フランシスコ教皇メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「相互の協力のもと、未来を共に築く」教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.9.23.]より

教皇フランシスコは、一般謁見で、未来を共に築くための「補完性の原則」について考察された。

教皇フランシスコは、9月23日、バチカンで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この日は、曇りがちで時おり雨の降る天候となったが、会場のバチカン宮殿・聖ダマソの中庭には、教皇との出会いのために熱心な参加者らが集った。

謁見中、パンデミック危機における「世界のいやし」をテーマにしたカテケーシス(キリスト教生活に導くための、キリスト教要理の教え)で、教皇は、「補完性と希望」について考察された。

教皇は、医療を始め、社会、政治、経済に及ぶ現在の危機から脱するために、わたしたち一人ひとりが自分の責任を担うように招かれていると述べた。

そして、その招きに純粋な個人として応えるだけでなく、自分が帰属する共同体や、社会における役割、原則や信仰上の立場からも応えていかなくてはならない、と話された。

しかしながら、社会の中で疎外・無視されている人々や、経済的・社会的に埋もれた立場にある人々は、共通善の再構築に参与することができないという現実を教皇は指摘された。

こうした中、教皇は、1929年の大恐慌の後にピオ11世が回勅「クヮドラジェジモ・アンノ」で示した、「補完性の原則」の重要性に言及された。

「補完性の原則」(サブシディアリティ)は、上から下へ、下から上へと、2つのダイナミックな動きを持つもの、と教皇は説明。

個人や家庭、小さな組織や地域共同体が、本質的な目標に達することができない時、国家のような、より大きい社会集合体が、必要な財源や手段を供給するなどして、その前進を助けるのは正当なことであり、たとえば、新型コロナウイルス感染拡大防止を目的とした「ロックダウン」のために、経済的影響を受けた個人や家族や企業などに公的援助が行われたことは、これにあたる、と述べられた。

社会の指導層は、中間層あるいは弱い立場の人々を尊重し、擁護しなくてはならない。一方で、これらの人々は、自らの文化・宗教・経済的リソース、あるいは社会的参加をもって、社会全体の再活性化、強化に貢献する。教皇はこのような双方向性の協力の必要を説かれた。

あなたが貧しい人のために働くことは素晴らしいことであるが、貧しい人にすべきことを一方的に教えるだけならば、それは誤ったやり方である、とも教皇は述べ、まず貧しい人がどのように暮らし、何を必要としているかをあなたに話すことが大切であり、このようにすべての人が話す場を持たなければならない、と、「補完性の原則」に必要な態度をこのように表された。

危機をより良い形で克服するには、最も貧しい人々をはじめ、すべての人の自主性と取り組み能力を尊重しながら、「補完性の原則」を実践する必要がある、と教皇は述べた。

体においてはすべての部分が必要であり、特に「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要」である(参照: 1コリント 12,22)、と、教皇は聖パウロの言葉を引用。

このイメージの光のもとに、「補完性の原則」は、社会のケアと未来のために、一人ひとりが自分の役割を担うことを可能にすると言え、その実践はより健全で正義ある未来への希望を与え、わたしたちはその未来を、より大きな望みを抱きつつ、共に築いていくことができるようになる、と話された。

以前のカテケーシスで、危機から脱するための道として「連帯」について考察したことを振り返りながら、教皇は、この連帯の道には「補完性の原則」が必要と指摘。社会参加のない連帯は存在せず、すべての人々、特に家庭や、組織、小さな企業などの社会の中間を成す層の貢献が不可欠と語られた。

「ロックダウン」中に、医師や看護師らに対し、励ましと希望のしるしとして、人々から自然に拍手が沸き起こったように、わたしたちは、高齢者や子どもたち、障害者、労働者、様々な奉仕者など、社会を構成するあらゆる人々のそれぞれの貴重な貢献のために、拍手の輪を広げていこう、と教皇は招いた。

