フランシスコ教皇メッセージ」カテゴリーアーカイブ

主の公現:教皇「神の光はいかなる闇よりも強い」

 「主の公現」を祝った1月6日(水)正午、教皇フランシスコはバチカン宮殿の図書室で、お告げの祈りを唱えられた。

 この朝、聖ペトロ大聖堂で「主の公現」の祭日のミサを捧げられた教皇は、お告げの祈りの説教で、世を照らす光としてのイエスを観想された。

 教皇の「主の公現」の祭日のお告げの祈りの説教は、以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日、わたしたちは主のご公現の祭日を記念します。主の公現とは、すべての人々に主が現れたことを祝いします。事実、キリストによって実現された救いに、国境はありません。主の公現は、主の降誕と異なる別の神秘ではなく、同じ神秘です。ただ、主の公現では、光の観点が強調されています。すべての人々を隈なく照らす光です。それはまた、信仰の中に捉えるべき光であり、愛徳と福音宣教において他の人々にももたらさるべき光です。

 今日の典礼で引用されたイザヤ預言者の言葉(参照:イザヤ60,1-6)は、この時代、特に現実味を帯びています。「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」(同60,2)。このような状況の中で、預言者は光を告げます。この光は、遠くの者も近くの者も、すべての人々を惹きつけます。そして、皆、この輝きに向かって歩み始めます(同60,3)。胸いっぱいに新鮮な空気を吸うように、希望に心を開かせる情景です。

 もちろん、誰の人生にも、人類の歴史にも、常に闇と脅威は存在します。しかし、神の光は、いかなる闇よりも強いのです。問題は、すべての人々を照らすべく、この光を受け入れることです。では、この光はどこにあるのでしょうか。イザヤ預言者は、この光を遠くから垣間見ていました。しかし、それはエルサレムの人々の心を抑えがたい喜びであふれさせるのに十分でした。

 福音記者マタイは、東方からの博士たちのエピソードを伝えながら、この光とはベトレヘムで誕生したあの幼子である、と言っています (参照:マタイ2,1-12)。その幼子は王であるとすべての人が認めたわけではありません。しかし、このイエスこそが世を照らす光でした。地上に現れた星であるイエスは、待ちに待たれた救い主です。神は、イエスを通して、その愛と正義と平和の王国を実現されます。イエスは、ある人々のためではなく、すべての人、あらゆる民のために生まれました。

 この光は、どのように照らすのでしょうか。キリストの光は、いかにしてあらゆる場所と時代に広がるのでしょうか。それは、常に支配を手に入れようとする、この世の権力者を通してではありません。福音を告げ知らせることを通してです。神がわたしたちの間においでになるために選ばれたものと、同じ「方法」によってです。それは、ご託身、すなわち人々と同じようになることを通してでした。愛そのものである神の光は、このようにすべての人々を照らし、惹きつけるのです。星は、キリストです。救い主がすべての人に無償でくださる、無限のいつくしみと善意の宝の証人として、わたしたちも兄弟姉妹たちのために同じように星になることができ、またならなければなりません。

 必要とされるのは、この光を自分の中に受け入れ、より深く迎え入れることです。わたしたちも、あの博士たちのように、星に魅了され、導かれ、照らされ、キリストに向かって回心するよう招かれています。それは、わたしたちを喜びと新たな驚きで絶えず満たし続ける神のみ業の観想と、祈りを通しての信仰の歩みです。

 すべての人々の光であるキリストの福音があまねく世界に広まるよう、全教会の上に聖母マリアのご保護を祈りましょう。

06 1月 2021, 15:40

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「互いにいたわり合い、自然を大切に」教皇、新年の歩みに励まし

教皇フランシスコは、2021年1月3日(日)、正午の祈りをバチカン宮殿で唱えられた。

 教皇フランシスコは、2021年1月3日(日)、正午の祈りをバチカンからビデオを通して行われた。

 このお告げの祈りの後半、新年の挨拶をあらためておくられた教皇は、運命論的なメンタリティーから離れ、神の助けのもと、物事はより良い方向に行くと信じ、弱く恵まれない人々を中心に据えながら、共通善のために皆で働こうと、すべてのキリスト者らを励まされた。

