フランシスコ教皇メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「イエスとの出会いにいつも備えよう」教皇、日曜の集いで

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、11月8日(日)、正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」をテーマに説教を行われた。

 教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音箇所、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」(25,1-13)を取り上げ、説教を行われた。

 教皇の説教は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日の日曜日のミサ中に朗読された福音書 (マタイ25,1-13)は、先日の諸聖人の祭日と死者の記念日に黙想した、永遠の生命について考え続けるよう招いています。イエスは、天の国の象徴である婚宴に招かれる十人のおとめのたとえ話を語っています。

 イエスが生きた時代のパレスチナでは、婚宴は夜に行われる慣わしでした。ですから、招待客の行列には、ともし火が欠かせませんでした。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、補充するための油を持っていませんでした。一方、賢いおとめたちは、ともし火と一緒に、補充用の油を持っていました。ところが、花婿の到着が遅れたため、皆、寝入ってしまいました。夜遅く、花婿の到着を知らせる声が響き渡った時愚かなおとめたちは、油を持って来なかったことに気づきます。そこで、賢いおとめたちに、油を分けて欲しいと願いますが、賢いおとめたちは、双方のためには十分ではないからと断ります。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿が到着してしまいます。賢いおとめたちは、花婿と婚宴の席に入っていきます。そして、扉は閉じられました。愚かなおとめたちは遅すぎました。彼女たちは、入ることが許されません。

イエスがこのたとえ話で言わんとすることは明らかです。わたしたちはイエスとの出会いにいつも備えていなければならない、ということです。最終的な出会いのためだけではなく、毎日の生活の中での、大きな、また小さな、イエスとのあらゆる出会いに備えていなさい、ということです。その出会いのためには、ただ信仰のともし火だけでは不十分です。愛徳や善い行いという油も必要です。信仰は、わたしたちを真にイエスに一致させるものです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5,6)と、使徒聖パウロが言っているとおりです。賢いおとめたちが表わしているのはそれです。賢くあること、それは、最後の最後まで神の恵みに答えるのを待つのではなく、すぐに実行することです。すべきことを後回しにせず、できる時にすぐ実行する、ということが大切です。

 わたしたちはしばしば、神との最終的な出会いのことを忘れてしまいます。そして、待つということも忘れます。ただ今のことだけに留まり、待つことを忘れるならば、後の世のことも忘れます。来世を無視し、現世だけに目を向けるならば、わたしたちの生活は不毛のものとなります。主との最終的出会いの前に、ともし火の油がなくなり、消えてしまうでしょう。できることを後回しにせず、主との出会いを目指して、今を、希望に満ちた今日を、生きるようにしましょう。毎日の善い行いという、補充の油を持っているならば、たとえ待ちくたびれて眠ってしまっても、心配は無用です。すぐに灯をともして、主との出会いに赴くことができるでしょう。

 聖母マリアのように、行いを伴った信仰を生きることができるよう、聖母の助けを願いましょう。聖母は、わたしたちの行くべき道を照らすともし火です。その光に照らされて、生命の大きなお祝いに、わたしたちも無事に到達することができるでしょう。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 15:26

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教皇、エチオピアとリビアの平和祈る

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、エチオピアとリビアに平和をアピールされた。

教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで行われた正午の祈りで、エチオピアとリビアの平和を祈られた。

エチオピアでは、数日前から、連邦政府軍と北部ティグレ州の与党「ティグレ人民解放戦線」の軍事組織が衝突、国内の緊張が高まっている。

この集いで、エチオピア情勢に憂慮を示された教皇は、武力衝突の誘惑を退けるよう呼びかけると共に、すべての人に、祈りと、兄弟としての尊重、対話、不和からの平和的再構築を促された。

また、教皇は、同日チュニジアで始まった「リビア政治対話会議」に言及。リビアで衝突する両当事者が出席するこの会議の重要性を指摘しつつ、これを機会に、リビア国民の長い苦しみに終止符を打つ解決が見出され、最近結ばれた停戦合意が尊重、実施されることを願われた。教皇は、会議参加者と、リビアの平和と安定のために祈るよう、皆を招かれた。

さらにこの日、教皇は、パンデミックに加え、大型ハリケーンによる多くの犠牲者と膨大な被害のために苦しむ中米諸国を思い、犠牲者と遺族、被災者と救援者のために祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 17:41

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ローマのカンピドリオで諸宗教指導者らによる平和の集い

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 ローマのカンピドリオで、10月20日、諸宗教指導者らによる平和の集いが行われた。

 この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 今年の集会は、「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに、ローマの中心地、市庁舎のあるカンピドリオの広場で開催された。

 この集いには、教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加した。

 教皇は、同日午後、このカンピドリオ広場での集いに先立ち、隣接するサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会で、キリスト教諸教会の関係者と、エキュメニカルな祈りをとり行われた。