そして、拍手だけにとどまらず、希望をもって、社会の正義と愛の理想を追求しながら、より大きな夢に向かって励まし合い、不平等で病んだ過去を取り戻すのではなく、地域的側面とグローバル的側面が相互の豊かさを育て、少数派の美しさと豊かさが花開き、持つ人が持たない人のために奉仕する、新しい未来を築いていこう、と呼びかけられた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために23 9月 2020, 16:07

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教理省書簡「サマリタヌス・ボヌス」安楽死はいのちに対する犯罪

バチカン放送日本語課[2020.9.22.]より

教皇庁教理省は、9月22日、生命倫理をめぐる書簡「サマリタヌス・ボヌス」を発表した。

教皇フランシスコの承認のもと発表された、「重篤段階および終末期にある患者の治療」

をテーマにしたこの書簡は、あらゆる形の自殺ほう助に反対すると共に、家族と医療従事者に対する支援の必要を説いている。

VATICAN NEWS

「治らない患者は、治療できない患者では決してない」と同書簡は述べ、終末期にある患者は、受け入れられ、ケアされ、愛される権利があると強調している。

この書簡の目的は、福音書の「善きサマリア人」のメッセージを実践するための、具体的な指針を提供することにある。同文書は「治ることが不可能またはその可能性がないように思われる」時でも、「医療・看護的、心理的、霊的な寄り添いは避けることのできない義務である」と述べている。

治らないことは、治療ができないということではない
「回復の可能性がある限り、常に治療がある」。ヨハネ・パウロ二世のこの言葉は、治らないことは、治療ができないことと決して同じではない、ということを説明している。寄り添い、耳を傾け、愛されていることを感じさせながら、最後までケアし、病者と「共にいること」で、孤独や、苦しみや死への怖れを避けることができる。この文書は、福音とイエスの犠牲の光のもとに、苦悩や苦しみの意味を見つめている。

いのちの不可侵の価値
「侵すことのできないいのちの価値は、自然倫理法の柱となる真理であり、法秩序の本質的基礎である」と同書簡は記している。「たとえそれが要求されたとしても、人命に対する攻撃を直接選択することはできない」。「堕胎、安楽死、また意図的自死は、人類文明を損ない」「創造主の名を深く傷つける」と文書は述べている。

いのちの聖なる価値を曇らせるもの
同文書は、いのちの価値を受容する力を削ぐ、いくつかの原因を挙げている。たとえば、その原因の一つに、ある種の精神や身体の状態がなければ「値する」人生とは言えない、という考えがある。また、「同情・憐み」の誤った解釈も、いのちの受容を妨げる要因である。真の憐みとは「死をもたらすこと」にあるのではなく、病者を愛情と共に受け入れ、苦しみを和らげる手段をもって支えることにある。また、人を孤独に導く個人主義の拡大も、別の要因の一つである。

教会の教え
教会の最終的な教えは、安楽死は「人命に対する犯罪」であり、あらゆる状況において「本質的に悪い」行為ということである。これに対するあらゆる形式的あるいは即時の物理的な協力は、人命に対する重大な罪であり、いかなる権威もこれを「合法的に」強要する、あるいは許可することはできない。安楽死に関する法律を承認する者は、「それゆえに、加担者となる」。また、これらの法律は良心を歪めさせることから、「人々をつまずかせる罪」を負うことになる。絶望や苦悩が安楽死を願う個人の責任を減少させる、あるいは存在しないものにすることがあっても、安楽死的行為は、認容できないものとして残る。

過剰な延命治療をなくす
同文書は、「尊厳ある死を守る」とは、過剰な延命治療を排除することを意味する、と説明する。避けられない間近に迫った死を前に、一時的で苦しみを与えるだけの延命処置を断念することは、正当なことである。しかし、その際、病者に当然与えられるべき通常のケアが中断されることがあってはならない。栄養と水分の保証は、一つの義務である。緩和ケアの中に、安楽死の可能性は決して含まれてはならない。一方で、同書簡は、緩和ケアに、病者とその家族に対する精神的な支援を含めている。

