フランシスコ教皇メッセージ」カテゴリーアーカイブ

教皇「御言葉の種を実らせる、良い土地となろう」

バチカン放送日本語課[2020.7.12.]より

教皇フランシスコは、7月12日(日)、バチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

教皇フランシスコは、7月12日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

祈りに先立ち、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「種を蒔く人」のたとえ(13,1-23)をテーマに説教を行われた。

教皇は「わたしたち一人ひとりが、御言葉の種の落ちる土地」であると述べ、その種を実らせるために「良い土地」となるよう、信者たちを励まされた。

教皇の説教は次の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

この主日の福音(参照:マタイ13,1-23)で、イエスは群衆に向かい、わたしたち皆もよく知っている、「種を蒔く人」のたとえを語られました。ここで蒔かれた種は、四つの異なる土壌に落ちました。種に象徴される神の御言葉は、抽象的なものではなく、それはキリストご自身です。それは、マリアの胎内で受肉した御父の御言葉です。それゆえ、神の御言葉を受け入れることは、キリストご自身を受け入れることなのです。

神の御言葉に対し、それを受け取る様々な態度があります。わたしたちは道端に蒔かれた種のように、それを受け取るとしましょう。すると、すぐに鳥がやって来て、それを食べてしまいます。これは今日の時代の大きな危険です。たくさんのおしゃべりや、イデオロギーに付きまとわれ、家の内外で絶え間なく気を散らし続けることで、沈黙や、祈り、主との対話の味を忘れるどころか、信仰さえ失い、神の御言葉に耳を傾けない恐れがあります。わたしたちはすべてを眺めながら、世俗的な事柄に気を散らされています。

あるいは、わたしたちは石だらけで土の少ない所に蒔かれた種のように、神の御言葉を受け取るとしましょう。そこでは、種はすぐに芽を出しますが、深く根を張れないために、すぐに枯れてしまいます。それは、神の御言葉を熱狂的に受け入れつつも、表面的なものに留まり、それを消化して栄養にできない人々のイメージです。そのため、石の間に落ちて枯れる種のように、最初の困難、たとえば人生の苦しみ、動揺などを前に、まだ弱い信仰は消え去ってしまうのです。            

さらに、イエスがたとえで語る三つ目の状況として、わたしたちは茨の間に落ちた種のように、神の御言葉を受け取ることがあります。茨の棘は、富や成功、この世の心配事などです。そこでは御言葉は少しは成長しても、茨にふさがれ、弱いために枯れてしまい、実を結ばせることはできません。

最後に、四番目の可能性として、わたしたちは神の御言葉を良い土地のように受け取ることができます。ただここでのみ、種は根を張り、実を結ぶことができます。この種が落ちた肥沃な土地は、御言葉に耳を傾け、それを受け入れ、心に守り、毎日の生活の中で実践する人々のことです。

この「種を蒔く人」のたとえは、ある意味、他のすべてのたとえの「母」のようなものです。なぜなら、このたとえは御言葉を聞くことについて語っているからです。このたとえは、神の御言葉が自分の中に良いものを多く実らせる種であることを思い出させます。そして、神は、惜しみなく寛大に、この種を至る所に蒔きます。神の御心とはそういうものです。誰一人除外されることなく、わたしたち一人ひとりが、御言葉の種の落ちる土地なのです。御言葉はわたしたち一人ひとりに与えられます。わたしたちが御言葉を受け取る土壌が、どのような種類のものなのか、自問してみましょう。それは、道端のような土地でしょうか、それとも石の多い土地、あるいは茨の茂みでしょうか。しかし、自分が望むならば、わたしたちは御言葉の種を育て実らせるために、丁寧に耕され手入れされた、良い土地になることができます。その土地はわたしたちの心の中にすでにありますが、それを実らせるのは、わたしたちにかかっています。わたしたちがこの種をいかに受け入れるかによるのです。しばしば、あまりにも多くの利害や誘惑に気を取られ、たくさんの声や言葉の間で、唯一わたしたちを自由にする主の声を聞き分けるのが難しいことがあります。

このためにも、神の御言葉を聞く・読む習慣が大切です。これまで何度もお勧めしてきたことですが、いつも小さな福音書を持ち歩くことです。ポケットやカバンに入るような小さな版の福音書です。こうして、毎日少しずつ読むことで、御言葉を読む習慣をつけると共に、神が皆さんに与える種をよく理解し、それを受け取る自分の土壌について考えることができるようになるでしょう。

わたしたちが棘も石もない準備の整った土地となり、自分と兄弟たちのために良い実をもたらすことができるよう、肥沃な良い土地の完全な模範であるおとめマリアが、その祈りをもって助けてくださいますように。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために12 7月 2020, 17:23