 この後、広場で行われた平和の集いでは、主催者・聖エジディオ共同体の創立者アンドレア・リカルディ氏や、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領の挨拶に次いで、バルトロメオス総主教のスピーチや、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師からのメッセージの朗読など、諸宗教代表者らの言葉が続いた。

 日本から参加した曹洞宗の峯岸正典師は、死刑囚であった歌人、島秋人の短歌を引用しながら、善悪の両面を持ちうる人間存在を見つめ、人間が戦いを起こすのだとすれば、平和を築くこともまた人間にできるはずである、とスピーチの中で話した。

 諸宗教代表らによるスピーチの最後に言葉を述べられた教皇は、「平和は一人では築けない」と、人類の兄弟愛の必要を説かれた。

 平和の展望における預言的な種は、様々な出会いや平和的行為、兄弟愛的な新しい思考と共に、一歩一歩、成長を続けてきた、と教皇は述べ、時には宗教の名のもとに起こされた、紛争・テロ・原理主義など、ここ数年の痛ましい出来事を思い起こす一方で、諸宗教間対話がもたらしてきた実り多き歩みをも認めるべき、と話された。

 教皇は、こうした対話の進展を、諸宗教関係者らが兄弟として共に働くことを励ますしるしとして受け取る中で、2019年、共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に、アフマド・アル・タイーブ師と一緒に署名したことを、重要な出来事として振り返った。

 「平和の掟は、宗教の伝統の根底に記されている」と話す教皇は、宗教の違いは、無関心や敵対を正当化するものではなく、むしろ、「宗教的信仰を源として平和の築き手となることができる」「宗教とは平和と兄弟愛に奉仕するもの」と強調された。

 教皇は「平和はすべての政策の優先課題」であり、平和を求めず、人々を傷つける緊張や争いを生んだ者たちに、神は償いを求めるだろう、と話された。

 そして、イエスが、その受難の前に人々がご自身を捕らえに来た時、剣で打ちかかった弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた言葉を教皇は示しながら、そのイエスの言葉は、剣や、武器を手放し、暴力、戦争をやめるようにと、今日も響いている、と語られた。

 「いかなる人民も、いかなる社会集団も、自分たちだけで平和や善、安全や幸福を得ることはできない」と教皇は述べ、現在のパンデミックが教えたのは「世界共同体は共に乗り合わせた一つの船であるという自覚」であり、「誰も一人では救われず、ただ皆が一緒でのみ救われる」ということ、と説かれた。

 教皇は「兄弟愛はただ一つの人類という意識からわき出でる」ことを念頭に、皆が共にあってこそ救われるという認識を、出会いや和平、停戦や和解を通して育みながら、平和のための具体的な道のりを切り開いていこう、と呼びかけられた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:56

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平和の集い:キリスト教諸教会関係者によるエキュメニカルな祈り

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 10月20日、ローマのカンピドリオで開催された平和の集いの一環として、キリスト教諸教会の関係者によるエキュメニカルな祈りが、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会でとり行われた。

 この祈りには、教皇フランシスコ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ドイツ福音主義教会常議員会議長ハインリヒ・ストローム師らをはじめ、カトリックや、プロテスタント、正教会の関係者が参列した。

 このエキュメニカルな祈りの集いで説教を行われた教皇は、先に朗読されたマルコ福音書の一節、十字架につけられたイエスに向かって、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15,30)と、通りがかりの人々がののしる場面を観想された。

 自分、あるいは自分が属する集団だけを救おうとする思いは、誰の中にも潜む決定的な誘惑であり、それは非常に人間的な本能であると同時に、十字架につけられた神に対する挑戦でもある、と教皇は話した。

 「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉は、憐みを欠きながら、しかしイエスが十字架から降りる奇跡だけを見たい心を表すものと、教皇は指摘。

 おそらく、時にはわたしたちも、憐み深い神よりも、人々が目を見張るような業を世界に見せつける、力ある神の方を好むことがあるかもしれないが、それは神ではなく、わたしたちの自我が望むものに過ぎない、と語られた。

 「自分を救ってみろ」と、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱したが、彼らがイエスを非難したのは、イエスの存在が彼らの立場を危うくしたからである、と教皇は話した。

 わたしたちも自分を救うために他者を十字架につけることがある、と教皇は述べつつ、これに対し、自ら十字架にかかり、他者に悪をなすりつけることがない、イエスの姿を示された。

 教皇は、祭司長や律法学者たちのような宗教に関わる人々が、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15,31)と、イエスを「他人を救った」という理由であざけっている矛盾に注目。

 「しかし、自分を救う福音は、救いの福音ではなく、これに対し、真の福音は、他者の十字架を自らに背負うものである」と説かれた。

 また、カルワリオで起きたことは、わたしたちを救うために来られた神と自分だけを救いたい人間との対決、神における信仰と「自分教」との対決であった、と話された。

 「十字架から赦しがわき出で、そこに兄弟愛が再び生まれた」と述べた教皇は、「十字架は、わたしたちを兄弟とする」というベネディクト16世の言葉(2008年の十字架の道行)を引用された。