 教皇は、2021年がどのような年になるか、わたしたちは知らなくても、一人ひとりが、また皆が一緒にできることは知っている、と述べ、それは互いにいたわり合い、自然とわたしたちの共通の家である地球を大切にすること、と強調された。

 自分のことだけを考える誘惑、たとえば戦争の続行や、経済的利益のみへの関心、享楽的な生活など、多くの誘惑に教皇は注意を喚起しつつ、病気の人、困窮する人のことを考えずに、自分の楽しみや満足だけを追求することは非常に悲しむべきこと、と話された。

 そして、教皇は、特にこの新年を大きな困難の中で迎えた人々、病者、失業者、虐げられている人々、あるいは搾取されている人々に、思いを向けられた。

 また、教皇は、すべての家族に祝福をおくられた。とりわけ小さな子どものいる家庭や、子どもの誕生を待つ家族に、愛情のこもった挨拶をおくりながら、子どもの誕生は、いつも希望を約束するもの、と述べられた。

 教皇は、イエスは、良い時もそうでない時も、常にわたしたちと一緒にいてくださるために人となられた、と述べ、人々の新年の歩みを励まされた。

03 1月 2021, 16:49

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教皇「新年が兄弟的連帯と平和の年となるように」

典礼暦で「神の母聖マリア」を祝った2021年元日、教皇フランシスコは、お告げの祈りをバチカンより唱えられた。

 教皇フランシスコは、2021年1月1日(金)、正午の祈りをバチカン宮殿で唱えられた。

 前日の大晦日の晩課と、「神の母聖マリア」に捧げる元旦のミサの司式を、坐骨神経痛のために見送られた教皇は、元日正午にはお元気な姿を見せられ、今年最初の「お告げの祈り」を、テレビやラジオ、インターネットを通してつながる、世界中の信者らと共に唱えられた。

 典礼暦で「神の母聖マリア」を祝う新年最初の日、教皇は、聖母マリアの母としての愛情深い眼差しのもとに新しい年と人々の歩みをゆだねると共に、この日記念されたカトリック教会の「世界平和の日」(テーマ「平和への道のりとしてのケアの文化」)に言及された。

 教皇は、2021年が幸せで穏やかな年となるよう心から願いつつ、同時にこの年が兄弟的連帯と平和、信頼と希望の年となるよう、聖母に託して祈られた。

 教皇の2021年1月1日のお告げの祈りの説教は以下のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 新年おめでとうございます。

 今日、典礼は神の御母の祭日を記念します。聖母マリアの母としての愛情深い眼差しのもとに新年を託しましょう。そして、わたしたちの不安や苦しみを、何でもお出来になる聖母にゆだねながら、この新しい年を歩んでまいりましょう。

 聖母マリアはその御子イエスを見つめていたその同じ優しさを込めて、わたしたちをも見つめてくださいます。わたしたちに安心を与える、聖母の慰めに満ちた眼差しは、神から与えられたこの時を、人間的・霊的に成長し、憎しみや分裂をいやし、兄弟愛を呼び起こし、破壊ではなく築き、他者や自然をいたわる時とするよう励ましています。

 他者や自然をいたわること、これこそまさしく今日記念する「世界平和の日」のテーマです。今年の「世界平和の日」は、「平和への道のりとしてのケアの文化」をテーマとしています。

 過ぎた一年、人類の歩みに刻まれた苦しい出来事、特に新型コロナウイルスによるパンデミックは、他者の困難を思いやり、その心配事を分かち合うことを教えてくれました。この態度は、平和へと導く歩みです。なぜなら、こうすることで、真の兄弟愛に基づく社会を築き上げることができるからです。

 今、わたしたち一人ひとりが、毎日、自分が置かれたあらゆる場所で、慰めの言葉や、優しい行い、助けを必要とする兄弟たちの手を取ることを通して、平和を実現するよう招かれています。困っている人や必要に迫られている人々へのいたわりを妨げるあらゆる障害を取り除き、自分自身、また周りにいる人々と平和のうちに生きることを始めるならば、真の平和を実現できるでしょう。それは、今日残念なことに社会に広がる無関心や、切り捨ての態度、競争心に打ち勝つために、お互いを思いやる文化を築くということです。

