者と、エキュメニカルな祈りをとり行われた。

 この後、広場で行われた平和の集いでは、主催者・聖エジディオ共同体の創立者アンドレア・リカルディ氏や、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領の挨拶に次いで、バルトロメオス総主教のスピーチや、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師からのメッセージの朗読など、諸宗教代表者らの言葉が続いた。

 日本から参加した曹洞宗の峯岸正典師は、死刑囚であった歌人、島秋人の短歌を引用しながら、善悪の両面を持ちうる人間存在を見つめ、人間が戦いを起こすのだとすれば、平和を築くこともまた人間にできるはずである、とスピーチの中で話した。

 諸宗教代表らによるスピーチの最後に言葉を述べられた教皇は、「平和は一人では築けない」と、人類の兄弟愛の必要を説かれた。

 平和の展望における預言的な種は、様々な出会いや平和的行為、兄弟愛的な新しい思考と共に、一歩一歩、成長を続けてきた、と教皇は述べ、時には宗教の名のもとに起こされた、紛争・テロ・原理主義など、ここ数年の痛ましい出来事を思い起こす一方で、諸宗教間対話がもたらしてきた実り多き歩みをも認めるべき、と話された。

 教皇は、こうした対話の進展を、諸宗教関係者らが兄弟として共に働くことを励ますしるしとして受け取る中で、2019年、共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に、アフマド・アル・タイーブ師と一緒に署名したことを、重要な出来事として振り返った。

 「平和の掟は、宗教の伝統の根底に記されている」と話す教皇は、宗教の違いは、無関心や敵対を正当化するものではなく、むしろ、「宗教的信仰を源として平和の築き手となることができる」「宗教とは平和と兄弟愛に奉仕するもの」と強調された。

 教皇は「平和はすべての政策の優先課題」であり、平和を求めず、人々を傷つける緊張や争いを生んだ者たちに、神は償いを求めるだろう、と話された。

 そして、イエスが、その受難の前に人々がご自身を捕らえに来た時、剣で打ちかかった弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた言葉を教皇は示しながら、そのイエスの言葉は、剣や、武器を手放し、暴力、戦争をやめるようにと、今日も響いている、と語られた。

 「いかなる人民も、いかなる社会集団も、自分たちだけで平和や善、安全や幸福を得ることはできない」と教皇は述べ、現在のパンデミックが教えたのは「世界共同体は共に乗り合わせた一つの船であるという自覚」であり、「誰も一人では救われず、ただ皆が一緒でのみ救われる」ということ、と説かれた。

 教皇は「兄弟愛はただ一つの人類という意識からわき出でる」ことを念頭に、皆が共にあってこそ救われるという認識を、出会いや和平、停戦や和解を通して育みながら、平和のための具体的な道のりを切り開いていこう、と呼びかけられた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:56

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平和の集い:キリスト教諸教会関係者によるエキュメニカルな祈り

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 10月20日、ローマのカンピドリオで開催された平和の集いの一環として、キリスト教諸教会の関係者によるエキュメニカルな祈りが、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会でとり行われた。

 この祈りには、教皇フランシスコ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ドイツ福音主義教会常議員会議長ハインリヒ・ストローム師らをはじめ、カトリックや、プロテスタント、正教会の関係者が参列した。

 このエキュメニカルな祈りの集いで説教を行われた教皇は、先に朗読されたマルコ福音書の一節、十字架につけられたイエスに向かって、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15,30)と、通りがかりの人々がののしる場面を観想された。

 自分、あるいは自分が属する集団だけを救おうとする思いは、誰の中にも潜む決定的な誘惑であり、それは非常に人間的な本能であると同時に、十字架につけられた神に対する挑戦でもある、と教皇は話した。

 「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉は、憐みを欠きながら、しかしイエスが十字架から降りる奇跡だけを見たい心を表すものと、教皇は指摘。

 おそらく、時にはわたしたちも、憐み深い神よりも、人々が目を見張るような業を世界に見せつける、力ある神の方を好むことがあるかもしれないが、それは神ではなく、わたしたちの自我が望むものに過ぎない、と語られた。

 「自分を救ってみろ」と、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱したが、彼らがイエスを非難したのは、イエスの存在が彼らの立場を危うくしたからである、と教皇は話した。

 わたしたちも自分を救うために他者を十字架につけることがある、と教皇は述べつつ、これに対し、自ら十字架にかかり、他者に悪をなすりつけることがない、イエスの姿を示された。

 教皇は、祭司長や律法学者たちのような宗教に関わる人々が、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15,31)と、イエスを「他人を救った」という理由であざけっている矛盾に注目。

