オミリアと説教」カテゴリーアーカイブ

【鳥栖】年間第25主日 説教【2020.9.20.】

鳥栖教会の公開ミサ。42人の皆さんと年間第25主日のミサを11時から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】17分45秒

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【小郡】年間第25主日 説教【2020.9.20.】

小郡教会の公開ミサ。37人の皆さんと年間第25主日のミサを8時30分から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】14分28秒

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【小郡】年間第25主日前晩 説教【2020.9.19.】

ガリラヤ湖の朝

小郡教会の公開ミサ。30人の皆さんと年間第25主日のミサを19時30分から行いました。

第一朗読:イザヤ55・6-9)/第二朗読:フィリピ1・20c-24、27a/福音:マタイ20・1-16

【第一朗読】 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いはなたたちの思いを、高く超えている。

【福音朗読】 音声

今日から福音朗読の直後、説教の前に短い沈黙の時間をとるようにしました。ミサの第一部「ことばの典礼」で聞いた神の言葉の中から自分に響いたみ言葉を探すためです。神はみ言葉を聞く一人一人に語りかけています。

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った、また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金(ちんぎん)を払ってやろう』と言った。そこで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋(たず)ねると、彼らは、『だれも雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇(やと)われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱(しんぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱(あつか)いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか。』このように、後(あと)にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。  《ぶどう園に雇ってもらえない「けがれ」を引きずる貧しい人たちと神の国》 「天の国は、自分のぶどう園で働く労働者を雇(やと)うために、明け方いちばんに出かけた一家の主人のようだ。主人は、労働者と一日五千円の約束をして、ぶどう園に送った。また、九時ごろに出ていって、広場に立っているほかの人たちを見つけて、『あなたたちもぶどう園に行ってくれ。正当な賃金(ちんぎん)をはらう』と言った。その人たちはぶどう園に行った。また、主人は十二時ごろと三時ごろにも出ていって、同じようにした。さて、五時ごろに主人は出かけたが、ほかにまだ立っている人たちがいるのを見かけた。それで、主人はその人たちに、『どうして、一日中、なにもせずに、ここに立っていたのか』とたずねた。その人たちは、『だれもわたしらを雇(やと)ってくれないのです』と言った。主人はその人たちに、『あなたたちも、ぶどう園に行きなさい』と言った。夕刻(ゆうこく)になって、ぶどう園の主人は監督(かんとく)に言った。『労働者たちを読んで、いちばんあとに来た人からはじめて、さいしょに来た人まで、賃金をはらいなさい』。五時ごろに雇われた人たちが来て、五千円ずつ受けとった。さいしょに雇われた人たちが来て、自分たちはよけいにもらえると期待したが、かれらも受けとったのは五千円ずつだった。受けとってから、かれらは主人に文句(もんく)を言った。『いちばんあとに来たこの連中は、一時間働いただけだ。わたしたちは一日の重労働と酷暑(こくしょ)をしんぼうしたのに、同じあつかいとは』。主人はその一人に言った。『仲間よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと五千円の約束をしたのではなかったか。自分の分をもって、帰りなさい。わたしは、このいちばんあとに来た人にも、あなたと同じにはからってやりたいのだ。わたしのものを、わたしがしたいようにしてはならないというのか。それとも、わたしがやさしいから、あなたの顔つきが威圧的(いあつてき)になるのか』。このように、いちばんあとにいる人たちが先頭に立ち、先頭に立つ人たちがいちばんあとになるのだ」。

【説教】8分26秒

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【クララ】年間第24金曜日 オミリア2020.9.18.

第一朗読:1コリント15・12-20/福音朗読:ルカ8・1-3

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]イエスは神の国を宣(の)べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡(めぐ)って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令(かれい)クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《イエスの一行に奉仕する「けがれ」をになう女性たち》 そののち、イエスは道をつづけ、町や村ごとに神の国の喜ばしい知らせを告げていった。「十二弟子」もいっしょだった。悪霊や病気の手当てを受けた女性たち、すなわち七つの悪霊を追い出してもらったマグダレーナと呼ばれるマリア、ヘロデ王の内務長官クザの妻ヨハナ、そしてスサンナをはじめほかにも」おおぜいいて、自分の手持ちのものを出しあって一行に奉仕していた。

【オミリア】5分51秒

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【クララ】年間第24木曜日 オミリア2020.9.17.