家族を支援する
ケアにおいて、病者が自分を重荷に感じることなく、「家族の寄り添いと尊重に包まれていることは不可欠であり、この使命のために、家族は支援とふさわしい手段を必要としている」。国々は、「家庭が持つ第一の基本的な社会的機能とそのかけがえのない役割を認識し、この分野においても、家庭を支えるための、必要な予算とシステムを整備することが必要である」。

胎児期と幼少期のケア
形成異常や疾患を持つ子どもは、受胎の時から、「いのちを尊重する方法」をもって寄り添われるべきである。「短期間内に死が確実視される胎児の疾患」で、その病状を改善させる治療法がない場合、「いかなる方法によっても、子どもが医療支援計画から見捨てられることなく」自然の死に至るまで「見守られる」ようにと、文書は述べている。また、「時に強迫観念的なまでの出生前診断」の利用を批判すると共に、障害を拒絶する文化を指摘。堕胎が「正当であることは決してない」と強調している。

深い鎮静
苦痛を軽減するために、意識を低下させる可能性のある薬を用いることがある。教会は、「いのちの終わりを可能な限り平安のうちに迎えることができるように」との目的において、「鎮静の正当性」を明言している。これは「死が近づいている」場合、終末段階の深い緩和的鎮静においても同様である。しかし、「直接的かつ意図的に死をもたらす」ために、鎮静が行われることは容認できない。

植物状態
意識がない状態の場合でも、病者は「その価値を認められ、ふさわしい治療と共に看護されなければならない」。病者は栄養・水分補給される権利がある。しかし、それ以上効果がない、その処置を行うための手段が過度の負担を生むなど、「こうした処置が不均衡になりうる」場合がある。同文書は、「植物状態患者の看護の長引く負担において、家族に対するふさわしい支援の必要」を述べている。

良心的拒否
同書簡は、地方教会が立場を明らかにし、カトリック系医療機関が自らの証しをすることを願っている。安楽死を認可する法律は、実際、「良心的拒否をもってそれに抗する重大かつ厳格な義務」を提起している。死に面した人々に寄り添えるよう、医師や医療従事者が養成を受けることが重要である。安楽死を望む人への精神的支援には、「回心を常に促す寄り添いが必要」であるが、たとえば、万一にもそれが行われる時、その場に居るなどの、「『賛成』と解釈されうる、外面的ないかなる態度も認められない」。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために22 9月 2020, 15:49

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「召し出し、恵みをくださる神」を観想、教皇、日曜正午の集いで

バチカン放送日本語課[2020.9.20.]より

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、マタイ福音書の「ぶどう園の労働者」のたとえを観想された。

教皇フランシスコは、9月20日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

祈りの前に、教皇はこの日の福音朗読箇所、「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ20,1-16)をめぐり説教を行われた。

ここでは、ぶどう園で一日働くように雇った労働者たちに対する、主人の対応が描かれる。イエスは、このたとえを通して、「召し出し」、そして「報酬」を与える主人=神の、驚くべき態度をわたしたちに示している、と教皇は話された。

このたとえはまず「召し出し」で始まる。ぶどう園の主人は、夜明け、九時、十二時、三時、五時と、一日に五回も出かけて、自分のところで働くようにと、労働者たちを呼びに行く。

主人が自分のブドウ園の働き手を探すために、何度も広場に足を運ぶ姿は感動的である、と教皇は語り、この主人によって表される神は、すべての人をいつでも呼んでおられ、今日も、ご自分の王国で働くようにと、すべての人を招いておられる、と説かれた。

ご自身の愛の計画から誰もが除外されることがないように、自ら外に出かけ、人々を探し続ける、これが神のなさり方であり、わたしたちもそれを受け入れ、それに倣わなければならない、と教皇は話された。

