小郡教会では「年間第12主日」のミサの中で小学生の洗礼式と初聖体式が行われました。
エクレシア九州説教Blog「こころのヒント!」で見ることができます。
年間第12主日のミサの中で行われた洗礼式と初聖体式の様子を鳥栖カトリック教会のホームページで見ることができます。先週鳥栖教会で初聖体をした友だちも来て、侍者の奉仕をしてくれました。撮影、編集は鳥栖教会の広報部です。→ここをクリックして見ることができます。
鳥栖教会で堅信の秘跡を受けた方(11月6日)と小郡教会で堅信の秘跡を受けた方(12月11日)と関係者が集まり、小郡教会で16時30分から感謝のミサをささげました。来れる人は15時に集まり、ミサで使われるパンを焼いて準備をしました。他の方もミサの準備を一緒にしました。聖歌伴奏には二日市教会のバンド・ブレーメンの皆さんが協力してくださいました。16年前に当時の若者たちと作ったバンドで、今も活動を続けています。ミサの後はみんなで片づけをして、鳥栖・小郡の信者の方が準備してくださった夕食(カレーライス+サラダ etc.)をいただきました。 エクレシア九州TVの動画Blog「こころのヒント!」で視聴することができます(部分)。これからも学期に一回くらいは、このような若者を中心としたミサを続けていきたいものです。関係者の皆さん、差し入れをしてくださった皆さん、支えてくださった皆さんにこころから感謝申し上げます。
福岡市の大名町教会(カテドラル)での9時30分からの「年間第4主日前晩」の説教。 エクレシア九州TVの動画Blog「こころのヒント!」で視聴することができます。
《第二朗読》1コリント12・31〜13・13 本田哲郎訳「コリントの人々への手紙」 新世社
求めるべきは、「人を大切にする」(愛)というカリスマ
あなたたちは、もっとも偉大なカリスマを、熱く求めてください。最高の道として、それをあなたたちに示します。/たとえわたしが、異なることば(異言)で話し、み使いのことばで話せたとしても、人を大切にしないなら、わたしは音を立てるドラ、けたたましいシンバルです。たとえわたしが、預言する力をもち、神秘のすべて、あらゆる知識に通じていて、絶対の信頼をもってあゆみを起こし、山を移すことができたとしても、人を大切にしないなら、わたしの存在は無意味です。たとえわたしが、全財産を炊き出しに注ぎ込み、わが身を投げ出して、それを誇りに思ったとしても、人を大切にしないなら、わたしに益するところはありません。/人を大切にするとは、忍耐づよく相手をすること。人を大切にするとは、思いやりをもって接すること。人を大切にするとは、ねたまず、うぬぼれず、思い上がらず、めざわりなことをせず、自分の利を求めず、いらだたず、人の意地悪を根に持たず、人を不正に抑圧して喜ばず、ともに真実を喜ぶこと。人を大切にするとは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし(信仰)、すべて確かなことに心を向け(希望)、どんなことにもめがずに立ちつづけることです。
「人と大切にする」こと(愛)こそ、すべてを集約する
「人を大切にする」ということは、けっして途絶えることはありません。いずれ預言のことばは出なくなり、異言はやみ、知識への傾きもなくなります。わたしたちは役割に応じて意味を知り、役割に応じて預言のことばを話すものだからです。しかし、この完全なものが登場するとき、役割としてのものは消え去ります。/わたしが乳飲み子のときは、乳飲み子らしく話し、乳飲み子らしい感性をもち、乳飲み子らしく考えたものです。それがおとなになると、乳飲み子のふるまいは消え去っています。/今、わたしっちに見えているのは鏡ごしのぼんやりしたものです。しかし、そのときがきたら、くまなくはっきりと見えるようになるはずです。今のわたしたちは役割に応じて知識があるというだけですが、そのときには、自分が神に知られているとおりに、自分をはっきりと知るようになるのです。/ところで、永続するもの、それは「信頼してあゆみを起こす」こと(信仰)、「確かさに心を向ける」こと(希望)、「人を大切にする」こと(愛)の三つです。このうちもっとも偉大なものは、「人を大切にする」ということです。
《福音》ルカ4・21-30 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
立場をはっきりさせたイエスを、郷里の人たちが町から追い出す(マタイ13・55-58、マルコ6・3-6)
[そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた]イエスは、「ここに書かれていることは、きょう、あなたたちが耳にしたとき、実現した」と話しはじめた。/みんなはイエスに心を動かしながらも、その口から出るゆたかなことばをいぶかしく思い、口々に、「この人は、ヨセフのせがれではないか」と言った。イエスは言った。「おそらくあなたたちは、『医者よ、自分自身を手当てせよ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろやったと聞いたが、自分の郷里のここでもやれ』と言うだろう」。/そして、こう言った。「はっきり言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものだ。正直に言おう。エリヤの時代、イスラエルにはおおぜいのやもめがいたが、三年六ヵ月の間天が閉ざされて、全土に大飢饉が起きたとき、エリヤはそのうちのだれのところにもつかわされず、シドンのサレプタのやもめ(列上17・8-24)のところにつかわされただけだった。また、預言者エリシャの時代、イスラエルにはおおぜいのらい病の人がいたが、そのうちのだれも清められず、シリアのナアマン(列下5・1-14)が清められただけだった」。/これを聞いた会堂内の人々はみな憤慨し、立ち上がってイエスを町の外まで追い出し、町が建っている山の崖っぷちに引いていって、つき落とそうとした。しかし、イエスはその人たちのあいだをとおって、立ち去った。
聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[6分]2016.1.29.Fri.←をクリックして聴くことができます。
《第一朗読》サムエル下11・1〜4a、4c-10a、13〜17 新共同訳
年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブとその指揮下においた自分の家臣、そしてイスラエルの全軍を送り出した。彼らはアンモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデ自身はエルサレムにとどまっていた。/ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。彼は屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層(たいそう)美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ[た。]女は家に帰ったが、子を宿したので、ダビデに使いを送り、「子を宿しました」と知らせた。/ダビデはヨアブに、ヘト人ウリヤを送り返すように命令を出し、ヨアブはウリヤをダビデのもとに送った。ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」/ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤを招き、食事を共にして酔わせたが、夕暮れになるとウリヤは退出し、主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかった。/翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺(あた)りにウリヤを配置した。町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。
《答唱詩編》詩編51・3+4、5+6cd 新共同訳
答唱句:あなたのいぶきを受けて、わたしは新しくなる。
神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、豊かなあわれみによって わたしのとがをゆるしてください。悪に染まったわたしを洗い、罪深いわたしを清めてください。/わたしは自分のあやまちを認め、罪はわたしの目の前にある。あなたがわたしをさばかれるとき、そのさばきはいつも正しい。
《福音》マルコ4・26-34 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
神の国は刈り入れをまっている—ヨハネ4・35参照— そして、イエスは言った。「神の国とはこのようなものだ。ある人が地に一つの種をまいた。そして、夜昼ねおきしていて、知らないあいだに、種は芽を出し、のびていく。地はひとりでに実りをもたらし、まず茎、つぎに穂、そしてその穂に麦つぶがみたさる。実が熟すと、人は、さっそく鎌をいれる。刈り入れの時が来ているからである」。
神の国はからし種—小ささに秘められたゆたかな生命力(マタイ13・31-32、ルカ13・18-19) イエスは言った。「神の国をどう説明し、何にたとえようか。それはからし種のようだ。からし種は、地にまくとき、地上のどんな種よりも小さいが、ひとたびまかれて、成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、ふとい枝をはり、その葉かげに空の小鳥たちが巣をつくれるほどになる」。