第一朗読:1コリント15・1-11/福音朗読:ルカ7・36-50

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶(あいさつ)もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《宗教者はイエスをさぐり、「道をふみはずした」女性はイエスを受け入れる》 さて、一人のファリサイ派の人がイエスに、いっしょに食事をしてくれとたのんだ。それでイエスは、そのファリサイ派の人の家に入り、食卓についた。そこに、一人の女性がいた。この町の「道をふみはずした女」だった。彼女は、イエスがファリサイ派の人の家で食事の席についていることを知って、香油の壺(つぼ)をたずさえて来て、泣きながら、イエスのうしろ、足のかたわらに立ち、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻(せっぷん)しては香油を塗っていた。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、腹の中でこう言った。「この人がもし預言者なら、自分にすがりついている女が何者で、どういう類(たぐい)の者か、分かるはずだ。この女は『道をふみはずした者』なのだ」。そのとき、イエスはかれに向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言った。かれは、「導師、おっしゃってください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は二百五十万円、もう一人は二十五万円の借りだった。二人とも返す手だてがなかった。それでその金貸しは、二人とも帳消しにしてやった。ところで、二人のうち、どちらがよけいに、その人を大切にするだろうか」。シモンは、「多く帳消しにしてもらったほうだと思う」とこたえた。イエスは、「そのとおりだ」と言った。そして、女性のほうをふりかえって、シモンに言った。「この女性を、あなたは気にしているのか。わたしがこの家に入ったとき、あなたは足をすすぐ水もくれなかった。けれど、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしにあいさつの接吻(せっぷん)もしなかった。けれど、この女性は、わたしがここに入ってきてからずっと、わたしの足に接吻をくりかえしている。あなたはわたしの頭にオリーブ油もぬってくれなかった。けれど、この女性はわたしの足に香油をぬってくれたのだ。このことから、多く道をふみはずしたこの女性はゆるされている、と言えるのだ。人をとても大切にしたからだ。しかし、ゆるしてもらうことの少ない人は、あまり人を大切にしようとしない」。そして、イエスはその女性に、「あなたが道をふみはずしたことはゆるされている」と言った。すると、いっしょに食卓についていた人たちは、腹の中で、「道をふみはずしたことまでゆるすこの人は、いったい何者だ」と思いはじめた。イエスは彼女に言った。「あなたが信頼してあゆみを起こしたそのことが、あなたを救った。安心して行きなさい」。

【オミリア】3分37秒

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【クララ】聖コルネリオ教皇 聖チプリアの司教殉教者【記】 年間第24水曜日 オミリア2020.9.16.

ガリラヤ湖の朝

コルネリオは二五一年にローマ教皇に選ばれた。対立教皇として立ったノバチアヌスの派閥(はばつ)に反対されたが、チプリアノに支持されて地位を保つことができた。ガルス帝によって追放され、二五三年にイタリア中部のチビタベッキアで亡くなった。その遺体はローマに移され、カリストの墓地に埋葬された。チプリアノは二一〇年頃、北アフリカのカルタゴで異教徒の家庭に生まれた。やがてキリスト教に改宗し、司祭に叙階され、二四九年にカルタゴの司教に選ばれた。その活動と著作によって、多くの困難のただ中にあった教会をみごとに治めた。バレリアヌス帝の迫害のときにまず追放され、その後、二五八年九月十四日に殉教した。(『毎日の読書』より)