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教皇「アヤソフィアを思い、非常に悲しんでいる」

バチカン放送日本語課[2020.7.12.]より

教皇フランシスコは、バチカンで行われた日曜正午の祈りで、イスタンブールの「アヤソフィアを思い、非常に悲しんでいる」と発言された。

教皇フランシスコは、7月12日(日)、バチカンで行われた正午の祈りの集いで、トルコ・イスタンブールのアヤソフィアの問題に深い悲しみを表明された。

教皇の発言は、同日(7月第二日曜日)記念されたカトリック教会の「船員の日」に向けたメッセージに続いて行われた。

この日の「船員の日」にあたり、教皇は海で仕事に従事するすべての人々、特に家族や祖国から遠く離れて働く人々に挨拶をおくられた。

次いで、教皇は「海は、わたしの思いをここから少し離れた、イスタンブールに運びます。わたしはアヤソフィアを思い、非常に悲しんでいます」と話された。

6世紀、キリスト教の大聖堂として建てられアヤソフィアは、15世紀からモスクとして使用され、トルコ共和国建国後、1935年に宗教施設から博物館になった歴史を持つ。1985年、ユネスコに世界遺産として登録された「イスタンブール歴史地域」の一部をなしている。

トルコ政府は、先日、アヤソフィアを再びモスクとする決定を発表している。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために12 7月 2020, 13:46

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教皇庁「国内避難民保護にさらなる国際協力を」国連人権理事会で

バチカン放送日本語課[2020.7.10.]より

国連人権理事会で、教皇庁のユルコヴィッチ大司教は、国内避難民の保護にさらなる国際社会の協力を呼びかけた。

ジュネーブで開催中の第44回国連人権理事会で、7月9日、オブザーバーとして発言した教皇庁代表イヴァン・ユルコヴィッチ大司教は、国内避難民の問題に対し、さらなる国際社会の協力を呼びかけた。

ユルコヴィッチ大司教はこの日、国内避難民の現状をテーマに発表。特に国内避難民の中でも最も弱い立場に置かれた障害者の保護の必要に言及した。

同大司教は、祖国から逃れざるを得なかった移民・難民と同様に、自国内に留まり避難民として生活する人々もまた、教皇フランシスコがしばしば訴える「グローバル化した無関心」の被害者である、と述べた。

そして、今日のパンデミック危機は、これらの人々の「目に見えない悲劇」をますます悪化させている、と語った。

移民・難民は、単純に数や統計で表されるだけの存在ではなく、それぞれが個人的背景や、苦しみ、希望を抱く人間である、と同大司教は強調。

これらの人々の中でも、特に障害者は情報や人道支援へのアクセスに大きな困難を抱えており、それが不平等を招き、保護を難しくしていると指摘した。

こうしたことから、同大司教は、国内避難民への支援において、障害者の必要を考慮し、これらの人々の安全を保障すると同時に、避難先の社会への適応を促進することが大切と述べた。

ユルコヴィッチ大司教は、すべての人が避難を迫られることなく、慣れ親しんだ土地に平和と安全のうちに留まることができるようにとの原則に基づく、政策やシステム構築のための各国のいっそうの努力と、人命を保護し、恒久的な解決策を見出すための、国際社会の誠実な協力を願った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために10 7月 2020, 15:19

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教皇「人生で出会う人々に、主の御顔を見出す」

バチカン放送日本語課[2020.7.8.]より

教皇フランシスコは、イタリア南部ランペドゥーサ島への訪問から7年を記念し、バチカンでミサを捧げられた。

教皇フランシスコが、登位後初のバチカン外への司牧訪問として、2013年7月8日、イタリア南部・ランペドゥーサ島を訪問してから、7年を迎えた。

このランペドゥーサ島訪問で、教皇は、地中海を漂流し救助された難民・移民たちとお会いになった。教皇は移民・難民の代表、これらの人々の救助・支援にあたる関係者、地元市民らと野外でミサを捧げられた。また、遭難し命を失った多くの移民たちのために祈り、海に花輪を捧げられた。

同訪問から7年目を記念した、この7月8日、教皇はバチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを司式された。

ミサの説教で、「常に主の御顔を求めよ」という答唱詩編の言葉を観想された教皇は、主の御顔を尋ね求める態度は、神を信じる人の生活の根本であり、この世を歩み、約束の地、天の祖国に向かう、わたしたちの旅路の良い結末を保証するもの、と話された。

そして、神の御顔は、わたしたちの最終目的であると同時に、わたしたちを道に迷わせることのない「極星」でもある、と語られた。

教皇は、第一朗読の「ホセア書」(10・1-3、7-8、12)に、約束の地へのビジョンを見失い、発展と豊かさによって主から遠ざかり、心を偽りと不正義で満たされた、当時のイスラエルの民の状態を指摘。この姿を、今日のキリスト者たちに投影された。

