[基山]説教」カテゴリーアーカイブ

[基山]年間第2土曜日のオミリア(2016.1.23.)

鳥栖の巡回教会、基山教会の聖堂で行われたミサのオミリア[8分]2016.1.23.Sat.←をクリックして聴くことができます。基山教会では第二、第四土曜日7時から週日のミサをしています。

《答唱詩編》詩編80・3+4、5+6 新共同訳

答唱句 神よ、わたしに目を注ぎ、強めてください、手をさしのべて。

すべてを治める神よ、あなたの力を現し、わたしたちを救いに来てください。わたしたちを新たにし、あなたの顔の輝きで救ってください。/神よ、民が祈っているのに、いつまで怒りを燃やされるのか。あなたは悲しみをわたしたちの食物とし、あふれる涙を飲み物とされた。

《福音》マルコ3・20-21 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 

「悪霊に取りつかれた」(精神に異常をきたした)として、社会的抹殺をはかられる(マタイ12・22-32、ルカ11・14-23)

 さて、イエスは、とある家に入った。すると、また民衆が集まってきて、食事をすることもできないありさまだった。そこへ、身内の者たちが話しを聞きつけて、イエスを取り押さえにやって来た。「気が変になっている」と人々が言っていたからである。

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[基山]降誕節土曜日(主の公現後)のオミリア(2016.1.9.)

鳥栖の巡回教会、基山教会の聖堂で行われたミサのオミリア[11分]2016.1.9.Sat.←をクリックして聴くことができます。基山教会では第二、第四土曜日7時から週日のミサをしています。今日は降誕節最後の日。明日の「主の洗礼」の主日から「年間」に入ります。

今朝は朝日が聖堂の真正面に当たっていました。

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《福音》ヨハネ3・22-30 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書

「沈めの式」(洗礼)は「清め」の儀式か

 そののち、イエスと弟子たちはユダヤの地へ行った。イエスはそこにしばらく弟子たちといっしょに滞在して、沈めの式を行なっていた。他方、ヨハネはサリムに近いアイノンで、沈めの式を行なっていた。そこは水がゆたかだった。人々はやって来て、身を沈めてもらっていた。そのころヨハネは、まだ投獄されていなかった。さて、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人の中から、「清め」について疑問が投げかけられた。そこで、かららはヨハネのもとにやって来て、「ラビ、ヨルダン側の向こうであなたといっしょにいた、あなたが証ししたあの人が、沈めの式を行なっています。みんな、その人のほうへ行きます」と言った。それについてヨハネはこう言った。「人は、天から与えられないかぎり、なに一つ自分のものにすることはできない。『わたしは「キリスト」ではない』『わたしはその方の前につかわされた者だ』と、わたしが言ったことは、あなたたち自身が証人のはずだ。花嫁を手にするのは、花婿だ。花婿の友人はそばに立って、花婿に耳を傾けていて、花婿に声をかけられるのが、なによりうれしいものだ。じっさい、わたしはその喜びでいっぱいだ。その方は大きく成長し、わたしはだんだん小さくなっていくべきなのだ」。

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[基山]待降節第3土曜日のオミリア(2015.12.19.)

鳥栖の巡回教会基山の聖堂で行われたミサのオミリア[7分]2015.12.19.Advent 3rd.Sat.←をクリックして聴くことができます。

《答唱詩編》詩編139・1+2、13+14 新共同訳

《答唱句》神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる

神よ、あなたはわたしをこころにかけ、わたしのすべてを知っておられる。わたしがすわるのも立つのも知り、遠くからわたしの思いを見通される。/あなたはわたしのからだをつくり、母の胎内でわたしをかたり造られた。わたしを造られたあなたのわざは不思議。わたしは心からその偉大なわざをたたえる。

《福音》ルカ1・5-25 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 

ヨハネ誕生の予告—「不妊」の汚名を返上するエリサベト

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[基山]年間第29土曜日のオミリア(2015.10.24.)

毎月第二、第四土曜日の朝7時から基山教会聖堂でミサをしています。今朝のミサのオミリア[8分]2015 29th Sat. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。

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ミサ後の歓談のひととき

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《第一朗読》ローマ8・1-11 本田哲郎訳「ローマ/ガラテヤの人々への手紙」  

《「神の霊=キリストの霊」に自分を合わせて、霊の人として生きる》(9-11節)

 あなたたちは、神の霊が自分に宿っているかぎり、感覚の人として生きるのではなく、霊の人として生きるはずです。しかし、キリストの霊をもたない人がいるとしたら、その人はキリストに属する人ではありません。キリストがあなたたちの内におられるなら、体の面では、はずれた道のせいで死んだものとなってはいても、霊の面では、解放の働きのおかげで生きるものとなります。イエスを死んだ者たちの中から立ち上がらせた霊が、あなたたちに宿っているなら、キリストを死んだ者たちの中から立ち上がらせた神が、あなたたちに宿っているキリストの霊によって、あなたたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。