たとえで語るのは、人々が耳をかたむけやすくするため(マタイ13・34-35) イエスは、人々が耳をかたむけやすいように、神を告げるできごとを、このような多くのたとえで話した。たとえなしで人々に話すことはなかったが、弟子たちには、自分たちだけのときに、すべてをときあかした。
聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[8分]2016.1.28.Thurs.←をクリックして聴くことができます。
《答唱詩編》詩編89・21+22、25+27 新共同訳
答唱句:神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。
わたしはしもべダビドを選び、とうとい油を彼に注いだ。わたしの手はいつも彼とともにあり、わたしの腕は彼を強める。/いつくしみとまことは彼とともにあり、彼はわたしによって高められる。彼はわたしに呼びかける。「わたしの父、わたしの神、わたしの救いの力。」
《福音》マルコ4・21-25 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
世に隠された人たちは、自分の光(感性)を人前に現せ(ルカ8・16-18)
また、イエスは言った。「ともし火は、升(ます)の下や寝台の下に置くためではないだろう。燭台(しょくだい)の上に置くためではないのか。隠されたものであらわにされずにすむものはない。秘密のままということはなく、明かるみに出てしまうものだ。聞く気のある者は、しっかり聞きなさい」。また、イエスは言った。「あなたたちは、いま聞いていることに注意を向けなさい。あなたたちは、自分がはかる秤(はかり)ではかられ、しかも、多めにはかられる。持てる者はさらに与えられ、持たない者は、持っているものまで取りあげられてしまうものだ」。
聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[8分]2016.1.27.Wed.←をクリックして聴くことができます。
《答唱詩編》詩編89・29+35、37+38 新共同訳
答唱句:神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。
わたしのいつくしみは永遠に変わることなく、わたしの結んだ契約はとこしえに保たれる。わたしは契約を破らず、約束したことばを変えない。/ダビドの子孫はとこしえに続き、その王座は太陽のようにわたしの前にある。大空を見まもる月のように、その王座はとこしえに続く。
《福音》マルコ4・1-20 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
神のいのちはすべての人に—しかし、実りは底辺から(マタイ13・1-9、ルカ8・4-8)
イエスはまた湖のほとりで、真実をときあかしはじめた。おびただしい民衆がイエスのところに集まってきた。それで、イエスは湖の舟にのって腰をおろすと、民衆はみな岸にいて、湖のほうに向いた。イエスはたとえをもちいて、多くの真実をときあかした。真実をときあかす中で、つぎのように言った。「よく聞きなさい。種まき人が、まきに出た。まいていて、あるものは通り端におちた。すると小鳥たちがやって来て、食べつくしてしまった。また、あるものは岩地におちた。そこは土が少なくて、地中ふかく入れないので、すぐに芽を出した。しかし、日がのぼると焼けて、根がないので枯れてしまった。また、あるものは茨のしげみにおちた。しかし、茨がはびこり、それを覆いふさいでしまい、実をむすばなかった。また、あるものは適した土におちた。そして、成長して大きくなり、あるものは三十、あるものは六十、あるものは百もの実をつけた」。そしてイエスは言った。「聞く気のある者は、しっかり聞きなさい」。
たとえで話すのは、感性のにぶい人たちへの配慮(マタイ13・10-17、ルカ8・9-10)
仲間だけになったとき、イエスの周囲の者たちは十二人といっしょに、いろいろなたとえについてたずねた。イエスは言った。「あなたたちには、神の国の神秘が働いている。しかし、神の国の外に立つあの人たちには、いつもすべて、たとえで話す。あの人たちは、『見えているのに、見ようとせず、しっかり聞いているのに、心に感じてともに立とうとせず、いつまでも、立ち返って神のゆるしを受けるにいたらない』」(イザヤ6・9-10)
「まかれたもの」とは、受肉した神イエスのいのち(マタイ13・18-23、ルカ8・11-15)
