月別アーカイブ: 2013年2月

教皇さま、お疲れさまでした。

ローマ法王(教皇)ベネディクト16世は現地時間28日午後8時(日本時間3月1日午前4時)でその任務を終える。今週の水曜日は教皇職最後の一般謁見が行われた。2005年4月19日に教皇に選出されたその一カ月後、巡礼でこの広場を訪れ、教皇になられたばかりのベネディクト16世の一般謁見に参加した。教皇さま、お疲れさまでした。

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洗礼への過程

洗礼への過程

四旬節に入り、今年の復活祭(3月31日)に受洗を望んでいる方も洗礼志願者として最後の準備に入っている。洗礼への道は人それぞれで、その道を志願者と共に歩めることは教会にとって大きな喜びである。

洗礼の準備は通常、求道者のクラスを年度初め(復活祭後)に編成し、信仰箇条の説明が主にその内容となっている。教義と倫理の説明である。たいていの場合、週一度のクラスに十分に出席していないと、洗礼を受けることはできない。また、中途からの出席は好ましくない。この場合、受洗は翌年以降に持ち越されるのが通常ではないだろうか。

しかし、このような画一的な準備クラスでは、受洗希望者の望みをかなえることは容易ではない。一人ひとりの人生の歩みは違っているし、洗礼を受ける動機も、心の状態も異なっている。親が信者だったから。妻、夫が信者だったから。ミッションスクールや幼稚園の関係で。友人から誘われて。いつも教会の前を通っていて、いつか入ろうと思っていて、入ったら「出会い」があって。病気になって。本を読んで。映画を見て。ただ何となく、とか、いつの間にか、といったこともある。とにかく、何らかのきっかけで洗礼の準備は始まる。

神は一人ひとりにとって一番ふさわしい時に、ふさわしい方法で語りかける。そうしてご自分のもとに引き寄せるさまは「神の芸術」ともいえる見事なものである。

洗礼の準備期間が問題にされるようである。どのくらい準備して受洗したのかが気になるふしがある。ある人が洗礼を受けたとき、その準備期間は、その人のそれまでのすべての時間ではなかろうか。人はすでに神の子として生まれている。すべて、みんな。ある時、ある出来事により、それに気づいてイエス・キリストが示してくださった道を歩む決意をするのが受洗の時ではないかと思う。いろいろな準備、いろいろな時がある。

振り返ってみると

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

神がイエスを遣わされた目的ははっきりしている。ひとたび命を与えた神は、その命が滅んで無に帰することを望まれない。無から有に生まれた者は永遠の命を得る。神は世を裁くためにイエスを遣わされたのではない。救うために遣わされた。

人は教義を学んだから洗礼を受けるのだろうか。教義を理解するから神の救いを信じるようになるのだろうか。自分の人生を振り返った時、その時の流れの中で神の働きに気づくことができるのではないだろうか。

歴代誌で語られているように、捕囚時代を振り返ることによって民はその罪に気づき、そのことによって安息を得る。エフェソの教会への手紙に記されているように、自分の人生を振り返ることによって、そこに働いておられる憐れみ豊かな神の愛に気づくのではないか。罪のために死んでいたわたしたちを生かしてくださる神に気づくのではないか。

無に帰することの恐怖からではなく、裁かれることへの恐れからでもなく、神の恵みに気づくことから救いの道が始まる。信仰は気づきであり、それは恵みによってもたらされる。

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こころと言葉

[Yさんへの手紙より 1983年9月8日 ニューヨークにて]

…こどもは本当にかわいいです。世界中、どこのこどももいっしょです。

日本を出ていちばん感じることは、人が通じあえるのは、言葉ではなくて、こころだということです。もちろん言葉が通じないと、こころも通じにくいけど、要するに、言葉よりこころが大事だということです。そして、言葉はこころのあらわれでなくちゃいけない、言葉はこころのあらわれであるはずだと思います。言葉にこころが伴っていない時、それはウソになります。

最近、人間は初めは言葉をもってなかったのではないかと思います。言葉なしに初めはコミュニケーションできてたと思います。それが、だんだん言葉を使うようになって、より正確にコミュニケーションができるようになる。でも、今度は、それが間違って使われるようになり、ウソが出てくる。ウソというのは真実にあってないということです。人間だけがウソをつけるのではないでしょうか。

愛し合っている人たちは、言葉がなくてもそれを感じ合えます。ときどき、言葉がじゃまになる時があるけど…言葉を使うのは人間のすばらしいところだけど、言葉がなくても感じ合えるということはもっとすばらしいことではないかと思っています。実際、人間にはそれができるのだからすばらしい!