《福音》ルカ13・1-9 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  

低みに立って見直すことをしなければ、滅びる

 ちょうどそのとき、数人の人がやって来て、ガリラヤの人たちがいけにえをささげていたとき、ピラトがかれらの血を流していけにえにまぜたと報告した。イエスはそれについて、こう言った。「そのガリラヤの人たちがそのような目にあったのは、ほかのガリラヤ人のだれよりも『道をふみはずした者』だっかたらだと、あなたたちは思うのか。そうではない。言っておくが、あなたたちも低みに立って見直すことをしなければ、みな同じように滅びるのだ。また、シロアムの塔がくずれて、下じきになって死んだあの十八人は、エルサレムの住人のだれよりも『負い目をもつ者』だったからだと、あなたたちは思うのか。そうではない。言っておくが、あなたたちも低みに立って見直すことをしなければ、みなそのように滅びるのだ」。

神は福音の実り(低みに連帯して、行動を起こす)を、しびれを切らして待っている

さて、イエスはつぎのたとえを話した。「ある人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実をさがしに来たが、見つけなかった。そこで、その人は剪定師(せんていし)に、『三年間、このいちじくの木の実をさがしに来ているが、見つけたためしがない。もう、切りたおしなさい。土地のむだづかいではないか』と言った。すると剪定師は、『主よ、ことし一年だけ、このままにしてやってください。木のまわりを掘り、肥料を入れてみます。このつぎには実をつけるかもしれません。それでもだめでしたら、切りたおしてください』と言った」。

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[基山]年間第25土曜日のオミリア(2015.9.26.)

クララ会修道院でのミサのオミリア(短い説教)[12分]2015 25th Sat. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。

《今日の福音》ルカ9・43b-45 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」

 イエスが行なったその一部始終にみんなが感銘を受けたのを見て、イエスは弟子たちに言った。「あなたたちは、このことを耳にとめておきなさい。人の子はやがて人々の手に引きわたされるのだ」。弟子たちは、言われたことがよく分からなかった。弟子たちには隠されていて、理解できなかったのである。それでも弟子たちは、言われたこといついて、イエスにたずねるのをはばかった。

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[基山]年間第23土曜日のオミリア(2015.9.12.)

鳥栖の巡回教会、基山教会でのミサのオミリア(短い説教)[14分]2015 23rd Sat. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。基山教会では毎月第二、第四土曜日7時から週日のミサをしています。カトリック新聞参照

《今日の福音》ルカ6・43-49 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」

 [イエスは弟子たちに言われた。]「良い木でありながら粗悪(そあく)な実をつけるということはなく、また、粗悪な木が良い実をつけるということもない。木はそれぞれ、つける実によって知れるものだ。じっさい、茨(いばら)からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは収穫できない。誠実な人は、心の中の誠実な倉から誠意あるものを出し、威圧的な人は威圧的な倉から人を威圧するものを出す。人は心につまっていることを口にするものだ。あなたたちは、わたしに『主よ、主よ』と言いながら、どうしてわたしが言うことを、行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしが身をもって示すことを聞き、それを実行する人とはどのような人かを示そう。それは、地をふかく掘り下げ、岩盤に基礎をすえて家を建てた人のようだ。洪水になり、川がその家に押しよせてきたが、しっかり建っているので、ゆらぐこともなかった。しかし、聞いても実行しなかった人は、基礎なしに地面の上に家を建てた人のようだ。川がその家に押しよせると、すぐにくずれ、しかも、その壊れようはひどかった」。

 

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[基山]小学生春学校ミサのオミリア(2015.3.26.)

鳥栖教会の教会学校は春休み中に巡回教会の基山教会で「春学校」をします。黙想会のようなものです。お祈りして、ゆるしの秘跡を受けて、ミサを共にささげます。そのミサでのオミリアです。2015.3.26.Kiyama←(3分)これぞ「オミリア=短い説教」!

《福音》マルコ10・13-16 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書と使徒言行録」

人々はイエスにさわってもらおうと、幼子(おさなご)たちをつれて来た。ところが、弟子たちは、その人たちをきびしくとがめた。イエスはそれを見て憤慨(ふんがい)し、弟子たちに言った。「幼子たちを、わたしのところに来させなさい。妨げるな。神の国は、このような人たちのものだからだ。はっきり言っておく。幼子のように神の国を迎え入れる人でなければ、神の国には入れない」。そして、イエスは子どもたちを抱きしめ、両手を置いてはげましのことばをかけた。

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