そして、イエスは言った。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえを理解できるだろうか。種をまく人は、神を告げるできごとをまいているのだ。『通り端』の人たちとは、こうだ。神を告げるできごとが自分にまかれていても、そのことを聞いたときには、すでにサタン(悪霊)が来て、まかれたそのできごとを取り去っているのだ。『岩地』にまかれた人たちとは、こうだ。神を告げるできごとを聞いて、よろこんでそのできごとを受けいれるが、自分に根がないので、しばらくはつづいても、神を告げるできごとのことで弾圧や迫害がおこると、たちまちつまずいてしまうのだ。『茨のしげみ』にまかれた人たちは、また、別だ。この人たちは、神を告げるできごとのことを聞いても、世の思いわずらいや富の誘惑、そのほかつぎつぎに起こる欲望が、そのできごとを覆いふさいで、実をつけずにおわるのだ。『適した土』にまかれた人たちは、こうだ。神を告げるできごとのことを聞いて、心から受け入れ、あるものは三十、あるものは六十、あるものは百もの実をつけるのだ」。
聖クララ会修道院の聖堂で行われたミサのオミリア[7分]2016.1.25.The Conversion of St. Paul Apostle.←をクリックして聴くことができます。今日は「聖パウロの回心」の祝日でした。雪が降ってます。(オミリアの途中鼻がぐじゅぐじゅいってます…)
《第一朗読》使徒言行録22・3-16 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
《典型的なファリサイ派だったパウロ》
[パウロはこう言った。]「わたしはユダヤ人です。キリキアのタルソで生まれました。そして、このエルサレムの町で育ち、ガマリエルのもとで、父祖たちの律法の細部にわたって教育を受けました。神のことになると、わたしはきょうのみなさんと同じく、熱烈でした。わたしは「この道」を死滅させるいきごみで迫害し、男も女もしばりあげて投獄しました。このことは大祭司と全長老団が証言してくれるはずです。わたしはその人たちから、同胞宛ての書簡をもらい受け、ダマスコへ行って、現地ですでに捕らえられていた者たちをもエルサレムに引いて来て、処罰させたのです。
《回心(解放)のきっかけは、光と内なる声》
旅の途中、ダマスコに近づいた、正午ごろのことです。とつぜん、天からの強烈な光が、わたしの周囲にひらめき、わたしは地面にたおれました。そのときわたしは、呼びかける声を聞きました。『サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか』と。わたしが、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、『わたしは、おまえが迫害しているナザレのイエスである』と言われました。いっしょにいた者たちは、光は見ましたが、わたしに話しかけた声は聞きませんでした。わたしが、『主よ、どうしたらいいのですか』と言うと、主は、『立って、ダマスコの町に入りなさい。あなたがなすべきことはみな、そこで告げられる』と言いました。わたしは、その光の輝きのために、目が見えなくなっていました。それで、いっしょにいた者たちに手を引かれて、ダマスコの町に入りました。
《低みからの見なおしをしたパウロを、神が選んだ》
さて、そこにはアナニアという人がいました。律法どおり誠実に生きる人で、町に住むユダヤ人たちのあいだで評判のよい人でした。この人がわたしのところへ来て、わたしに向かって、『同胞であるサウルよ、見えるようになりなさい』と言いました。そのとき、わたしは見えるようになり、その人を見つめました。アナニアは言いました。『われわれの父祖たちの神は、おまえをご自分の手の中におき、ご自分の思いを知るようにさせ、解放する方と出会わせて、じかにその声を聞かせられたのだ。それは、おまえが見たこと聞いたことについて、すべての人の前に、その方のための証人にならせるためであった。今から、おまえは何をすればいいか。さあ、身を沈め、その方ご自身をわが身に呼び求めて、罪を洗いおとしなさい』と」。
《答唱詩編》詩編117・1+2、栄唱) 新共同訳
答唱句 主をたたよう、主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠
すべての国よ、神をたたえ、すべての民よ、神をほめよ。神の愛はちから強く、そのまことは世々に及ぶ。/栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。
《福音》マルコ16・15-18 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
弾圧のさなかにある、小さくされた弟子たちの使命、派遣(マタイ28・16-20、ルカ24・47-49、ヨハネ20・14-23、使1・3-8)
それから、イエスは言った。「世のいたるところに出て行って、すべての造られたものに福音を告げ知らせなさい。信頼をもってあゆみを起こし、身を沈められる人は救われ、信頼してあゆみを起こそうとしない人はほろびの宣告を受ける。信頼をもってあゆみを起こす人には、つぎのしるしが伴う。わたしを身に帯びて悪霊を追い出し、新鮮なことばで話し、手でへびをつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けばその人は元気になる」。