快適さを求める文化は、自分のことだけを考えるように仕向け、他者の叫びには無感覚にさせ、無関心のグローバル化をもたらす、と警告された。

ホセアの呼びかけは、わたしたちの眼差しを主に向け、その御顔に気づくようにとの、回心の招きであり、神の御顔の追求は、主と、その限りない愛、救いの力との、出会いの熱望から生まれる、と話された。

この日の福音(参照:マタイ10,1-7)が語る12使徒は、神の御子イエス・キリストとの実際の出会いという恵みを得た人々であり、イエスは使徒ら一人ひとりの名前を呼び、目を見つめられ、一方で、使徒たちはイエスの御顔を見つめ、その声に耳を傾け、その奇跡を目の当たりにした、と教皇は語った。

主との個人的出会いは、恵みと救いの時であると同時に使命をもたらすもの、と述べた教皇は、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(同10,7)というイエスの言葉を示された。

イエス・キリストとの個人的な出会いは、第三年期の弟子であるわたしたちにも可能、という教皇は、わたしたちは、人生で出会う貧しい人、病者、見捨てられた人、外国人たちの中に、主の御顔を見出すことができる、と述べられた。

教皇は、7年前のランペドゥーサ島訪問を思い起こしつつ、「他者との出会いは、キリストとの出会いでもある」と強調。

キリストご自身が言われたように、わたしたちの扉をたたき、出会いと助けを求める、飢えた人、のどの渇いた人、旅の人、裸の人、病気の人、牢にいる人たちは、イエスご自身なのである、と説かれた。

そして、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)というイエスの言葉を、自分の毎日の行いについて良心を問いただすための基準とするよう招かれた。

教皇は、リビアの収容所と、そこで搾取や暴力の犠牲となった移民たち、彼らの希望を求める旅、これらの人々に対する救助や拒否などに思いをめぐらせた。

ランペドゥーサ島で移民たちの苦しみの体験を聞く中で、ある男性の話に対し、通訳された言葉は短いものであった、と教皇は回想。後、知り合いのエチオピア人女性から、あの時の通訳の言葉は、あの移民が体験した拷問や苦しみの四分の一も語っていない、と言われ、自分が「蒸留された」話を聞いていたことがわかった、と述べられた。

これと同じことが今日リビアで起きているが、わたしたちに伝わるのは、蒸留された話だけであり、戦争が悲惨であることは知ってはいても、あの収容所で人々が体験している地獄は想像もできないもの、と教皇は話された。

最後に、教皇は、多くの不正義から逃げざるを得なかったすべての兄弟姉妹の中に、わたしたちが御子の御顔を見出せるようにと、「移民たちの助け、おとめマリア」に祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために08 7月 2020, 16:24

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教皇、国連安保理の停戦呼びかけの実行を

バチカン放送日本語課[2020.7.5.]より

教皇フランシスコは、国連安全保障理事会の世界的な即時停戦の呼びかけが、具体的に実行されることを望まれた。

教皇フランシスコは、国連の安全保障理事会の世界的な停戦の呼びかけが、ただちに実行され、未来の平和への第一歩となることを願われた。

教皇は、7月5日(日)正午の祈りで、今週、国連の安全保障理事会が、新型コロナウイルスの深刻な影響に対応するため、特に紛争地を対象に、いくつかの決議案を採択したことに言及。

世界のあらゆる紛争地に即時停戦を呼びかけたことは賞賛すべきこと、と述べ、これによって、必要な人道支援を緊急に供給するために不可欠な平和と安全がもたらされることに期待を示された。

教皇は、このような呼びかけが、苦しむ多くの人たちのために、ただちに具体的に実行に移されることを望むと共に、安保理の今回の決議が平和な未来の第一歩となるよう祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために05 7月 2020, 17:06

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教皇「謙遜で柔和な人々は神の御国を証しする」

バチカン放送日本語課[2020.7.5.]より

教皇フランシスコは、7月5日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを行われた。

教皇フランシスコは、7月5日(日)正午、「お告げの祈り」をバチカンの聖ペトロ広場に集った巡礼者らと共に唱えられた。

祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、マタイ福音書 (11,25-30)を取り上げられた。

教皇のお告げの祈りの説教は以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

この主日の福音(参照:マタイ福音書 11,25-30)は、3つの部分から成っています。最初に、イエスは御父が天の御国の神秘を貧しい人や素朴な人たちにお示しになったことに、祝福と感謝の賛歌を御父に上げています。次に、イエスはご自身と御父の間にある親しい唯一の関係を明かします。そして最後に、イエスは安らぎを得たいならばご自身のもとに来て従うように招いています。