 平和とは、ただ戦争がないというだけではありません。それは、各自の実現や、他者との兄弟的な分かち合いを生きる、豊かな意味に満ちた生活のことを言います。絶えず暴力や、利己主義、悪意によって脅かされている、皆が望むあの平和は、その時、実現可能となるのです。

 「平和の君」(イザヤ9,6)をこの世にもたらしてくださった聖母マリアが、人間の力だけでは実現不可能な、平和という貴重な賜物を、天からわたしたちのために得てくださいますように。平和は何よりも神の恵みです。絶えざる祈りによって懇願されるべきものです。忍耐強い対話と、相互の尊敬によって支えられ、真理と正義に開かれた協力によって樹立され、人々の正当な願望に応えるものです。

 わたしの心からの願いは、人々の心の中、家庭、仕事の場、あらゆる共同体や国々に、平和が行き渡ることです。

 今、新年を迎え、2021年がすべての人にとって、幸せで穏やかな年であるように心から願っています。この一年がすべての人にとって、兄弟的連帯と平和の一年、また信頼と希望の年となるよう、神の御母、またわたしたちの母でもある、聖母マリアのご保護にゆだねます。

01 1月 2021, 18:15

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2021年元日:教皇「聖母から人を思いやり愛することを学ぶ」

 2021年元日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、「神の母聖マリア」の祭日と、カトリック教会の「第54回世界平和の日」を記念するミサが捧げられた。

 教皇フランシスコは、坐骨神経痛のために、大晦日と元日の宗教儀式の司式を見送られた。こうしたことから、元旦のミサはバチカン国務長官ピエトロ・パロリン枢機卿によってとり行われた。

 パロリン枢機卿は、ミサの中で、教皇が用意した説教を読み上げた。

 この説教の中で神の母マリアを観想された教皇は、マリアは神とわたしたちの架け橋であるのみならず、神がわたしたちのもとに来られるために通られた道、同時にわたしたちもまた神の御許に到達するために通るべき道である、と述べた。

 わたしたちは死ぬためではなく、いのちを生み出すためにこの世界にいる、と述べた教皇は、「すべてを心に納めていた」(参照:ルカ2,19)神の母は、わたしたちのまわりの人にいのちを与える最初の一歩は、その人を自分の中で慈しむことである、と教えてくれる、と記した。

 心の中から善は生まれる。人を思いやり愛せるように心を強化することは重要である、と教皇は説いた。

 すべては、他者や、世界、自然をいたわることから始まる、と述べた教皇は、多くの人や物事と出会っても、それを大切にできなければ意味がない、とも記している。

 今年、世界に再生と新しい治療が期待される中、体へのワクチンだけでなく、思いやりという心のワクチンの必要を教皇は強調された。

 聖母がわたしたちに手を差し伸べてくださるように、わたしたちも他者をいたわることができるならば、この年は良い年になるだろう、と教皇は話された。

 教皇は、新年を聖母の保護に託しながら、わたしたちが神と人々のために時間を割くことを教えてください、と祈られた。

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降誕祭2020:教皇による夜半ミサの説教

 2020年12月24日(木)、クリスマスの夜半ミサをバチカンで司式された教皇フランシスコは、説教で神の御子の降誕を観想された。

 教皇フランシスコの2020年度の降誕祭の夜半ミサの説教は以下のとおり。

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 今日この夜、イザヤの偉大な預言が実現します。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」 (イザヤ9,5)。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 一人の子どもの誕生は、いつもわたしたちにとって大きな喜びです。それは何か特別な、素晴らしい出来事です。すべてを変え、力づけ、どのような苦労も、困難も、不眠の夜をも乗り越えさせる、何かを持っています。なぜなら、それは言葉では言い表せないほどの、大きな幸せをもたらすからです。すべての苦労は、その前で消え去ります。

 主の降誕は、まさしくこのようなものです。毎年祝われるイエスの誕生は、わたしたちを内部から生まれ変わらせ、あらゆる試練に打ち勝つ力を与えてくれます。そうです、なぜなら、イエスは、わたしたち、わたし、あなた、皆のために、お生まれになったからです。