わたしたちの共同体も、イエスの救いの言葉をすべての人にもたらすために、様々な形の「境界線」を越えて外に出るよう招かれている、と述べた教皇は、外に出れば事故の危険があることは確かだが、閉じこもり、病んだ教会より、福音のために外に出て、問題にぶつかる教会の方が良い、と語られた。

このたとえでぶどう園の主人として描かれる神は、次に労働者たちに「報酬」を支払う。主人は早朝に雇った労働者たちに、一日につき「一デナリオン」を約束し(マタイ20,2)、その後に来た者たちには、「ふさわしい賃金を払ってやろう」(同20,4)と言った。

そして、夕方になると、ぶどう園の主人は、すべての労働者に同じ賃金、すなわち一デナリオンを支払うよう、監督に命じた。すると、朝早くから働いていた者たちは、主人が後から来た者たちも同様に扱うことに不平を言った。しかし、主人は、最後の者を含めて、すべての人に同じように支払ってやりたいのだ、と主張した(参照:同20, 8-15)。

イエスはこのたとえで、労働と適切な賃金についてではなく、神の御国と天の御父の慈愛について語っている、と教皇は説明。

実際、神は時間や結果ではなく、わたしたちが神のために奉仕したその寛大さをご覧になる、と話された。

神の働きは、単なる正義を越えて、恵みとして表される。すべては恵み、わたしたちの救い、わたしたちの聖性も恵みである、と教皇は強調された。

わたしたちが恵みを願うならば、神は、わたしたちがそれをいただくにはふさわしくないほどの、より大きな恵みをくださる、と述べた教皇は、人間の論理をもって、自分の才能で得た功績を基準に考える者は、先にいても後になり、謙遜をもって、御父のいつくしみに自分をゆだねる者は、後にいても先になる(参照:同20, 16)と話された。

ご自身のために働くようにとの神の呼びかけを、わたしたちが毎日喜びと驚きをもって聞き、その唯一の報酬として、神の愛とイエスとの友情を受け取ることができるようにと、教皇は聖母の助けを願われた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 9月 2020, 16:05

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教皇、ベルギーのキリスト教系雑誌の関係者と

バチカン放送日本語課[2020.9.18.]より

教皇フランシスコは、ベルギーのキリスト教系雑誌の関係者とお会いになった。

教皇フランシスコは、9月18日、キリスト教系雑誌の関係者とお会いになった。

この日、教皇宮殿を訪れたのは、ベルギーのキリスト教系週刊誌「テルティオ」の関係者。この訪問は、同誌の創刊20年を記念して行われた。

教皇は、同誌の名前が、第三千年期に向けてキリストとそのメッセージに心を開くよう招く、聖ヨハネ・パウロ2世の使徒的書簡「テルティオ・ミレンニオ・アドヴェニエンテ(邦題:紀元2000年の到来)」に由来していることに言及。

こうした由来と姿勢は、世俗化するメディアの世界において、この雑誌を、人々に希望を呼びさまし、教会の声に耳を傾けさせ、より豊かで建設的な考察に招くものとした、と話された。

また、この雑誌がキリスト教系メディアに与えた貢献、キリスト教共同体に自由で新しい生き方をもたらしたことを教皇は評価された。

教会における報道の重要さを示しながら、教皇は、キリスト者のジャーナリストたちは、真理を隠したり、情報をゆがめることなく、メディアの世界に新しい証しを与える、「語り」の主役となる必要がある、と話し、関係者らを励まされた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために18 9月 2020, 16:49

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高齢や病気の司祭の集いに、教皇のメッセージ

バチカン放送日本語課[2020.9.17.]より

教皇フランシスコは、イタリア・ロンバルディア州の司教らによる、高齢や病気の司祭との祈りと交流の集いにメッセージをおくられた。

イタリア北部ロンバルディア州の諸教区の司教と、高齢もしくは病気の司祭との集いに、教皇フランシスコはメッセージを寄せられた。

ロンバルディア司教協議会は、毎年、司教たちと、お年寄りの司祭および療養中の司祭たちとの、祈りと交流を目的とした出会いを行っている。今年は、新型コロナウイルス感染拡大防止のための様々な制約の中にも、カラヴァッジョの聖母巡礼聖堂を会場に、恒例の集いを無事行うことができた。