まず何よりも、イエスは御父を賛美します。なぜならば、御父が御国の神秘とその真理を「知恵ある者や賢い者」には隠されたからです(マタイ11,25)。イエスが彼らをこのように呼んだことには、隠れた皮肉がありました。自分を知恵ある者や賢い者と過信する人は、しばしば閉じた心を持っているからです。真の賢明さは思考からだけではなく、心からも生まれます。真の知恵は心の中にも入っていきます。多くのことを知っていても、心が閉じているならば、賢明とは言えません。イエスは、御父はその神秘を「幼子のような者」、すなわち救いの御言葉に信頼をもって心を開く人々、神を必要とし、神にすべてをゆだねる人々に示された、と言っています。心を開き、主に信頼することです。

次いで、イエスは御父から任せられたすべてのことについて説明しています。イエスは御父を「わたしの父」と呼び、御父とご自身との関係の唯一性を強調しています。実際、御子と御父の間のみに、互いを知り、互いの中に生きる、完全な相互性があります。しかし、この唯一の交わりは、無償でその美しさと優しさを啓示するために咲き開く花のようなものです。そこでイエスは「わたしのもとに来なさい」(同11,28)と招きます。イエスは御父から汲み取ったものを与えたいと望まれるのです。イエスはわたしたちに真理を与えたいと望まれます。イエスの真理は常に無償です。それは、聖霊の恵みです。

御父が「幼子のような者たち」を特別心にかけておられるように、イエスもまた「疲れた者、重荷を負う者」に話しかけられます。いや、むしろイエスはご自分からこれらの人々の中に入られました。なぜならイエスが「柔和で謙遜な者」(同11,29)であったからです。それは、真福八端の一番目と三番目の教えに、謙遜もしくは心の貧しい人、柔和な人々(参照:マタイ5,3.5)とあるのと同様です。このように「柔和で謙遜」なイエスは、諦観した者や被害者のモデルではなく、御父の愛、聖霊を完全に映し出しながら、この状況を心から生きる人間の模範です。イエスは、「心の貧しい者」、そして福音における他のすべての幸いな者たちの模範です。彼らは神のみ旨を遂げ、御国を証しする人々です。

ご自分のもとに来る者を「休ませて」くださると、イエスは言います。キリストが疲れた者、重荷を負う者に与える「安らぎ」は、単なる心理的な慰めでも、施しでもありません。それは、福音を知り、新しい人類の構築者となった、貧しい人たちの喜びです。イエスご自身があたえる喜び、それが安らぎです。それは、わたしたち皆への、すべての善意の人々へのメッセージです。富と権力を成す人たちが賛美されるこの世において、イエスが今日も投げかけるメッセージです。わたしたちはよく言います。「あの人のようになりたいものだ、お金もあれば、力もある。何一つ不足がない」と。世は、手段を選ばず、時には人間とその尊厳を蹂躙することもいとわない、富と権力のある人をもてはやすものです。イエスの言葉は、いつくしみの業を生き、貧しい人々に福音をもたらし、柔和で優しくあるようにと召された、教会へのメッセージです。主は、教会、すなわちわたしたちに、このような者であるようにと望んでおられます

被造物の中で、最も慎ましく最も高貴なマリアよ、わたしたちのために心の知恵を神にお祈りください。わたしたちが生活の中で神のしるしを見分け、神が高慢な者たちには隠され、謙遜な者たちに示されたその神秘に与ることができますように。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために05 7月 2020, 15:23

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聖ペトロ・聖パウロ祭日:「イエスの上に人生を据える」教皇、正午の集い

バチカン放送日本語課[2020.6.29.]より

教皇フランシスコは、使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日の正午、お告げの祈りを巡礼者と共に唱えられた。

ローマの保護聖人、使徒聖ペトロ・聖パウロを祝った6月29日(月)、教皇フランシスコは、午前のミサに続き、正午の祈りをバチカンの広場に集った巡礼者と共に唱えられた。

教皇は祈りの前の説教で、次のように話された。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日はローマの保護聖人、使徒ペトロとパウロを祝います。ペトロが殉教し葬られた場所の近くに、こうして祈るためにわたしたちが再び集うことができたことは大きな恵みです。

しかし、今日の典礼は、ペトロの殉教のエピソードとはまったく逆に、その数年前、ペトロが解放され死を免れた時の話を思い出させています。ペトロは捕らえられ、牢に入れられていました。教会では、ペトロの身の上を案じ、絶えず祈りが捧げられていました。(参照:使徒言行録:12,1-11)。それから何年か後、ペトロがローマで再び獄中にあった時も、教会は当然祈っていました。ただ、この時は、ペトロのいのちは助かりませんでした。なぜ、最初の時は試練から解放され、次の時は助からなかったのでしょうか。

なぜならば、ペトロの生涯には、一つの歩みがあるからです。その歩みは、わたしたちの人生の道のりをも照らすものです。主はペトロに多くの恵みを与えられ、彼を悪から解放されました。主はわたしたちにも同じようにしてくださいます。しかしながら、わたしたちは、しばしば必要な時だけ、助けを求めて主のもとに向かいます。それでも神はより遠くをご覧になり、わたしたちにもっと先へと進むように、神の恵みだけでなく、神ご自身を求め、様々な問題だけでなく、自分の人生を神にゆだねるようにと招かれます。