 この聖なる夜に、何度も同じ言葉が繰り返されます。イザヤは言います、「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」。詩編では、「今日わたしたちのために救い主が生まれた」と繰り返しました。聖パウロは、イエスは「わたしたちのためにご自身を捧げられた」 (テトス2,14)と宣言しました。福音書の中でも、天使は「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2,11)と告げました。

 しかし、この「わたしたちのために」とは、何を意味しているのでしょうか。本来祝された方である神の御子が、わたしたちをも恵みによって祝された者とするために来られるのです。そうです、神ご自身が、わたしたちを神の子とするために、人の子としてこの世に来られるのです。なんとすばらしい恵みでしょうか。

 今日、神はわたしたちを驚かせます。わたしたち一人ひとりに「あなたは素晴らしい存在です」と言われるのです。兄弟姉妹たち、元気を出しましょう。何かの間違いだろうと、思うでしょうか。神はあなたに言われます。「いいえ、あなたはわたしの子です」と。無理だ、自分はそれにふさわしくない、と感じるかもしれません。トンネルから抜け出せない思いでいるかもしれません。神はあなたに言われます。「勇気を出しなさい、わたしはあなたと共にいます」。

 神は、それをただ言葉で言われるだけではありません。神ご自身が、あなたのように、あなたのために、人の子となってくださったのです。それは、あなたが毎回生まれ変わるための原点を思い起こさせるためです。その原点とは、あなたは神の子であるということです。これこそ、わたしたちにとって、この上ない希望、支えそのものです。わたしたちがいかに弱く、不完全で、不確かであっても、この真理がいつも基盤にあります。「わたしたちは、神から愛されている神の子らです」。

 神のわたしたちに対する愛は、今も、これからも、決してわたしたちによるものではありません。神の愛は無償です。完全に恵みなのです。今晩、聖パウロはわたしたちに「神の恵みが現れた」と言いました (テトス2,11)。これほど尊いことはありません。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 神なる御父は、わたしたちに何かをくださったのではなく、ご自身の喜びそのものである御独り子をくださったのです。しかし、神に対する人間の忘恩、また、兄弟たちに対する不正を見る時、問わずにはいられません。主はこれほど多くをわたしたちに与えられてよかったのだろうか。これでもわたしたちを信頼してくださるのだろうか。わたしたちを過大評価しているのではないだろうか。

 そうです、神はわたしたちの身の丈以上の信頼を寄せてくださるのです。なぜでしょう。それは、わたしたちを極限まで愛してくださるからです。神はわたしたちを愛さずにはいられないのです。神はわたしたちとはずいぶん違います。神はいつもわたしたちを愛しておられます。わたしたちが自分自身を愛する以上に、神はわたしたちを愛してくださいます。神は、わたしたちを救うため、内部からいやすための唯一の方法は、愛することだと知っているのです。神は、わたしたちがご自身の疲れを知らぬ愛を受けることによってのみ、より良い者になれることを知っておられます。ただイエスの愛だけが、わたしたちの生き方を変え、最も深い傷や、不満、怒り、嘆きをいやすことができるのです。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 暗い馬小屋の貧しい飼い葉桶の中に、まさしく神の御子がおられます。ここでまた問いがわき上がります。豪華な美しい宮殿で偉大な王としてではなく、なぜこのような夜に、ふさわしい宿もなく、貧しさと拒否の中に生まれなければならなかったのでしょうか。それは、神がわたしたちの人間的な状況をどこまで愛しているかを理解させるため、わたしたちの最も悲惨な状態にご自分の具体的な愛で触れるためでした。わたしたちが自分の弱さやみじめさを素直に受け入れることができるよう、神は弱く何もできない赤子の姿でこの世に来られました。ベツレヘムでのように、神は、わたしたちの貧しさを通して、偉大なことを成しとげられます。神は、わたしたちの救いのすべてを、馬小屋の飼い葉桶の中に置かれました。神は、わたしたちの貧しさを恐れませんでした。神の憐みが、わたしたちの惨めさを変えてくださいますように。