教皇は、メッセージの中で、この集いが示すように、自分たちの司祭団のお年寄りや病者に向ける司教たちの配慮と関心を喜ばれた。

特に、教皇は、参加者の司祭たちの、神と教会への誠実な愛、いのちの福音を静かに告げるその生き方、教会の明日を築くための生きた記憶に感謝の言葉を述べられた。

パンデミックのために、数か月の間、わたしたちは限られた空間で、家族や友人との触れ合いさえ欠如した生活をおくり、人間存在のもろさを知ることになったが、実は、これらはお年寄りや病者の皆さんが日頃体験していることである、と教皇は指摘。この期間を、人々との出会いの素晴らしさを味わい、自分は一人で何でもできるという驕りから治るための、恵みの時としなければならない、と記された。

わたしたち司祭の生活においても、このもろさは、わたしたちを神に向かって立ち上がらせ、純化し、聖化する、「精錬する者の火、洗う者の灰汁」(マラキ3,2)となりうるだろう、と教皇は述べ、「苦しみを恐れてはならない。主がわたしたちと一緒に十字架を担いでくださる」と励まされた。

教皇は、特に新型コロナウイルスのために亡くなった多くの司祭、現在回復のために励んでいる人々を思いながら、おとめマリアに司祭たちを託された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために17 9月 2020, 16:42

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「勇気をもって赦しの力に自らを開く」教皇、日曜の集い

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、マタイ福音書の「憐み深い王と仲間を赦さない家来のたとえ」をテーマに説教を行われた。

教皇フランシスコは、9月13日(日)正午、バチカンで「お告げの祈り」を巡礼者と共に唱えられた。

祈りの前に、教皇はこの日の福音朗読箇所(マタイ18,21-35)を取り上げ、説教を行われた。

この箇所で、イエスは、憐み深い王と仲間を赦さない家来のたとえを用いて、赦しについて教えている。

教皇は、このたとえ話で繰り返される「どうか待ってください。きっとお返しします」という嘆願の言葉(参照:マタイ18,26、18,29)に耳を傾けつつ、家来の多額の借金を憐みから帳消しにする王と、王からその憐みを受ける一方で自分が仲間に貸した金は厳しく取り立てる家来の、二つの異なる態度を比較された。

このたとえ話の中心は、家来の一万タラントンもの借金を帳消しにする、主君の憐みに満ちた赦しにある、と述べた教皇は、その負債は膨大な額だけに、赦しも非常に大きいものである、と話された。

しかし、そのすぐ後で、この家来は、自分に借りがある仲間に対して、容赦ない態度を見せる。家来は仲間に百デナリオン貸していたが、待ってほしいとの願いに耳を貸さず、借金を返すまでと、仲間を牢に入れてしまった。

ここでは王にたとえられている、神の態度において、正義はいつくしみに満ちているが、それに対し、人間の態度は単なる正義に止まっている、と教皇は指摘。

人生において、正義だけではすべての物事は解決しないゆえに、イエスはわたしたちに、勇気をもって赦しの力に自らを開くようにと励ましている、と述べられた。

いつくしみの愛の必要について、イエスは、このたとえ話に先立つ「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(マタイ18,21)というペトロの質問に、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(同18,22)と答えている。

もし、わたしたちが生きる上で赦しといつくしみを身に着けていたならば、いったいどれだけの苦しみや争いを避けることができただろうか、と問う教皇は、いつくしみの愛を、家族、共同体、教会、社会、政治など、すべての人間関係にもたらすべき、と説かれた。

人は平和な時には赦すことができても、後で怨恨が再び頭をもたげることもある、とも教皇は述べ、赦しとはその時だけのものではなく、保たれていくべきもの、と話された。

教皇は、このたとえ話は、「主の祈り」の一文、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します」(マタイ6,12)の意味を豊かに受け取ることができるように助けるもの、と語り、わたしたちが他者を赦せないならば、神の赦しを自分たちのために求めることはできない、と強調された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 18:49