第一朗読:1コリント12・31〜13・13/福音朗読:ルカ7・31-35

第一朗読:[皆さん、]あなたがたは、もっと大きな賜物(たまもの)を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言(いげん)、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒(さわ)がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽(つ)くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益(えき)もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨(うら)みを抱(いだ)かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐(た)える。愛は決して滅びない。預言は廃(すた)れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子(おさなご)だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄(す)てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《求めるべきは「人を大切にする」(愛)というカリスマ》 あなたたちは、もっとも偉大なカリスマを、熱(あつ)く求めてください。最高の道としてそれをあなたたちに示します。 たとえわたしが、異(こと)なることば(異言)で話し、み使いのことばで話せたとしても、人を大切にしないなら、わたしは音を立てるドラ、けたたましいシンバルです。たとえわたしが、預言する力をもち、神秘のすべて、あらゆる知識に通じていて、絶対の信頼をもってあゆみを起こし、山を移すことができたとしても、人を大切にしないなら、わたしの存在は無意味です。たとえわたしが、全財産を炊(た)き出しに注ぎ込み、わが身を投げ出して、それを誇(ほこ)りに思ったとしても、人を大切にしないなら、わたしに益(えき)するところはありません。人を大切にするとは、忍耐づよく相手をすること。人を大切にするとは、思いやりをもって接すること。人を大切にするとは、ねたまず、うぬぼれず、思い上がらず、めざわりなことをせず、自分の利を求めず、いらだたず、人の意地悪(いじわる)を根に持たず、人を不正に抑圧(よくあつ)して喜ばず、ともに真実を喜ぶこと。人を大切にするとは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし(信仰)、すべて確かなことに心を向け(希望)、どんなことにもめげずに立ちつづけることです。    《「人を大切にする」こと(愛)こそ、すべてを集約する》 「人を大切にする」ということは、けっして途絶(とだ)えることはありません。いずれ預言のことばは出なくなり、異言(いげん)はやみ、知識への傾(かたむ)きもなくなります。わたしたちは役割に応じて意味を知り、役割に応じて預言のことばを話すものだからです。しかし、この完全なものが登場するとき、役割としてのものは消え去ります。わたしが乳飲み子のときは、乳飲み子らしく話し、乳飲み子らしい感性をもち、乳飲み子らしく考えたものです。それがおとなになると、乳飲み子のふるまいは消え去っています。今、わたしたちに見えているのは鏡ごしのぼんやりしたものです。しかし、そのときがきたら、くまなくはっきりと見えるようになるはずです。今のわたしは役割に応じて知識があるというだけですが、そのときには、自分が神に知られているとおりに、自分をはっきりと知るようになるのです。ところで、永続(えいぞく)するもの、それは「信頼してあゆみを起こす」こと(信仰)、「確かさに心を向けること(希望)、「人を大切にする」こと(愛)の三つです。このうちもっとも偉大なものは、「人を大切にする」ということです。

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは言われた。]「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢(たいしょくかん)で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《底辺から立つヨハネとイエスを、受け入れる人たち—こばむ人たち》 では、この類(たぐい)の人たちを、何にたとえよう、何に似ているだろうか。子どもたちが広場にしゃがんで、『笛を吹いたが、踊らない。哀歌を歌っても、泣きもしない』と、互いに呼びかけ合うのと同じなのだ。沈めの式を行なうヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まないでいると、あなたたちは、『あれは、悪霊に取りつかれている』と言い、『人の子』が来て、食べもし飲みもすると、『見ろ、食い意地のはった酒飲みだ、収税人や道をふみはずした者の仲間だ』と言う。しかし、神の知恵は、それを実践する人たち一人ひとりによって、その解放する力をうらづけられたのである」。

【オミリア】5分35秒

*オミリアの中で引用した世界仏教指導者はティク・ナット・ハン

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【クララ】悲しみの聖母 オミリア2020.9.15.

この祝日がローマ教会暦に取り入れられたのは一八一四年である。十字架称賛の翌日にあたるきょう、教会は、マリアがイエスの受難のとき、十字架のもとにたたずんで母としてその苦しみをともにしたことを思い起こしている。(きょうのミサの集会祈願)。(『毎日の読書』より)

第一朗読:ヘブライ5・7-9/福音朗読:ヨハネ19・25-27 または ルカ2・33-35

【入祭唱】 ルカ2・34-35 シメオンはマリアに言った。「この子は逆らいのしるしとなり、イスラエルの多くの人の滅びと救いのもととなる。あなたの心も剣で貫かれれる。」

【集会祈願】 聖なる父よ、聖母マリアは十字架のもとに立ち、御子イエスと苦しみをともにしました。教会が、聖母とともに御子の苦しみに結ばれて、その復活にもあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音朗読】 音声 *福音朗読は、ヨハネによる福音書またはルカによる福音書のどちらかを用いる。

【福音】 [そのとき、]イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

【オミリア】6分10秒

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【小郡】年間第24主日前晩 説教【2020.9.12.】

小郡教会の公開ミサ。32人の皆さんと年間第24主日のミサを19時30分から行いました。

第一朗読:シラ27・30〜28・7)/第二朗読:ローマ14・7-9/福音:マタイ18・21-35

【第一朗読】憤(いきどお)りと怒り、これはひどく忌(い)まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。復讐(ふくしゅう)する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。隣人から受けた不正を赦(ゆる)せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱(いだ)き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。自分の最期(さいご)に心を致(いた)し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容(かんよう)であれ。