 これが、わたしたちのために神の御子が生まれた理由です。ここにもう一つの理由があります。天使は羊飼いたちに言いました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2,12)。飼い葉桶に横たわる幼子、これはわたしたちのためのしるしでもあります。ベツレヘムは、「パンの家」という意味です。神が飼い葉桶の中に横たわっています。それは、生きるためにパンを食べる必要があるように、わたしたちが神を必要としていることを思い出させるかのようです。わたしたちは、神の無償の、疲れを知らぬ、具体的な愛を必要としています。どれほどわたしたちは、享楽や、成功、虚飾など、心を決して満たさず、むしろ虚しくする物事で、自分を満たそうとしているでしょうか。主は、イザヤ預言者の口を通し、牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っているのに、神の民であるわたしたちは、どうして自分たちのいのちの源である神を知らないのか、と嘆かれました (参照:イザヤ 1,2-3)。

 わたしたちはいかにベツレヘムの飼い葉桶を忘れ去り、虚栄の飼い葉桶に走り寄ることでしょうか。ベツレヘムの飼い葉桶は、貧しくとも、愛に満ちています。それは、まことのいのちの糧は神の愛であり、また他者を愛することである、と教えています。神の御言葉は、幼子となりました。幼子は何も話せませんが、いのちを与えてくれます。わたしたちは多くを話しますが、優しさというものを知りません。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 小さな子どもがいる人は、どれほどの愛と忍耐が必要とされるかをよくわかっています。養い、世話をし、しばしば理解不可能ながらも、その必要を満たしてあげなければなりません。神は、わたしたちに他者を愛することを教えるために、幼子として生まれました。神は、貧しい人々に奉仕することは、神ご自身を愛することである、と教えるために、自ら貧しい者となり、わたしたちと共に住まわれるのです。ある詩人が言ったように、この夜から「神はわたしのすぐそばに住まわれます。その住まいを満たすものは愛です」 (E. Dickinson, Poems, XVII)。

 「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」

 それはあなた、イエスです。わたしをも神と子としてくださる方、神の御子、イエスです。あなたは、わたしがなりたい自分ではなく、あるがままのわたしを愛してくださいます。飼い葉桶の幼子よ、あなたを抱きしめることで、わたしは自分のいのちをも抱きしめます。いのちのパンであるあなたをいただくことで、わたしも自分のいのちを捧げたく思います。わたしを救ってくださるイエスよ、わたしに仕えることを教えてください。わたしを独りにしないイエスよ、兄弟たちを慰めるすべを教えてください。今夜から、すべての人はわたしの兄弟だからです。

24 12月 2020, 22:30

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降誕祭2020:教皇「わたしたちに力を与えるイエスの誕生」

 教皇フランシスコは、12月24日(木)、2020年度の降誕祭の夜半ミサをバチカンの聖ペトロ大聖堂で祝われた。

 パンデミックの影響下、このミサは「司教座の祭壇」で、例年より参加人数を縮小して行われたが、主の降誕のもたらす希望のメッセージをより強く感じさせるものとなった。

 ミサの説教で教皇は、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」というイザヤ書(9,5)の言葉から、主の降誕の観想へと信者らを招かれた。

 子どもの誕生とは特別なものであり、すべてを変え、あらゆる苦労や困難をも乗り越えさせる何かを持っている、と教皇は指摘。イエスの誕生は、毎年、わたしたちを内面から生まれ変わらせ、すべての試練に立ち向かう力を与えてくれる、と話された。

 御父がわたしたちにご自身の喜びである御子を与えられたことに、教皇はわたしたちの想像も及ばない御父の愛の大きさを強調。わたしたちを救い、内側から生まれ変わらせるための唯一の方法は「愛すること」だと神はご存じである、と話された。

 暗い馬小屋の貧しい飼い葉桶に寝かされた幼子がまさに神の御子だということを考える時、なぜこのような夜中に、宿もなく、貧しく、拒否された状況の中に御子はお生まれになったのかとの問いがわき上がるだろう、と教皇は述べた。

 そして、神の御子が見捨てられたような状況で誕生したのは、それは神がどこまでわたしたちの惨めな状態を愛せるかを教えるためであり、すべての見捨てられた人も神の子であることを伝えるためである、と説かれた。