 「しかし、自分を救う福音は、救いの福音ではなく、これに対し、真の福音は、他者の十字架を自らに背負うものである」と説かれた。

 また、カルワリオで起きたことは、わたしたちを救うために来られた神と自分だけを救いたい人間との対決、神における信仰と「自分教」との対決であった、と話された。

 「十字架から赦しがわき出で、そこに兄弟愛が再び生まれた」と述べた教皇は、「十字架は、わたしたちを兄弟とする」というベネディクト16世の言葉(2008年の十字架の道行)を引用された。

 わたしたちがより一致し、より兄弟愛に満ちた者となれるよう、十字架にかかられた神に願い、わたしたちの救いのためにご自身を無にされた(参照:フィリピ2,7)主に学ぼう、と教皇は招かれた。

 そして、わたしたちが生ける神の信じうる証し人となるために、兄弟愛の道を共に歩いて行けるようにと、主の助けを祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:38

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世界宣教の日:教皇、拉致から解放された宣教者のために神に感謝

バチカン放送日本語課[2020.10.18.]より

10月18日、カトリック教会の「世界宣教の日」が記念された。

 「世界宣教の日」は、10月の最後から2番目の主日に全世界の教会によって記念されるもので、世界の福音化のために、すべての人の宣教心を呼び起こすと共に、宣教地の教会の必要に配慮し、霊的・物的支援や、宣教者や教会間の交流を促進することを目的としている。

 教皇フランシスコは、この日バチカンで行われた日曜正午の集いで、「世界宣教の日」に触れられた。

 今年のテーマ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください(イザヤ6,8)- 兄弟愛を織り出す人々」を示された教皇は、「すべてのキリスト者は、兄弟愛を織り出す者となるように召されている」と話された。

 教皇は、特に世界という大きな畑で福音の種を蒔く司祭・修道者・信徒ら、宣教者たちに思いを向け、これらの宣教者のために祈り、彼らのためにわたしたちの具体的な支援が欠けることのないように、と呼びかけられた。

 こうした中、教皇は、2年前、ニジェールで拉致され、先日、他の3人の人質と共に解放された、イタリア人宣教師、ピエル・ルイージ・マッカッリ神父のために喜びを表され、神に感謝を捧げられた。

 そして、教皇は、宣教者やカテキスタのため、また世界の各地で迫害されたり、拉致されている人々のために祈り続けるよう、信者らを招かれた。

**********

 先日、拉致後2年ぶりに解放された、アフリカ宣教会のピエル・ルイージ・マッカッリ神父(59)は、イタリア北部クレーマの出身。

 マッカッリ神父は、コートジボワールでの宣教の後、ニジェールのニアメ教区のボモアンガで小教区の司牧に携わっていた。

 同神父は、ニジェールのブルキナファソとの国境近くで、2018年9月17日から18日にかけての夜、イスラム過激派によって拉致された。

 拉致後、マッカッリ神父の消息が最後に確認されたのは、今年3月に公開されたビデオ映像の中であった。

 そして、今年10月8日、マッカッリ神父は、共に人質となっていたイタリア人エンジニアのニコラ・キャッキオ氏、フランス人の支援活動家ソフィー・ペトロナン氏、そして、マリの政治家スマイラ・シセ氏の3人と共に、マリで解放された。

 解放後、マッカッリ神父は、福音宣教省のFIDES通信のインタビューに答えて、長い監禁の日々を「生きるために、耐える」生活であったと振り返った。

 インタビューによれば、マッカッリ神父を過酷な状況の中で支えたものは、母から教わった朝と晩の祈りと、祖母から学んだ観想的なロザリオの祈りであった。

 また、ミサを捧げることはできなくても、毎日、特に主日に、自己奉献の祈りを唱え、自身を裂かれたパンとして、世界とアフリカのために捧げていた。

 毎日曜日、また待降節と降誕節、四旬節と復活節など特別な時期に、自身に福音の一節を与え、それを黙想していた、とマッカリ神父は述べた。

 長い人質生活は、マッカッリ師にとって、「沈黙と、清め、本質への回帰」の時であった一方、「神はどこにいるのか?なぜ、わたしを見捨てたのか?いつまでこの状況が続くのか?」と、多くの問いに満ちた時でもあった、と語った。

 しかし、「神がおられることは知っていた。神は後ろに立っておられると知っていた。今、解放され、帰国して、それを理解し始めた」と、同師は話した。

 マッカッリ師は、監禁中の今年5月にラジオを手に入れることができ、それでバチカン放送を聞くことができた、と述べた。

 ラジオで、主日の福音の解説を聞いたほか、特に聖霊降臨の祭日には、教皇司式のミサを聞くことができ、その時、ミッションでアフリカにいるという自覚と、ローマの聖ペトロ大聖堂にいる気持ちを同時に味わったという。

 マッカッリ師は、自身は砂漠の中に監禁されていても、祈りの中で、精神は宣教する村々を歩き回り、協力者や多くの人々、若者たちや子どもたちの名を呼び、彼らは自分の傷ついた心の中の生き生きとした存在であった、と話した。

 マッカッリ神父は、「ミッションとは『する』ものだけではなく、沈黙でもあること、そして、本質的にミッシオ・デイとは、主の御業であることがわかった」と語った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために18 10月 2020, 15:45

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【クララ】年間第29火曜日 福音朗読 2020.10.20.