 わたしたちがより一致し、より兄弟愛に満ちた者となれるよう、十字架にかかられた神に願い、わたしたちの救いのためにご自身を無にされた(参照:フィリピ2,7)主に学ぼう、と教皇は招かれた。

 そして、わたしたちが生ける神の信じうる証し人となるために、兄弟愛の道を共に歩いて行けるようにと、主の助けを祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:38

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世界宣教の日:教皇、拉致から解放された宣教者のために神に感謝

バチカン放送日本語課[2020.10.18.]より

10月18日、カトリック教会の「世界宣教の日」が記念された。

 「世界宣教の日」は、10月の最後から2番目の主日に全世界の教会によって記念されるもので、世界の福音化のために、すべての人の宣教心を呼び起こすと共に、宣教地の教会の必要に配慮し、霊的・物的支援や、宣教者や教会間の交流を促進することを目的としている。

 教皇フランシスコは、この日バチカンで行われた日曜正午の集いで、「世界宣教の日」に触れられた。

 今年のテーマ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください(イザヤ6,8)- 兄弟愛を織り出す人々」を示された教皇は、「すべてのキリスト者は、兄弟愛を織り出す者となるように召されている」と話された。

 教皇は、特に世界という大きな畑で福音の種を蒔く司祭・修道者・信徒ら、宣教者たちに思いを向け、これらの宣教者のために祈り、彼らのためにわたしたちの具体的な支援が欠けることのないように、と呼びかけられた。

 こうした中、教皇は、2年前、ニジェールで拉致され、先日、他の3人の人質と共に解放された、イタリア人宣教師、ピエル・ルイージ・マッカッリ神父のために喜びを表され、神に感謝を捧げられた。

 そして、教皇は、宣教者やカテキスタのため、また世界の各地で迫害されたり、拉致されている人々のために祈り続けるよう、信者らを招かれた。

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 先日、拉致後2年ぶりに解放された、アフリカ宣教会のピエル・ルイージ・マッカッリ神父(59)は、イタリア北部クレーマの出身。

 マッカッリ神父は、コートジボワールでの宣教の後、ニジェールのニアメ教区のボモアンガで小教区の司牧に携わっていた。

 同神父は、ニジェールのブルキナファソとの国境近くで、2018年9月17日から18日にかけての夜、イスラム過激派によって拉致された。

 拉致後、マッカッリ神父の消息が最後に確認されたのは、今年3月に公開されたビデオ映像の中であった。

 そして、今年10月8日、マッカッリ神父は、共に人質となっていたイタリア人エンジニアのニコラ・キャッキオ氏、フランス人の支援活動家ソフィー・ペトロナン氏、そして、マリの政治家スマイラ・シセ氏の3人と共に、マリで解放された。

 解放後、マッカッリ神父は、福音宣教省のFIDES通信のインタビューに答えて、長い監禁の日々を「生きるために、耐える」生活であったと振り返った。

 インタビューによれば、マッカッリ神父を過酷な状況の中で支えたものは、母から教わった朝と晩の祈りと、祖母から学んだ観想的なロザリオの祈りであった。

 また、ミサを捧げることはできなくても、毎日、特に主日に、自己奉献の祈りを唱え、自身を裂かれたパンとして、世界とアフリカのために捧げていた。

 毎日曜日、また待降節と降誕節、四旬節と復活節など特別な時期に、自身に福音の一節を与え、それを黙想していた、とマッカリ神父は述べた。

 長い人質生活は、マッカッリ師にとって、「沈黙と、清め、本質への回帰」の時であった一方、「神はどこにいるのか?なぜ、わたしを見捨てたのか?いつまでこの状況が続くのか?」と、多くの問いに満ちた時でもあった、と語った。

 しかし、「神がおられることは知っていた。神は後ろに立っておられると知っていた。今、解放され、帰国して、それを理解し始めた」と、同師は話した。

 マッカッリ師は、監禁中の今年5月にラジオを手に入れることができ、それでバチカン放送を聞くことができた、と述べた。

 ラジオで、主日の福音の解説を聞いたほか、特に聖霊降臨の祭日には、教皇司式のミサを聞くことができ、その時、ミッションでアフリカにいるという自覚と、ローマの聖ペトロ大聖堂にいる気持ちを同時に味わったという。

 マッカッリ師は、自身は砂漠の中に監禁されていても、祈りの中で、精神は宣教する村々を歩き回り、協力者や多くの人々、若者たちや子どもたちの名を呼び、彼らは自分の傷ついた心の中の生き生きとした存在であった、と話した。