 また、小さな子どもを育てるためには、食べさせ、守り、世話をする必要があるように、神はわたしたちに他者を愛し世話することを教えるために、幼子としてお生まれとなった、と教皇は語った。

 教皇は、飼い葉桶の幼子を腕に抱くことで、自分のいのちを再び抱き、いのちのパンである御子を受け入れることで、自分自身を人に与えることができるようにと祈られた。

24 12月 2020, 22:00

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「イエスとの出会いにいつも備えよう」教皇、日曜の集いで

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、11月8日(日)、正午の祈りの集いで、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」をテーマに説教を行われた。

 教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音箇所、マタイ福音書の「十人のおとめのたとえ」(25,1-13)を取り上げ、説教を行われた。

 教皇の説教は次のとおり。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日の日曜日のミサ中に朗読された福音書 (マタイ25,1-13)は、先日の諸聖人の祭日と死者の記念日に黙想した、永遠の生命について考え続けるよう招いています。イエスは、天の国の象徴である婚宴に招かれる十人のおとめのたとえ話を語っています。

 イエスが生きた時代のパレスチナでは、婚宴は夜に行われる慣わしでした。ですから、招待客の行列には、ともし火が欠かせませんでした。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていましたが、補充するための油を持っていませんでした。一方、賢いおとめたちは、ともし火と一緒に、補充用の油を持っていました。ところが、花婿の到着が遅れたため、皆、寝入ってしまいました。夜遅く、花婿の到着を知らせる声が響き渡った時愚かなおとめたちは、油を持って来なかったことに気づきます。そこで、賢いおとめたちに、油を分けて欲しいと願いますが、賢いおとめたちは、双方のためには十分ではないからと断ります。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、花婿が到着してしまいます。賢いおとめたちは、花婿と婚宴の席に入っていきます。そして、扉は閉じられました。愚かなおとめたちは遅すぎました。彼女たちは、入ることが許されません。

イエスがこのたとえ話で言わんとすることは明らかです。わたしたちはイエスとの出会いにいつも備えていなければならない、ということです。最終的な出会いのためだけではなく、毎日の生活の中での、大きな、また小さな、イエスとのあらゆる出会いに備えていなさい、ということです。その出会いのためには、ただ信仰のともし火だけでは不十分です。愛徳や善い行いという油も必要です。信仰は、わたしたちを真にイエスに一致させるものです。「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5,6)と、使徒聖パウロが言っているとおりです。賢いおとめたちが表わしているのはそれです。賢くあること、それは、最後の最後まで神の恵みに答えるのを待つのではなく、すぐに実行することです。すべきことを後回しにせず、できる時にすぐ実行する、ということが大切です。

 わたしたちはしばしば、神との最終的な出会いのことを忘れてしまいます。そして、待つということも忘れます。ただ今のことだけに留まり、待つことを忘れるならば、後の世のことも忘れます。来世を無視し、現世だけに目を向けるならば、わたしたちの生活は不毛のものとなります。主との最終的出会いの前に、ともし火の油がなくなり、消えてしまうでしょう。できることを後回しにせず、主との出会いを目指して、今を、希望に満ちた今日を、生きるようにしましょう。毎日の善い行いという、補充の油を持っているならば、たとえ待ちくたびれて眠ってしまっても、心配は無用です。すぐに灯をともして、主との出会いに赴くことができるでしょう。

 聖母マリアのように、行いを伴った信仰を生きることができるよう、聖母の助けを願いましょう。聖母は、わたしたちの行くべき道を照らすともし火です。その光に照らされて、生命の大きなお祝いに、わたしたちも無事に到達することができるでしょう。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 15:26

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教皇、エチオピアとリビアの平和祈る

バチカン放送日本語課[2020.11.8.]より

教皇フランシスコは、エチオピアとリビアに平和をアピールされた。

教皇フランシスコは、11月8日(日)、バチカンで行われた正午の祈りで、エチオピアとリビアの平和を祈られた。

エチオピアでは、数日前から、連邦政府軍と北部ティグレ州の与党「ティグレ人民解放戦線」の軍事組織が衝突、国内の緊張が高まっている。

この集いで、エチオピア情勢に憂慮を示された教皇は、武力衝突の誘惑を退けるよう呼びかけると共に、すべての人に、祈りと、兄弟としての尊重、対話、不和からの平和的再構築を促された。