イエスさまが言葉になったというのは深い意味があると思う。彼の言葉(行いも)を通じて、私たちは神さまのこころを知ることができる。彼はウソの人ではないから、言葉とこころ(と行い)が完全に一致してるんです。まだまだうまくできないけど、み言葉に触れるとき、もっとイエスのこころを感じれたらと思います。こころとは感じるものだから…。

人間は愛し合って、信じ合うことができるのに、どうして神さまを愛して、そして信じることができないのでしょうか。おそらく、単純にいって、目にみえないから、でしょうね。実際、生活の中で目にみえないもの、ことを信じているのに、どうして神さまを信じられないのでしょうかね…これ、自分に言ってることです。

アメリカに来て、けっこう忙しい日もあるけど、ローマにいる時とはくらべものにならないほど自分の時間があるので、いろいろ、あれこれ考えています。自分というものを見つめ直しています。日本にいたら、とても忙しくて自分を振り返る時間なんてめったにないから、今のうちに、あれこれ考えています。実行に移すのは日本に帰ってからでしょうけど…。

 

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《イタリアからボンジョルノ》

《イタリアからボンジョルノ》1984年5月 ラジオ・バチカン(バチカンのラジオ放送局)放送原稿

私はイタリアに来て、やがて3年になりますが、今日は私の住んでいるところや友だちのこと、イタリアで生活して感じるところなどをお話ししましょう。

私はカトリックの神父で、今、ローマで教会法、つまり教会の法律の研究をしています。ローマに留学している日本人の神父は15人いて、バチカンに所属する大学や研究所で聖書や教会法などの勉強をしています。

私の住んでいる寮はコレッジオ・サン・パウロと呼ばれ、バチカンから少し離れた空気のよい小高い丘の上にあります。ここには、世界各地からローマに留学している200人もの神父たちが一緒に住んでいます。その中、日本人は5人ですが、他はほとんどアフリカやアジアから来ている人たちです。アメリカやヨーロッパ、それにラテンアメリカの留学生はそれぞれ国別に寮をもっているので、私たちといっしょには住んでいません。それでも、私たちの寮には40カ国以上の神父たちがいます。

この5月にヨハネ・パウロ2世教皇が訪れる韓国からは20人以上の神父がここにいます。私は、こちらに来て初めて日本の隣りの国である韓国の神父と話し、友だちになることができました。このように国際色豊かな寮に住んでいるので、いろんなことを学ぶことができます。

まず、当たり前のことですが…人間としてはみんな同じということ、だけど、その文化はとても異なっているということです。

この丸い地球のいろんなところから来ているので、それぞれの生活環境も当然ちがっているし、経済や教育のあり方もずいぶん違います。生活習慣の違いも大きく、そこから当然、考え方もさまざまです。

同じキリスト教を信じ、そしてみんな神父なので一致するのは難しくありませんが、それでも考え方のくい違いなどはよくあることです。

今までの歴史の中で「ひとつになる」とか「平和をつくる」という努力がなされてきましたが、それは、みんなが一人の例外もなく、同じ考えをもったり、同じ言葉を話したり、同じ宗教を信じたりすることだというように誤って解釈されて、平和や一致という美しいコトバのカゲに多くの人が犠牲になってきました。

すばらしい文化、生活習慣をもった人たちと、ここで共同生活をするにつけ、本当の平和というのは、互いが互いのすばらしいところをよく見て、それを認め、そして、それを尊敬することではないかと思うようになりました。

だれが言い始めたのかは知りませんが、アジア、アフリカは第三世界と呼ばれています。そのことについて、私の友だちは時々不満をもらします。 〜なにか、人間にまで順位をつけられている気がする〜 というのです。第三世界と呼ぶとき、私自身の中にも、日本はもう第三世界ではない、世界のトップを行く国だという思いや、なんとなく第三世界の人々を見下しているようなところが心の奥底にあるような気がして、反省させられます。

かれらと一緒に生活しながら、人間のあたたかみや思いやりを感じ、経済成長のカゲに私たち日本人がどこかに置き忘れてしまった人間らしさ、素朴さといったものの大切さを再認識しています。