 マッカッリ神父は、「ミッションとは『する』ものだけではなく、沈黙でもあること、そして、本質的にミッシオ・デイとは、主の御業であることがわかった」と語った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために18 10月 2020, 15:45

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「祈る人は、希望を失うことがない」詩編を考察、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.10.14.]より

教皇フランシスコは、10月14日(水)の一般謁見で、「詩編の祈り」をテーマに講話を行われた。

 教皇フランシスコは、10月14日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中、教皇は「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、この日は「詩編の祈り」をテーマに話された。

 教皇のカテケーシスは次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 聖書を読む時、わたしたちはいろいろな種類の祈りに出会います。聖書の中には、祈りだけを取り扱う箇所もあります。いわゆる旧約聖書の詩編です。ここには、なんと150篇もの祈りが収められています。聖書の中で、詩編は、神との対話を通して祈ることを教えてくれる特別な書物です。

 詩編には、喜びや悲しみ、疑いや希望、苦しみなど、人間生活を彩るあらゆる人間感情が表現されています。教会の教えは、それぞれの詩編が、あらゆる時代のあらゆる状況における、人間の心からほとばしる祈りを表すものと教えます。何回も詩編を読むことで、わたしたちはどのように祈るべきかを学びます。どのように神に感謝し、懇願し、喜びや苦しみにおいて祈り、神の不思議な働きやその掟をいかに物語ればよいかを人々に教えるために、神なる御父は、ダビド王や他の預言者たちに、聖霊を通して霊感を授けたのです。 言うならば、詩編は、神と語らうために人間が用いることのできる、神の言葉そのものです。

 この詩編の書には、単なる美辞麗句や、抽象的な思いなどはありません。詩編は、机上で作られたものではないのです。生きた人間の現実の体験から生まれ出た叫びです。詩編を祈るためには、わたしたちはあるがままの自分であれば十分です。 これを忘れないようにしましょう。よく祈るために、わたしたちは小細工をせず、あるがままでよいのです。祈るために、気取る必要はないのです。「主よ、これがあるままのわたしです」。良いことも、自分しか知らない悪いことも含めて、すべてをたずさえ、あるがままの姿で主のみ前に出ることです。詩編の中に、わたしたちは生身の人間の声を聞くことができます。多くの問題を抱え、苦労や疑いを抱き、不確かな感情に覆われた、すべての人々の生の声を聞きます。詩編の中で、多くの苦しみは、疑問に変わっていきます。苦しむことから、様々な「なぜ、なぜなのだ」が生じるのです。

 多くの疑問の中で、詩編の書全体を通し絶えず繰り返される問いがあります。わたしたち自身も、何回も繰り返す問いです。「主よ、いつまで」。苦しみは解放を、涙は慰めを、傷は回復を希求します。「主よ、いつまでこの苦しみを耐え忍ばなければならないのでしょうか。主よ、わたしの祈りに耳を傾けてください」。一体、何回、わたしたちはこのような祈りを捧げたことでしょう。「主よ、いつまで、もう十分です」。

 詩編は、この種の問いを絶えず提示することによって、苦しみに無感覚になることなく、救われるためには、まずいやされる必要があることを思い起させます。

 詩編の祈りは、まさしくこのような人間の心の底からの叫びの証しです。この叫びには、様々な形があります。なぜなら、人の苦しみも一様ではなく、千差万別だからです。病気の時も、憎しみや戦争、迫害や不信の時もあります。そして、最も大きなつまずきは、死です。詩編において、人の死は、人間にとって最大の敵として解されています。すべてを終わらせ、無にしてしまう、これほどにも残酷な罰に、一体どんな罪が値したのだろうか。詩編の中で、人はすべての努力がまったく無であるゆえに、神に何とかしてくださいと願います。これこそが、祈りそのものがすでに救いへの道であり、救いの始まりである所以なのです。

 この世では、神を信じる人も、そうでない人も、誰もが苦しんでいます。しかし、詩編において、苦しみは、一つの関係・関わりとなります。救いを求める叫びは、聞く者の耳に届くことを期待しているのです。 無意味でも、無目的でもあり得ません。わたしたちの苦しみも、一般的な苦しみではなく、いつもわたし個人の苦しみです。わたしが流す涙も、誰のものでもない、わたし自身の涙です。それぞれが、それぞれの苦しみや涙を持ち、それらがわたしたちを祈りへと導くのです。わたし以前に誰も流すことがなかった、わたしだけの涙です。そうです、多くの人が泣きました、でもわたしの涙は、わたし自身の涙です。わたしの苦しみ、悲しみも、皆、わたしの苦しみ、わたしの悲しみです。