こうして、最後に神はわたしたちに最も大きな恵み、すなわち「いのちを与える」という恵みをくださいます。そうです。いのちを与えることです。人生で一番大切なことは、いのちを贈り物とすることです。これは、親から子に対して、子から年老いた両親に対してなど、すべての人に言えることです。ここでわたしは家族から、まるで不要物のように見捨てられた、多くのお年寄りを思います。高齢者たちの孤独、これは現代の悲劇です。子や孫の命がお年寄りたちへの贈り物となっていないのです。結婚した者、奉献した者も自分の命を与えます。家で、職場で、自分の近くにいる人にも、自分を与えることができるように、これはどこにおいても同様です。

神はわたしたちが与える中に成長することを望まれます。こうしてのみ、わたしたちは育つのです。わたしたちが成長するのは、他者に自分を与えることによってです。聖ペトロを見ましょう。彼は牢獄から解放されたことで英雄になったのではありません。ここでいのちを捧げたからです。彼が与えたいのちは、その殉教の場を、わたしたちが今集っている希望の場所へと変えました。

神に願うべきもの、それは、「いっときの恵み」ではなく「人生の恵み」です。今日の福音は、まさにペトロの人生を変えた対話をわたしたちに示しています。ペトロはイエスが「あなたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねるのを聞きました。ペトロは答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。すると、イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました(参照:マタイ16,16-17)。イエスはペトロを「幸いな者」と呼びました。それは文字通り、幸せな者ということです。このことを言ったあなたは幸せである、と言うのです。「あなたは生ける神の子です」と言ったペトロに対して、イエスが「あなたは幸いだ」と答えていることに注目しましょう。

では、幸いな人生の秘訣とは何でしょうか。それはイエスです。彫像のような存在ではなく、生ける神としてのイエスです。イエスが歴史上偉大であったかが重要ではなく、またその言動をほめたたえることが重要でもありません。重要なのは、わたしの人生、わたしの心において、イエスにどのような位置を与えるか、ということなのです。

この時、シモンはイエスがこう言われるのを聞きました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16,18)。イエスがペトロを「岩」と呼んだのは、彼が揺ぎのない、信頼のおける人物だったからではありません。実際、その後、ペトロは多くの過ちを犯し、しまいには師を否定するに至るでしょう。それにも関わらず、ペトロはイエスの上に人生を築くように選ばれました。自分自身や、自分の能力ではなく、イエスの上に人生を据えるよう選ばれたのです(参照:同16,17)。イエスという大岩の上で、ペトロは岩になりました。

同様に、福音に完全に身を捧げた使徒パウロも、キリストを得るために、他のすべては価値のないものとみなすようになりました。

今日、使徒たちの前で、わたしたちも自問しましょう。「わたしの生活はどのようになっているだろうか。ただその時々の必要のみを考えているのか、それとも本当に必要なのは、わたしに恵みを下さるイエスであると信じているのか。わたしはどのように人生を築いているのか、自分の能力の上にか、それとも生ける神の上にか」と。神にすべてを託された聖母が、わたしたちが毎日の生活の基礎にイエスを据えることができるよう、助けてくださいますように。そして、聖母の取り次ぎと、神の恵みによって、わたしたちの人生を、一つの贈り物とすることができますように。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために29 6月 2020, 19:21

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聖ペトロ・聖パウロ祭日:教皇「一致を築き、天の御国を預言する者となろう」

バチカン放送日本語課[2020.6.29.]より

教皇フランシスコは、使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日のミサを捧げられた。

教皇フランシスコは、6月29日、ローマの保護聖人、使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日にあたり、バチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられた。

ミサの中で教皇は、「一致」と「預言」という二つのキーワードを用い、説教を行われた。

教皇の使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日のミサの説教は以下のとおり。

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ローマの二人の使徒の祭日に、わたしは二つのキーワードを皆さんと分かち合いたいと思います。それは「一致」と「預言」です。

「一致」。わたしたちが今日祝うのは非常に異なる二人の人物です。ペトロは漁師として、舟と網の間を行き来していました。パウロはファリサイ派の教養人で、シナゴーグで教えていました。彼らが宣教に行く時、ペトロはユダヤ人に、パウロは異邦人のもとに向かいました。彼らが道中出会う時、激しく議論することもありました。それはパウロが書簡の中で恥じることなく語っているとおりです(参照:ガラテヤ2,11)。しばしば言い合うことがあっても、常に愛し合う家族のように、多くの違いの中で、彼らは兄弟のように感じていました。彼らを結びつけていたこの親しさは、本来の性質から来るものではなく、主から来るものでした。主は互いに気に入るようにと命じたのではなく、互いに愛し合うようにと命じられました。そして、主はわたしたちを画一化することなしに、一致させられます。主はわたしたちを多様性の中に一致させるのです。