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教皇、コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を悼む

バチカン放送日本語課[2020.9.17.]より

貧しい人々に奉仕しする中、一人の被支援者によって殺害された、イタリア・コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を、教皇は一般謁見の席で祈りと共に思い起こされた。

教皇フランシスコは、9月16日、一般謁見の席で、前日イタリア北部コモで殺害されたロベルト・マルジェシーニ神父(51)を「慈愛の証し人」として思い起こし、冥福を祈られた。

マルジェシーニ神父は、9月15日、コモ市内の聖ロッコ教会で、人々に配布する朝食を準備する中、一人の精神障害を持つ路上生活者によって殺害された。同神父は、コモ教区の福者スカラブリーニ司牧共同体で、貧しい人々の支援の第一線に立っていた。

教皇は一般謁見の中で、貧しい人々に尽くしたマルジェシーニ神父を悼み、次のように参加者らを祈りに招かれた。

「この場で、コモ教区のロベルト・マルジェシーニ神父を思い起こしたいと思います。マルジェシーニ神父は、昨朝、彼自身が支援していた、精神障害を持つ一人の貧しい人によって殺害されました。

マルジェシーニ神父のご遺族と、コモの教会共同体の悲しみと祈りに心を合わせたいと思います。コモ司教の言葉にあるように、マルジェシーニ神父の殉教、最も貧しい人々への慈愛の証しのために、神に賛美を捧げます。

ロベルト・マルジェシーニ神父のため、そして、貧しく疎外された人々のために働くすべての司祭、修道者、信徒のために、沈黙の祈りを捧げましょう」

ロベルト・マルジェシーニ神父は、1969年、イタリア北部ロンバルディア州ソンドリオ県に生まれた。銀行員として3年間働く中で、神学校に入りたいとの思いを育んだ。1998年、司祭叙階。コモ教区の2つの小教区で助任司祭を務めた後、2008年より、福者スカラブリーニ司牧共同体(2小教区の合併による共同体)の協力司祭として、司牧にあたっていた。

マルジェシーニ神父は、ドン・ロベルト(ロベルト神父)と呼ばれ、貧しい人や移民たちから、父のように親しまれていた。ロベルト神父の死は、共同体を深い悲しみで包んだ。

コモ教区のオスカル・カントーニ司教は、ロベルト神父は会うたびに自身の活動を報告しつつ、その中に素晴らしい現実を見出していた、と語り、同神父が喜びをもって行っていた貧しい人々への奉仕は、「召命の中の召命」だった、と振り返った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために17 9月 2020, 11:15

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「観想し、世話をする」人間と自然の関係を取り戻す道、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.9.16.]より

教皇フランシスコは、一般謁見で、自然を観想し、いたわることの大切さを説かれた。

教皇フランシスコは、9月16日、バチカンで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

バチカン宮殿の聖ダマソの中庭を会場としたこの謁見には、およそ500人の信者が参加した。

この日、教皇は、パンデミック危機における「世界のいやし」をめぐるカテケーシスで、わたしたちの「共通の家」である地球を保護し、自然を観想することの大切さについて講話された。

パンデミックから脱するには、自分たちだけではなく、互いのケアが必要であり、特に最も弱い立場に置かれた人、病者、高齢者などを支えることが大切である、と教皇は述べた。

世話をしていたわること、それは人間の黄金律であるが、わたしたちはそのいたわりを、大地やすべての生物にも向けなければならない、と話された。

すべての命は相互のつながりを持ち、わたしたちの健康は、神が創造し、わたしたちにその世話を託した、生態系の健康に依存している、と教皇は述べ、そこから搾取し、自然を破壊することは、重い罪であると説かれた。