わたしはこの謁見会場に入る前に、先日、イタリアのコモ教区で、まさしく人々の支援をしているさなかに殺害された司祭のご両親に会いました。このご両親の流す涙は、彼ら自身の涙です。貧しい人々を助けるために命を捧げたご子息の、その死のために、ご両親がいかに苦しまれたかは、ご両親だけが知っています。誰かを慰めようとするとき、わたしたちは適当な言葉を見出すことができません。なぜでしょう。彼らの苦しみにまで到達することができないからです。なぜなら、その苦しみは、彼らだけのものであり、その涙も彼らの涙だからです。

 人間のすべての苦しみは、神にとって聖なるものです。詩編第56番は、こう祈っています。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」 (詩編56,9)。神の御前で、わたしたちは知られざる者でも、単なる数字でもありません。わたしたちは皆、神から名前で知られ、顔も心も持つ存在です。

 信じる者は、詩編の中に答えを見出します。彼は、人間の門がすべて閉ざされても、神の門は常に開かれていると知っています。たとえ全世界が断罪しても、神の中には救いがあることを知っています。

 「神は聞いてくださいます」。時に、祈りにおいては、これを知るだけで充分です。いつでも問題が解決されるわけではありません。しかし、祈る人は、希望を失うことがありません。もちろん、この世では、多くの問題は出口を見つけられず、未解決のままに残り、また苦しみもなくならないでしょう。困難を一つ乗り越えても、新たに別の困難がやって来ることも知っています。しかし、わたしたちに耳を傾けてくださる方がおいでならば、すべてはもっと耐えやすくなります。

 一番悲しいことは、誰からも顧みられずに苦しむこと、誰からも気にもされずに苦しむことです。このような状況から、祈りはわたしたちを救ってくれます。わたしたちは神のご計画を完全に理解できるわけではありません。しかし、わたしたちの叫びは、この世に留まるわけではありません。それは父の心をお持ちの神の御元まで昇っていきます。苦しみ、死にゆくすべての息子、娘たちのために、神ご自身がお泣きになります。イエスの涙とその苦しみを思い起こすことは有益です。回心しないエルサレムを見て、イエスは泣かれました。最愛の友人ラザロの墓前で、イエスは泣かれました。神はわたしのために泣かれたのです。神はわたしたちの苦しみのために泣かれます。神は泣くことができるように、生身の人間となられたのです。

 苦しみにあるわたしと共に泣かれるイエスを思うことは、大きな慰めとなるのではないでしょうか。それは、わたしたちが前に進むための助けとなるでしょう。キリストと一致しているならば、たとえ人生が苦しみに欠けることがなくても、より大きな善に向けて、視界が開かれていきます。そして、わたしたちは完成へと歩み続けるのです。

 ですから、皆さん、元気を出して、祈りつつ前進しましょう。イエスはいつもわたしたちと共においでです。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために14 10月 2020, 16:49

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教皇「神の愛の無償の贈り物を喜びをもって受け取ろう」

バチカン放送日本語課[2020.10.11.]より

教皇フランシスコは、日曜正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「婚宴」のたとえを観想された。

 教皇フランシスコは、10月11日(日)正午、バチカンでお告げの祈りを、広場の巡礼者と共に唱えられた。

 教皇はこの集いで、前日10日(土)、イタリア中部アッシジで、若き信徒、カルロ・アクティス(1991-2006)の列福式がとり行われたことを報告された。

 15歳で帰天したカルロ少年の、聖体に対する大きな愛、最も貧しい人々の中にキリストの御顔を認め、平穏な生活に甘んじることなく、時の求めに応じて行動したその生き方を教皇は紹介された。

 そして、福者カルロ・アクティスの証しは、若者たちに、真の幸福は神を第一に据え、特に最も貧しい人々をはじめ、兄弟たちに奉仕することで見出されると教えている、と話された。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「婚宴」のたとえ(21,28-32)を取り上げ、説教を行われた。

 教皇の説教は以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日のミサで福音朗読された「婚宴」のたとえ話をもって、イエスは、神が人類のためにお持ちになるご計画について説明しています (参照:マタイ22,1-14)。

 息子のために婚宴を開く王は、全人類家族のために、独り子との交わりと、素晴らしい愛のお祝いを準備する、天の御父を表しています (同22,2)。

 王は二回にわたり、人々を婚宴に招くためにしもべたちを派遣します。しかし、招待客は、自分の畑仕事や商売など、他の用事や計画のために、婚宴に行くことを拒否します。わたしたちを招いておられる主よりも、物質的なことがらや自分の関心事を優先することが、わたしたちにもしばしばあるのではないでしょうか。

 主は、わたしたちを婚宴に招いておられます。たとえ話の王は、ご自分の王国の宝を皆に配りたいので、宴席が空になることを望みません。そこで、王はしもべたちに言い渡します。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」 (同22,9)。神はこのように振る舞います。拒否されても諦めることなく、再度、皆を招こうとします。誰も除外することなしに、大通りのここかしこにいる、すべての人々を招きます。神の家から排除される人は、誰もいません。