今日の第一朗読(参照:使徒言行録12,1-11)は、この一致の源泉にわたしたちを導くものです。ここでは生まれたばかりの教会が試練の時を過ごしていたことが記されます。ヘロデは怒り、その迫害は暴力的となり、使徒ヤコブは殺害されてしまいました。そして今や、ペトロも捕らえられました。共同体はかしらを失ったかのように見え、それぞれが自分の命を心配しなければなりませんでした。しかし、このような悲劇的な時にも関わらず、誰一人逃げ出すことはありませんでした。自分だけ助かろうとしたり、他の人を見捨てたりすることなく、皆が一致して祈っていました。祈りから勇気をくみ出し、祈りからあらゆる脅威に打ち勝つ力を得ていたのです。使徒言行録には、「ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(同12,5)とあります。「一致」とは、祈りをもって実現する原則です。なぜなら、祈りは、希望に開き、距離を縮め、困難において結束するための、聖霊の介入を可能にするからです。

もう一つの注目すべきことは、この劇的な局面において、誰一人、ヘロデの悪と迫害について嘆いていないことです。わたしたちは責任者を非難することに慣れていますが、彼らは誰もヘロデを非難しません。キリスト者が世の中や社会など、うまくいかない事柄について嘆いて時間を費やすのは、無駄であり、わずらわしいことでもあります。嘆いても何も変わりません。聖霊降臨の日にお話ししたように、嘆くことは、聖霊に扉を閉ざすことです。聖霊に扉を閉ざすもの、それはナルシズム、被害者意識、悲観主義です。ナルシズムはあなたを鏡の前に連れていき、自分だけを眺めさせます。被害者意識は嘆かせ、悲観主義は闇をもたらします。これら3つの態度が聖霊に扉を閉ざすのです。

これらのキリスト教徒たちは誰のせいにもせず、祈っていました。彼らの共同体の中では、「ペトロがもっと慎重だったなら、わたしたちはこんな状況に陥らずにすんだのに」とは誰も言いませんでした。ペトロには人間的に非難されても仕方がない点があったとしても、誰も非難せず、彼のために祈っていました。人の陰口を言うのではなく、神と向き合って話していました。今日、わたしたちは自問してみましょう。「祈りをもってわたしたちの一致、教会の一致を守っているだろうか。他者のために祈っているだろうか」と。もっと多く祈り、嘆きを減らすならば、何が起きるでしょうか。それは牢獄につながれたペトロに起きたことです。あの時のように、隔てていた多くの扉は開かれ、縛っていた多くの鎖がはずれ落ちることでしょう。そして、門の前にペトロを見て、喜びのあまり門を開けもしないで、それを告げるために家に駆けこんだ少女のように、わたしたちも驚くことでしょう(参照:使徒言行録12,10-17)。

互いのために祈り合える恵みを神に願いましょう。聖パウロはキリスト教徒たちに、治世者のためにも祈るようにと最初に勧めています(参照:1テモテ2,1-3)「しかし、あの治世者は…」と言いたくなるようなことがあっても、神に委ね、彼らのために祈りましょう。彼らは祈りを必要としているからです。祈ること、それは主からわたしたちに託された課題です。祈りますか、それとも非難して終わりでしょうか。神は、わたしたちが祈る時、自分と同じ考えを持たない人、自分に冷たくした人、赦し難い人のことをも思い出すようにと願っておられます。ペトロに起きたように、祈りだけが鎖を解き、一致の道を切り開くのです。

今日、祝別するパリウムは、枢機卿団の首席と、この一年に任命された首都大司教らに授与されます。パリウムは、羊たちと羊飼いとの一致を思い起こさせるものです。羊飼いは、イエスのように決して羊と離れないようにと、子羊を背に担ぎます。

また、今日は、素晴らしい伝統に従い、わたしたちは特にコスタンティノポリのエキュメニカル総主教府と一致します。(ローマの保護者)ペトロと(エキュメニカル総主教府の保護者)アンデレは兄弟でした。わたしたちは祝日など、機会あるごとに、兄弟的な訪問を交換します。それは単なる礼儀ではなく、主が示される目的地、すなわち完全な一致に向かって共に歩むためです。今日、エキュメニカル総主教府の使節は、新型コロナウイルスの影響でローマに来ることはできませんでした。しかし、わたしがペトロの墓に降りて祈った時、愛する兄弟バルトロメオス一世総主教の存在をそばに感じることができました。彼らは今日、わたしたちと共ここにいます。