また、教皇は、同日チュニジアで始まった「リビア政治対話会議」に言及。リビアで衝突する両当事者が出席するこの会議の重要性を指摘しつつ、これを機会に、リビア国民の長い苦しみに終止符を打つ解決が見出され、最近結ばれた停戦合意が尊重、実施されることを願われた。教皇は、会議参加者と、リビアの平和と安定のために祈るよう、皆を招かれた。

さらにこの日、教皇は、パンデミックに加え、大型ハリケーンによる多くの犠牲者と膨大な被害のために苦しむ中米諸国を思い、犠牲者と遺族、被災者と救援者のために祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 11月 2020, 17:41

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ローマのカンピドリオで諸宗教指導者らによる平和の集い

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 ローマのカンピドリオで、10月20日、諸宗教指導者らによる平和の集いが行われた。

 この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 今年の集会は、「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに、ローマの中心地、市庁舎のあるカンピドリオの広場で開催された。

 この集いには、教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加した。

 教皇は、同日午後、このカンピドリオ広場での集いに先立ち、隣接するサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会で、キリスト教諸教会の関係者と、エキュメニカルな祈りをとり行われた。

 この後、広場で行われた平和の集いでは、主催者・聖エジディオ共同体の創立者アンドレア・リカルディ氏や、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領の挨拶に次いで、バルトロメオス総主教のスピーチや、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師からのメッセージの朗読など、諸宗教代表者らの言葉が続いた。

 日本から参加した曹洞宗の峯岸正典師は、死刑囚であった歌人、島秋人の短歌を引用しながら、善悪の両面を持ちうる人間存在を見つめ、人間が戦いを起こすのだとすれば、平和を築くこともまた人間にできるはずである、とスピーチの中で話した。

 諸宗教代表らによるスピーチの最後に言葉を述べられた教皇は、「平和は一人では築けない」と、人類の兄弟愛の必要を説かれた。

 平和の展望における預言的な種は、様々な出会いや平和的行為、兄弟愛的な新しい思考と共に、一歩一歩、成長を続けてきた、と教皇は述べ、時には宗教の名のもとに起こされた、紛争・テロ・原理主義など、ここ数年の痛ましい出来事を思い起こす一方で、諸宗教間対話がもたらしてきた実り多き歩みをも認めるべき、と話された。

 教皇は、こうした対話の進展を、諸宗教関係者らが兄弟として共に働くことを励ますしるしとして受け取る中で、2019年、共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に、アフマド・アル・タイーブ師と一緒に署名したことを、重要な出来事として振り返った。

 「平和の掟は、宗教の伝統の根底に記されている」と話す教皇は、宗教の違いは、無関心や敵対を正当化するものではなく、むしろ、「宗教的信仰を源として平和の築き手となることができる」「宗教とは平和と兄弟愛に奉仕するもの」と強調された。

 教皇は「平和はすべての政策の優先課題」であり、平和を求めず、人々を傷つける緊張や争いを生んだ者たちに、神は償いを求めるだろう、と話された。

 そして、イエスが、その受難の前に人々がご自身を捕らえに来た時、剣で打ちかかった弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた言葉を教皇は示しながら、そのイエスの言葉は、剣や、武器を手放し、暴力、戦争をやめるようにと、今日も響いている、と語られた。

 「いかなる人民も、いかなる社会集団も、自分たちだけで平和や善、安全や幸福を得ることはできない」と教皇は述べ、現在のパンデミックが教えたのは「世界共同体は共に乗り合わせた一つの船であるという自覚」であり、「誰も一人では救われず、ただ皆が一緒でのみ救われる」ということ、と説かれた。

 教皇は「兄弟愛はただ一つの人類という意識からわき出でる」ことを念頭に、皆が共にあってこそ救われるという認識を、出会いや和平、停戦や和解を通して育みながら、平和のための具体的な道のりを切り開いていこう、と呼びかけられた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:56

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