 福音記者マタイが用いる「通り」という言葉は、元来、道の境界、そこで町の通りが終わり、野原へと続く小道が始まるような、町はずれを指しています。たとえ話の王は、このような十字路にいる人々を、婚宴の席に着かせようとしもべたちを派遣します。

 こうして婚宴の席は王の婚宴の席には似つかわしくない、いわゆる「疎外されていた者たち」や「排除されていた者たち」で満たされます。婚宴の席に似つかわしくないように見える人々です。

 婚宴の主人は、しもべたちに善人も悪人も集めさせます。神は悪人さえお呼びになるのです。「わたしは悪人です。多くの悪事を働きました」と言っても、神は「いいから来なさい、来なさい、来なさい」とあなたをお呼びになります。イエスは、当時の社会で公的な罪びとみなされていた徴税人たちも会食されました。わたしたちを愛し招く神は、多くの悪事によって傷つけられたわたしたちの魂の傷を恐れません。

 教会は、多くの人々が希望もなしに、ぼろくずのように生き、暮らしている最悪の環境、地理的にも社会的にも見捨てられたような状況、いわゆるこの世の果てまで人々を探しに行くよう招かれています。ありきたりの福音宣教や慈善事業に安住せず、すべての人々に向けて、わたしたちの心の扉を、共同体の扉を、大きく開くようにと呼ばれているのです。なぜなら、福音は、数少ない選ばれた人たちのものではないからです。疎外された人々、社会から排除され軽蔑された人々も、神からはその愛にふさわしい人々とみなされているのです。神は、義人、罪人、善人、悪人、教養のある人、ない人も、すべての人々のために食卓を準備してくださいます。

 昨晩、わたしは一人の歳老いたイタリア人神父に電話しました。若い頃からブラジルで宣教師をしていた彼は、いつも疎外された人々や貧しい人々のために働いてきました。その生涯を貧しい人々のために捧げ尽くし、今、その老後を平和のうちに過ごしています。これこそ、わたしたちの母なる教会の姿です。遠く、町はずれまで人々を探しに行く神の使者です。

 しかし、主は一つの条件を置きます。婚宴に入るために、礼服を着用するということです。たとえ話に戻りましょう。宴席が一杯になると、招待主である王が、最後に到着した客人たちにも挨拶に来ます。しかし、そこで婚宴用の礼服、すなわち主人が客に贈り物として与えた衣装を身に着けていない者を発見しました。実は、招かれた人すべてが、正装をして宴席に連なったわけではありません。それぞれが着の身着のまま来ていたはずです。そこで、王は、宴席に入る前に、入り口で、皆に婚宴用の衣装、一種のマントのようなものを贈っていたのです。

 婚宴用の衣装を身に着けていなかった客は、王からの無償の贈り物を拒否したのです。王は彼を追い出すよりほかありませんでした。この人は王の招待を受け入れましたが、そのことを何とも思っていなかったのです。彼は自信満々で、自分自身を変えることも、また主が彼を変えることも、少しも望んでいなかったのです。婚宴用の衣装、それは神がわたしたちに無償でくださる、慈しみ、恵みのシンボルです。この神の恵みなしでは、キリスト教生活においては、一歩も前進できません。

 すべては恵みによるものです。主に従うための招きを受け入れるだけでは、十分ではありません。自分の心を変える、回心の歩みに従う必要があります。神が絶え間なくわたしたちにくださる慈しみの衣装とは、神の愛の無償の贈り物のことです。それは、恵みそのものです。それは、大きな喜びと驚きをもっていただくべきものです。「主よ、この恵みをくださったことに感謝いたします」。

 自分たちの狭い視野や態度から抜け出し、福音のたとえ話のしもべたちに倣い、主は救いの恵みをお与えになるために、すべての人をその婚宴にお招きになる、と告げられるよう、聖母マリアがわたしたちをお助けくださいますように。アーメン。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために11 10月 2020, 18:17

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10月の教皇の祈りの意向:教会における信徒のミッション

バチカン放送日本語課[2020.10.8.]より

教皇フランシスコは、2020年10月の祈りの意向について、ビデオメッセージをおくられた。

 カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。

 2020年10月は、「教会における信徒のミッション」のために、次のように祈る。

 「洗礼によって信徒となった人々、特に女性の信徒が教会の責任ある分野にいっそう参加することができますように」。

 教皇フランシスコは、今月の祈りの意向について、ビデオを通し次のように述べられた。

 「誰も、司祭や司教として洗礼を受けた人はいません。わたしたちは信徒として洗礼を受けました。

 信徒たちは、教会の主役です。

 今日、特に教会における女性の存在をいっそう際立たせる機会を、もっと広げなくてはなりません。

 そして、その存在を高めなくてはいけません。なぜなら女性たちは脇に置かれがちだからです。

 重要な決定が行われる場に女性たちが加われるよう、推進する必要があります。

 洗礼によって信徒となった人々、特に女性の信徒が、信徒のカリスマを減じてしまう聖職者主義に陥ることなく、教会の責任ある分野にいっそう参加することができるよう祈りましょう。」大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 10月 2020, 17:00