今日の祭日の、二つ目のキーワードは「預言」です。わたしたちのこの二人の使徒は、イエスによって「挑発」されました。ペトロは、イエスが「あなたはわたしを何者だと言うのか」(参照:マタイ16,15)と尋ねるのを聞きました。この時、パウロは、主にとって重要なのは一般的な意見ではなく、主に従うという個人的な選択であることを悟りました。パウロの人生もイエスの挑発の後に変わりました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9,4)。主はパウロを内側から揺さぶりました。主はダマスコ途上でパウロを地に倒した以上に、自分は信心深く正しい者であるというパウロの思い上がりを打ち倒しました。こうして誇り高かったサウロは、パウロになりました。パウロとは「小さい」という意味です。このイエスの挑発、この人生の大きな転換に、次のような預言が続きます。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16,18)。そして、主はパウロについてこう言いました。「あの者は、わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」(使徒言行録9,15)。

預言は、わたしたちが神の働きかけに自身をゆだねる時に生まれます。それは、自分の平穏な生活を維持し、それをすべて管理している時には生まれません。自分の考えや、閉じた心からは生まれません。預言はわたしたちを神の挑発にゆだねた時に生まれるのです。福音が確信をひっくり返す時、預言があふれ出ます。神のもたらす驚きに自身を開く人だけが、預言者になれるのです。ペトロとパウロは先を見通すことができました。ペトロは最初にイエスを「メシア、生ける神の子」(マタイ16,16)であると宣言しました。パウロは自分の生涯の終わりを先見して言いました。「今や、主がわたしに授けてくださる、義の栄冠を受けるばかりです」(参照:2テモテ4,8)。

今日、わたしたちは預言、真の預言を必要としています。それは不可能を可能と約束するむなしい言葉ではなく、福音は可能であるという証しです。奇跡的な出来事は必要ありません。わたしはこの言葉を聞くたびに痛みを覚えます。「わたしたちは預言的な教会が欲しいのです」よろしい。では教会が預言的であるために、何をしますか。神の愛の奇跡を示す生き方が必要です。力ではなく、言動一致の態度です。言葉ではなく、祈りです。宣言ではなく、奉仕です。論理ではなく、証しです。金持ちになることではなく、貧しい人を愛することが必要です。自分たちのために稼ぐのではなく、他者のために使うのです。必要なのは、世の同意ではなく、来る世界の喜び、効果的に見える司牧計画ではなく、自分の命を与える司牧者、神を深く愛する者たちです。

こうして、ペトロとパウロは、イエスを深く愛する者として、イエスを告げました。ペトロは、十字架にかかる前に、自分ではなく、主を思い、イエスのように死ぬのは自分にふさわしくないと考え、頭を下に、逆さに十字架にかかることを申し出ました。パウロは斬首刑を受ける前に、自分の命を捧げることだけを考え、「いけにえ」として捧げられたいと書簡に記しました(参照:2テモテ4,6)。これが預言です。これは単なる言葉ではなく、預言、歴史を変える預言です。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん。イエスはペトロにこのように預言されました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。わたしたちのためにも、同じような預言があります。それは聖書の最後の書で、イエスがご自分の忠実な証人たちに、「白い小石を与えよう。その小石には、新しい名が記されている」(参照:黙示録2,17)と約束される場面です。主がシモンをペトロに変容されたように、主はわたしたち一人ひとりを呼ばれ、教会と新しい人類を築く、生きた石となるように招かれます。一致を壊す者、預言を消す者がいつもいたとしても、主はわたしたちを信頼され、あなたにこのように尋ねられます。「あなたは一致を築く者となりたいか。あなたは地上におけるわたしの天国の預言者となりたいか」と。兄弟姉妹の皆さん、イエスの働きかけに自分をゆだね、こう答える勇気を見出しましょう。「はい、わたしはそのような者になりたいのです」。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために29 6月 2020, 17:42

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教皇「シリア支援会合のために祈りを」

バチカン放送日本語課[2020.6.28.]より

教皇フランシスコは、「シリアと地域の将来を支援する」会合のために祈りを呼びかけられた。

6月30日(火)、「シリアと地域の将来を支援する」会合が、欧州連合と国連によって共催される。

教皇は6月28日(日)の正午の祈りで、今回4回目を迎えるこの「ブリュッセル会合」に言及。この重要な会合がシリアと周辺国の人々の状況の改善につながるよう、信者らに祈りを呼びかけられた。

シリア周辺国の中でも、特にレバノン情勢に触れた教皇は、同国の社会・政治・経済的危機が、パンデミックの影響で深刻さを増していることに憂慮を表された。

教皇はシリアと周辺地域で食べ物に事欠く子どもたちを思い、当事国の責任者らに平和への努力を強く訴えられた。

この日、教皇は、同時にイエメンの重大な人道危機のために苦しむ子どもたちへの関心を促された。

さらに、ウクライナ西部を襲った洪水の被害者らに神の慰めと兄弟たちの支援を祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために28 6月 2020, 16:12