小郡カトリック教会 聖フランシスコ・ザビエル像 2020.10.20.

第一朗読:エフェソ2・12-22/福音朗読:ルカ12・35-38

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「腰に帯を締(し)め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴(こんえん)から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。」

*み言葉を自分で読み、黙想し、味わう自己訓練をしてみませんか。Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=霊的読書)の方法を参考にしてみ言葉の味わい方を紹介します。 ***参考 レナト・フィリピーニ「聖なる読書によってみことばを祈る」教友社 シリーズ参照***

まずは、み言葉を味わうために、20分ほど時間をとってみましょう。

祈りへの招き  始める前に、まずわたしたちがいまここに「いる」ということを意識しましょう。いすに座っている体を感じましょう。呼吸を整え、心臓の鼓動に耳を傾けましょう。これからわたしたちが体験していくことは、『祈り』です。祈りとは、神との対話であり、わたしたちに語りかけておられる神のみことばに耳を傾けることです。

聖霊の助けを求める祈り  ゆっくり唱えます。

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。優しい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、うれいの時の慰め。恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない、汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。

みことばを朗読しましょう  本日の聖書箇所をゆっくりと声を出して読みましょう。(聞きましょう)

みことばに耳を傾けましょう  みことばは、一度目を通すだけでなく、何回も繰り返し読みましょう。さらに参考となる箇所も読みましょう。みことばは互いに説明し合っていますから。「聖書による聖書の解釈」、これが聖書奉読についての揺るぎない基準です。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを味わいましょう   みことばは、いつも完全に、またすぐに、理解できるとは限りません。みことばはしばしば、自分にはほとんどわからない、もしくは全くわからないと認めるだけの、謙虚さを身につけたいものです。たとえ、今わからないことであっても、ずっと後になってわかることがあります。今、何かがわかったら、それを心の中でしっかりと噛みしめて味わいましょう。そうした後で、それを自分自身に、それぞれのおかれている状態に当てはめてみましょう。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを生きましょう   みことばを通して、あなたに語りかけている神の招きに応えましょう。友が友に語るように、神と語り合いましょう。みことばに表されているイエスの顔を仰ぎみましょう。その顔を見つめ、憧れ、とらえられましょう。あなたに贈られたみことばのゆえに神に感謝しましょう。みことばを読む中で、あなたが目にし、耳にし、味わったことを大切にしましょう。それらをあなたの心、あなたの記憶に留めていきましょう。それから、人々のところに行って、友達になり、あなたが受けたその平和、その祝福を分かち合いましょう。

——— しばらく沈黙してから、「結び」に移りましょう ———

結び   「主の祈り」あるいは別の祈り、または賛美歌

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【小郡】「世界宣教の日」年間第29主日 説教 2020.10.18.

小郡教会の公開ミサ。48人の皆さんと年間第29主日のミサを11時から行いました。

第一朗読:イザヤ45・1、4-6/第二朗読:1テサロニケ1・1-5b/福音朗読:マタイ22・15-21

【第一朗読】 主が油注がれた人キュロスについて 主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。わたしの僕(しもべ)ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

【第二朗読】 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちは、祈りの度(たび)に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦(ろうく)し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前(みまえ)で心に留(と)めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

【福音朗読】 本日から助祭が福音朗読をします。録音はありません。

【福音】 [そのとき、]ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠(わな)にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣(つか)わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔(へだ)てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像(しょうぞう)と銘(めい)か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神のものは神に返せ——貧しい人たちの生活を奪うな》 このとき、ファリサイ派の人たちはそこを立ち去り、会議をひらいて、どう、事実をおさえてイエスをわなにはめるか、相談した。そして、自分らの弟子たちをヘロデ派の人たちといっしょに、イエスのもとにつかわして言わせた。「導師(どうし)、わたしどもは、あなたが真実な方で、真理にもとづいて神の道をときあかしておられ、だれをもはばからない方であると知っております。あなたは人を分けへだてなさいません。ところで、あなたはどう思われますか、おっしゃってください。皇帝に人頭税をおさめることは、律法に適っていますか、いませんか」。イエスはかれらの悪意を知って、言った。「偽善者たち、なぜ、わたしを試すのか。人頭税のコインを見せなさい」。かれらは五千円銀貨を差し出した。イエスはかれらに、「この肖像(しょうぞう)と銘(めい)は、だれのか」と言うと、かれらは、「皇帝のです」と言った。そこで、イエスはかれらに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言った。これを聞いてかれらは感銘(かんめい)を受け、イエスをそこにのこして、行ってしまった。

【説教】15分32秒

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