【福音朗読】 音声

【福音】 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《貧しい者どうし、立場の弱さを分かり合って、過ちはゆるしてやれ》 そのとき、ペトロがイエスのそばに来て、言った。「主よ、仲間がわたしに対して道をふみはずす場合、何回ゆるせばいいでしょうか。七回までですか」。イエスはペトロに言った。「七回までとわたしは言わない。七回の七十倍までだ。じつに、天の国は、しもべたちと決済をしようと決めた一人の王のようなものだ。決済がはじまると、一兆円の借りのある人がつれて来られた。その人は返さなかったので、主人はその人に、妻も子どもも、持っているすべてを売って返すよう命じた。すると、しもべはひれ伏して、『お怒りにならないでください。きっとぜんぶお返しします』とひたすら願った。しもべの主人ははらわたをつき動かされて、その人を放免し、借金をゆるしてやった。ところが、このしもべはそこを出て、しもべ仲間の一人で、自分に五十万円の借りのある者に出会うと、その人をつかまえ、『借りたものは返せ』としめあげた。しもべ仲間はひれ伏して、『怒らないでくれ。きっと返すから』としきりに頼んだ。しかし、かれは承知せず、借りを返すまえそのしもべ仲間を懲役牢に入れた。なりゆきを見ていた仲間のしもべたちはひどく心を痛め、主人のところに行って、ことの次第を告げた。主人はそのしもべを呼びつけて言った。『威圧的なしもべだ、わたしは、おまえが頼んだので、おまえの借りをゆるしてやった。わたしがおまえの苦しみを分かってやったように、おまえを仲間の苦しみを分かってやるべきではなかったのか』。そして、主人は怒って、借りをぜんぶ返すまで、そのしもべを牢番たちに引きわたした。もし、あなたたち一人ひとりが仲間を心からゆるさないなら、わたしの天の父も、あなたたちに対して同じようになさるのだ」。

【説教】13分54秒

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【基山】年間第23土曜日 オミリア2020.9.12.

第一朗読:1コリント10・14-22/福音朗読:ルカ6・43-49

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨(いばら)からいちじくは採(と)れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺(ゆ)り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒(たお)れ、その壊(こわ)れ方がひどかった。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神の国に入るのは、底辺から立つイエスの思いを実行する人だけ》 「良い木でありながら粗悪(そあく)な実をつけるということはなく、また、粗悪な木が良い実をつけるということもない。木はそれぞれ、つける実によって知れるものだ。じっさい、茨(いばら)からいちじくは採(と)れないし、野ばらからぶどうは収穫(しゅうかく)できない。誠実な人は、心の中の誠実な倉から誠意あるものを出し、威圧的な人は威圧的な倉から人を威圧するものを出す。人は心につまっていることを口にするものだ。あなたたちは、わたしに『主よ、主よ』と言いながら、どうしてわたしが言うことを、行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしが身をもって示すことを聞き、それを実行する人とはどのような人かを示そう。それは、地をふかく掘り下げ、岩盤(がんばん)に基礎(きそ)をすえて家を建てた人のようだ。洪水(こうずい)になり、川がその家に押しよせてきたが、しっかり建てているので、ゆらぐこともなかった。しかし、聞いても実行しなかった人は、基礎なしに地面の上に家を建てた人のようだ。川がその家に押しよせると、すぐにくずれ、しかも、その壊(こわ)れようはひどかった」。

【オミリア】1分42秒

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【クララ】年間第23金曜日 オミリア2020.9.11.

第一朗読:1コリント9・16-19、22b-27/福音朗読:ルカ6・39-42

【入祭唱】 詩篇119 神よ、あなたのことばはわたしの足のともしび、わたしの道の光

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに]たとえを話された。「盲人(もうじん)が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行(しゅぎょう)を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑(くず)を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《金持ち(抑圧する側)には、貧しい人たち(抑圧される側)を裁く資格はない》 イエスはたとえを用いてかれらに言った。「ものの見えない人が、ものの見えない人を道案内できるか。二人とも穴に落ちてしまうではないか。師の上を行く弟子はいない。しかし、自分自身しっかり鍛錬(たんれん)すれば、だれでも師のようになれるものだ。あなたは、仲間の目の中のわらくずは見えるのに、どうして自分の目の中の丸太に気づかないのか。どうして、仲間に、『さあ、おまえの目のわらくずを取らせてくれ』と言えるのか。自分の目の丸太が見えていないではないか。偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取りのぞけ。そうすればはっきり見えて、仲間の目のわらくずを取ってやることもできるのだ」。

【オミリア】4分46秒

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