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新しい「カテケーシス指針」発表、今日のよりよい福音宣教のために

バチカン放送日本語課[2020.6.26.]より

教皇庁新福音化推進評議会から、新しい「カテケーシス指針」が発表された。

教皇庁新福音化推進評議会は、6月25日、新しい「カテケーシス指針」を発表した。

第二バチカン公会議後に発表されたカテケーシスの指針としては、1971年の「カテケーシス一般指針」(聖職者省)、1997年の「カテケーシスのための一般指針」(聖職者省)に次いで三つ目となる。

今回の新文書は、新福音化推進評議会の起草によるもので、2020年3月23日、福音宣教とカテキズムの推進に貢献した16世紀の聖人、トリビオ・デ・モグロべーホの記念日に、教皇フランシスコによって認可された。

新福音化推進評議会議長、サルバトーレ・フィジケッラ大司教によれば、「カテケーシス指針」は、全教会を対象としたもので、世界の諸地域の助言を広く得ながら、長い時間をかけて完成に至った。

この日発表されたのは、イタリア語による公式版であるが、すでにスペイン語、ポルトガル語、英語、フランス語、ポーランド語の訳が整っている。

同文書は、まず、信仰の伝達の第一の責任者である司教と共に、司教協議会およびその中のカテキズム担当委員会に向けられ、そして、その使用においては、教会共同体で日常的に奉仕する、司祭・助祭・奉献生活者・カテキスタらに具体的に関わってくるものである、とフィジケッラ大司教は語った。

この新しい「カテケーシス指針」は、300ページを超える豊かな内容で、三部に分かれ、全12章からなる。

その全体は次のように構成されている。

第一部 教会の宣教的使命におけるカテケーシス

第1章  啓示とその伝達
第2章 カテケーシスのアイデンティティー
第3章 カテキスタ
第4章 カテキスタの育成

第二部 カテケーシスのプロセス

第5章 信仰の教育学
第6章 カトリック教会のカテキズム
第7章 カテケーシスの方法論
第8章 人々の生活の中のカテケーシス

第三部 地方教会におけるカテケーシス

第9章 カテケーシスの主体、キリスト教共同体
第10章 現代文化を背景としたカテケーシス
第11章 信仰のインカルチュレーションに奉仕するカテケーシス
第12章 カテケーシスに奉仕する組織

同文書は、すべての信者の弟子=宣教者としての本質、信仰を伝える新しい表現・方法を見つけるための取り組みと責任の必要を思い出させている。

全体を通し、「証し」「いつくしみ」「対話」が、行動上の三つの基本的な柱となっている。「証し」は、「教会は、改宗の強制によって成長するのではなく、魅力のために成長する」からであり、「いつくしみ」は、伝えられた信仰を信じうるものとする真のカテケーシスであるため、自由で無償の「対話」は、何も押し付けないが、愛から出発することで平和に貢献するからである。

第一部「教会の宣教的使命におけるカテケーシス」では、特にカテキスタの育成に注目、カテキスタたち自身が信仰の信じうる証し人として、宣教精神に基づき、無償性、献身、言動一致をもって奉仕することが重要であるとしている。また、他者の自由を尊重すると同時に、未成年者をはじめ、すべての人があらゆる形の虐待から完全に守られているように留意する必要にも触れている。さらに、人々と交わりを育てるための取り組みと、方法や表現においてクリエイティブであることをカテキスタたちに願っている。

第二部「カテケーシスのプロセス」では、家庭の重要さが浮かび上がる。家庭は活発な福音宣教の主役であり、単純で自然な形で信仰を生きるための本来の場所である。家庭でのキリスト教教育は、謙遜で憐み深い態度を通して、「教えより、証し」をもって伝えられる。一方で、今日の社会の、複雑で新しい家庭環境に対し、教会は信仰と、寄り添い、傾聴、理解をもって共に歩み、すべての人に信頼と希望を取り戻させるようにと招いている。また、「受容」「受け入れ」「連帯」「兄弟愛」などのキーワードと共に、移民や、受刑者、貧しい人々への配慮を説いている。

第三部「地方教会におけるカテケーシス」では、「共同体的な使徒職の模範」であり、クリエイティブなカテケーシスの場としての、小教区の役割がクローズアップされる。また、カトリック系の学校が、単なる教育機関から、福音の価値観を基礎にした教育計画と共に「信仰の共同体」となることを期待している。このセクションでは、カテケーシスにおけるエキュメニズム、諸宗教対話への取り組みも記される。さらに、今日のデジタル文化の良い面と悪い面を見極めながら、若者たちの成長と信仰の歩みを助けるよう促しているほか、科学と技術、生命倫理、性、エコロジー、労働などのテーマにも言及している。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために26 6月 2020, 14:19

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