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「エリヤの祈り」を考察、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.10.7.]より

教皇フランシスコは、10月7日(水)、一般謁見で「祈り」をめぐるカテケーシスを再開、この日は「エリヤの祈り」を考察された。

 教皇フランシスコは、10月7日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 一般謁見は、9月中、バチカン宮殿の聖ダマソの中庭を会場としていたが、10月最初のこの謁見はパウロ6世ホールで開催された。

 先週、パンデミック危機下の「世界のいやし」をテーマにしたカテケーシスを終了された教皇は、以前継続していたテーマ、「祈りの神秘」の考察に戻られた。そして、この日は「エリヤの祈り」を取り上げられた。

 預言者エリヤは時代を超え、福音書のいくつかのエピソードにも登場する。教皇は、「イエスの変容」で、エリヤがモーセと共に現れ、イエスと語り合っている場面(参照:マタイ 17,3)、また、イエスご自身も、洗礼者ヨハネの証しを弟子たちに理解させるために、エリヤに言及している場面(参照:同17,10-13)などを挙げられた。

 聖書において、エリヤは謎に包まれた形で登場する、と教皇は述べ、突然、辺境の小さな村から現れ、 (参照:列王記上 17,1)、そして、最後に、弟子エリシャの前で、火の戦車に乗って天に上った(列王記下2,11-12)その生涯を回想。それゆえに、メシアの訪れの前に、エリヤの再来が人々によって待ち望まれていた、と説明された。

 聖書はエリヤを澄み切った信仰の人として描いている。エリヤの名は「ヤハウェは神」を意味するように、彼の使命はその名に秘められていた、と教皇は語った。

 エリヤは、清廉な人で、卑しい妥協をすることができなかった。彼のシンボルは、神の清めの力としての火である。教皇は、大きな試練にさらされても神への忠実を失わなかったエリヤを、神を信じるすべての人の模範として示された。

 祈りは、樹をめぐる樹液のように、人生を絶えず養う活力である。そのために、エリヤは修道生活の伝統において最も親しまれる人物の一人であり、いくつかの修道会によっては、奉献生活の霊的父として選ばれている、と教皇は話した。

 神の人であったエリヤは、神をすべての上に置き、信仰の擁護者として立ち上がったが、彼も多くの試練を前に自身の弱さと闘わなければなからなった、と教皇は述べ、バアルの預言者たちとの対決や(参照:列王記上 18,20-40)、「わたしは先祖にまさる者ではありません」と荒れ野で動揺する姿(参照:列王記上19,4 )を指摘。祈る人の魂において、自身の弱さは、勝利や成功に高ぶっている時よりも、より貴重なものである、と話した。

エリヤは観想的な人である一方で、ナポトのぶどう畑を不当に手に入れようとした王やその妻を激しく非難することができるような、その時代の出来事を憂慮する、活動的な面を持った人でもあった。教皇は、今日のキリスト者も、エリヤの精神に倣い、責任ある指導者たちの前で、正しくないことに対し「これはすべきでない」と言う勇気を持つべき、と語られた。

聖書は、エリヤが祈りと共に成長していったであろうことを示唆している、と教皇は述べた。その頂点として、ホレブ山でエリヤの前を主が通られた出来事(参照:列王記上19,9-13)を観想された教皇は、主は、激しい嵐や、地震や、火の中にではなく、「静かにささやく声」の中にご自身を現わされたように、神は疲れ意気消沈した人間に優しい息吹をもって会いに来られ、人の心に安らぎと平和を取り戻させてくださる、と話された。

エリヤの物語はわたしたちのために記されたかのようである、と語る教皇は、祈りの中でわたしたちもエリヤのマントの裾に触れることができ、過ちや怖れの中で、祈りをもって神に立ち返ることで、奇跡のように落ち着きと平和が戻って来るだろう、と説かれた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために07 10月 2020, 15:52

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「権威とは、奉仕」教皇、日曜正午の集いで

バチカン放送日本語課[2020.10.4.]より

新回勅「Fratelli tutti」が発表された10月4日(日)、教皇フランシスコは、正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「ぶどう園と農夫」をめぐり説教を行われた。

 10月4日(日)、教皇フランシスコは、バチカンで正午の祈りを唱えられた。

 教皇の新回勅「Fratelli tutti(フラテッリ・トゥッティ)」が発表されたこの日、バチカンの広場には多くの信者らが集い、教皇とその喜びを分かち合った。

 教皇は信者に向けた挨拶で、ご自身の三番目の回勅にあたる「Fratelli tutti」は、兄弟愛と社会的友愛を扱ったものであると説明された。

 また、先月初日より、他のキリスト教教会と共に記念されていた、被造物を保護するための祈りと行動の 月間、「被造物の季節」が、この日終了したことから、教皇は統合的エコロジーのために取り組む多くのカトリック系の運動関係者に挨拶をおくられた。