わたしたちの「共通の家」を搾取しないための最良の対抗策は、「観想すること」である、と教皇は強調。

美しいものを前に立ち止まり、それを尊重することを学べないならば、すべてのものが無分別な利用・搾取の対象物となってもおかしくない、と話された。

わたしたちの共通の家、被造物は、単なる「資源」ではなく、その一つひとつが独自の価値を持ち、それぞれのあり方を通して、神の無限の叡智と愛を反映している、と述べた教皇は、その価値と神の光を見出すには、沈黙し、耳を傾け、観想することが必要、と語られた。

そして、この観想なしでは、人間を他のすべての被造物の支配者とみなす、均衡を欠いた高慢な人間中心主義に陥り、自ら神の座を占めようとしながら、調和を破壊してしまう、と警告された。

教皇は、いのちを守るという自分たちの召命を忘れる時、わたしたちは略奪者になってしまう、と話し、わたしたちは生き、発展するために大地を耕すが、それは搾取を意味せず、常にわたしたちの使命である「世話」を伴うものでなくてはならない、と説いた。

わたしたちが観想する時、他者や自然の中に、その有用性よりもっと大きな何かを見出し、神がそれぞれに与えたかけがえのない価値を発見することができる、と教皇は観想の重要さを指摘。

わたしたちを思いやりの行為に導く観想は、自然を外から眺めるのではなく、自然の中から、自分を自然の一部と認識することで得られるものであり、その視点はわたしたちを単なる自然の傍観者ではなく、それを守る者とする、と話された。

また、観想を知る者は、環境破壊や健康の害になる原因を変えようと働き、生産と消費の新しい習慣の教育と推進、「共通の家」と人間を尊重した新しい経済成長モデルに貢献するよう努力する、と語られた。

「観想」し、「世話」をすること。人間と自然との関係を正し、再びバランスを取り戻すための道として、教皇はこの二つの態度を示された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために16 9月 2020, 15:58

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教皇「常に対話と和解の促進を」世界各地の市民デモに

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、世界各地の市民による抗議デモが平和的であるよう希望すると共に、市民の人権と自由を尊重しながら、その声に耳を傾けるよう、治世者らに呼びかけられた。

教皇フランシスコは、9月13日(日)、バチカンで行われた正午の祈りで、世界各地で行われている数多くの市民の抗議デモに触れられた。

これらのデモは、政治・社会の危機的状況を前にした市民社会の困難の増大を表すもの、と教皇は述べた。

教皇は、デモに参加する人々に、自分たちの請求を、攻撃的態度や暴力への誘惑に陥ることなく、平和的な形で伝えるようにと希望された。

一方で、公的責任者、政府関係者に対し、人権と自由を尊重しながら、市民の声に耳を傾け、その正当な切望に歩み寄るようにと呼びかけられた。

また、教皇は、こうした社会状況の中にある教会共同体に向け、司教らの指導のもとに、常に対話と和解の促進のために働くようにと願い、赦しと和解の重要さを示された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 17:19

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ギリシャ難民キャンプ火災:教皇、行き場失った人々に連帯

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、ギリシャの難民キャンプの火災で行き場を失った人々に、連帯を示された。

教皇フランシスコは、9月13日(日)の正午の祈りの集いで、先日ギリシャの難民キャンプで発生した火災に言及、避難所さえ失った難民たちの身の上を案じられた。

およそ1万3千人が生活するレスボス島モリア難民キャンプで、9月9日発生した火災により、キャンプ施設の大部分が焼失、多くの難民・移民が行き場を失った状態になっている。

この席で教皇は、2016年4月にレスボス島の難民キャンプを訪問した際、エキュメニカル総主教バルソロメオス1世と、アテネおよび全ギリシャ大主教イエロニモス2世と共に「移民、難民およびヨーロッパに亡命を求める人々に、人間的で尊厳ある受け入れ」を保証するようにアピールしたことを改めて思い起こされた。

教皇はこの悲劇的な出来事のすべての被災者に、連帯と精神的一致を表明された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 15:59

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