 同時に、教皇は、この10月4日、海洋で働く人々を支える司牧活動、ステラ・マリスが、スコットランドで誕生してから百年を迎えたことを紹介。この重要な節目を機会に、船員・漁業従事者とその家族らに教会の寄り添いを伝える、司祭やボランティアたちを温かく励まされた。

 さらに、教皇は同日イタリア・ボローニャで、オリント・マレッラ神父(1882-1969)の列福式がとり行われたことを報告。キリストの聖心に従い、貧しい人々の父、弱き者たちの擁護者として生涯を捧げた同神父を、多くの司祭たちの模範、神の民のための謙遜で勇敢なしもべとして思い起こされた。       

 この日、教皇はお告げの祈りに先立つ説教で、マタイ福音書の「ぶどう園と農夫」のたとえを取り上げ、次のように説教を行われた。

**********

 今日のミサの福音において (参照:マタイ 21,33-43)、イエスはご自分の受難と死を予見し、誤った道を歩もうとしている祭司長や長老たちを諫めるために、ぶどう園の邪悪な農夫たちのたとえ話を語られています。

 祭司長や人民の長老たちは、悪意ある計画を練り、イエスを亡き者にする方法を探していたのです。

 たとえ話は、自分のぶどう畑の世話を十分にしたぶどう園の主人を描いています。

 旅に出なければならない主人は、農夫たちにそのぶどう園を任せて出発しました。

 そして、収穫の時が近づいた時、主人は自分の僕たちを収穫の受け取りのために送りました。しかし、ぶどう園を託された農夫たちは、主人の僕たちを歓待するどころか、虐待し、かつ、あろうことか殺害してしまいます。ぶどう園の主人は、さらに多くの僕たちを送り込みます。しかし、彼らも前の僕たちと同様に取り扱われてしまいます (参照:同 21,34-36)。

 主人が、僕たちではなく、自分の一人息子を送ろうと決めた時に、最悪の事態が起こります。農夫たちは、主人の息子に対しても何らの尊敬も払わず、かえって彼を亡き者にすれば、ぶどう園を自分たちのものとすることができるのだと思い込みます。そして、主人の一人息子を殺害してしまいます(参照:同 21,37-39)。

 ぶどう園のたとえ話が意味するところは明らかです。主が心を込めて世話し、選んだのは、神の民です。主人から送られる僕たちは、神から送られた預言者たちのことです。そして、主人の一人息子は、イエスご自身です。預言者たちが拒絶されたように、キリストも退けられ、殺害されました。

 この話の最後に、イエスは民の頭たちに質問します。「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」 (同 21,40)。彼らは、話の当然の帰結として、自分たち自身の懲罰を宣言します。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」(同 21,41)。

 主は、大変厳しいこのたとえ話をもって、聞く者たちにはっきりとその責任に気づくよう仕向けます。この戒めは、かつてキリストを拒否した者たちに向けたものだと思い違いしないようにしましょう。それは、すべての時代の人々、わたしたち自身にも向けられているのです。今日もまた神は、ご自分がそのぶどう畑に送り込んだ人々、すなわち、わたしたち皆から、収穫を期待しておられます。

 いかなる時代にも、権威を持つ者は、それがいかなる権威であっても、教会においても、また社会においても、神のためにではなく、自分の利益のために、権利を利用する誘惑に出会います。イエスは、本物の権威とは、他者に奉仕するためであって、他者を搾取するためではないと言われます。

 ぶどう園は主のものであって、わたしたちのものではありません。権威とは、奉仕です。ですから、権威は人のために行使されるべきであって、福音を広めるため、すべての人々の善のために、行使されなければなりません。 教会の中でも、権威ある者たちが自分自身の利益だけを考えているのを見るのは、大変悲しいことです。

 使徒聖パウロは、今日のミサの第2朗読の中で、どのようにして主のぶどう園における善い農夫になれるかを語っています。真実で、気高く、正しく、清く、愛すべき、何らかの徳や称賛に値することは、毎日の絶え間ない努力の結果だと言っています(参照:フィリピ 4,8)。

 このようにすれば、わたしたちはますます聖性に富んだ教会となれるでしょう。限りない優しさをもってわたしたちを愛してくださる御父に、また救いを与え続けてくださる御子と、わたしたちの心を開きより豊かな善に向けて押し出してくださる聖霊に、光栄を帰することができるでしょう。

 聖母マリアに心を向けましょう、そしてロザリオの月であるこの十月に、聖なるロザリオの祈りへの熱心を新たにしましょう。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために04 10月 2020, 18:45

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