韓国人の友だちからよく聞かれます。…君たちは、どうしてアメリカやヨーロッパばかり見て、となりの韓国やアジアの近隣の国の人たちをもっとよく理解しようとしないのですか…と。

実際、私自身こちらに来て初めて日本の隣りの韓国について興味をもつようになったし、韓国の人たちが日本について知っているほど、私は彼らの国については知らない、ということを痛感しています。

寮のことはこれくらいにして、イタリアについて少しお話ししましょう。

3年前の6月にイタリアに来たのですが、ローマの街に入っての第一印象は、街の色が日本と違うということでした。それから、ほとんどすべてのものが「古い」ということでした。建物はいうまでもなく、道を走っている車も古い型が多く、日本みたいにピカピカしていません。街の色は、ひとことでいえば茶色、あたたかい色です。日本の大都会は新しいビルが建っていて、きれいにはきれいなのですが、どうもあたたかみがないみたいです。

イタリアに来た当時は、日本に対するなつかしさもあって、すべての点で、日本が優っているように思っていました。でも、時がたつにつれて、イタリアのすばらしさを見、人々がもっているあたたかさに触れるにつけ、イタリアという国がとても好きになりました。

イタリア人はとても親切で陽気です。こんこ番組は「イタリアからボンジョルノ」といいますが、ボンジョルノというのは、ご存知のように、おはよう、こんにちは、というあいさるの言葉です。ボンジョルノと言うと、イタリア人は、それだけでもう、あなたはイタリア語がとても上手だ、どこで習ったのか、と本気で言ってくれますので、こちらも、あまりしゃべれないイタリア語が少しうまくなったような気になります。

イタリアの太陽のように、みんな明るい人たちなのですが、特に子どもたちはすばらしいです。人見知りしないし、路上で会うと、ニコニコしながら、さよなら、ありがと、と知っている日本語を連発してきます。

カラカラ浴場跡

カラカラ浴場後で

先日、休みを利用してローマ郊外40㎞のところにあるブラッチャーノという湖に行ってきました。とても風の強い日でしたが、湖のほとりで、やはりローマから遠足に来ている小学生のグループに会いました。私と友だちの日本人を見ると、例のごとく、こんにちは、と親しく話しかけてきます。カメラを向けるとみんなワァーっと寄って来て、もう大騒ぎ。一緒に来ている先生も何も言わずにニコニコしています。写真ができたら送って、と学校の住所を教えてくれました。あとで何枚か焼き増しして送ると、クラスのみんなでサインした手紙が先日届きました。

街の中で道を聞こうものなら、もうたいへん。まわりの人が二三人すぐ集まってきて、ああでもない、こうでもないと、とても親切に教えてくれます。イタリア人は、たとえ自分が知らなくても、知らないとはめったに言わないで、間違っていても教えてくれます。それで、特に、道をたずねる時などは、別の人にまた確かめねばなりません。

イタリア人はこんなに親切なのです。

イタリアに来ていちばんよかったこと。それは、毎日が目の回るようなスピードで過ぎていく日本の生活にくらべて、こちらでは精神的な余裕がずいぶん持てるようになったということです。自分さえ望めば、いい意味で自分のペースで生活ができるということでしょうか。

こちらのいるあと1年の間、目と耳をもっと大きく開いていろんなことを見聞きし、人々と出会い、ふれあいを大切にしながら有意義な日々を過ごしていきたいと思っています。

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法王職の難しさ…。

2月11日、ローマ法王ベネディクト16世が退位を表明した。勇気ある決断だと思う。祈りの中で決断された…間違いなく神の意志だと信じる。ベネディクト16世は昨年10月11日、第二バチカン公会議開幕50周年にあたり、この一年を信仰の見直すための「信仰年」と定めた。

教会の使命は福音宣教。イエスから受け継いでいる「福音」を伝えることが教会の使命。いつの時代も教会はその使命を果たすべく努めてきた。今までの歴史を振り返るとき、確かに間違ったこともあったが、それはイエスの、神の意志ではないことに気づく度に軌道修正を図ってきた。しかし、それはまだ充分ではない。

第二バチカン公会議は教会の歴史の中でも突出した出来事であったが、その精神はまだ充分に伝わっているとはいえない。何百年も続いていた習慣や考え方は50年そこらでは変わらないだろう。そして、変わろうとしている間にまた、世界は変わっていく…。教会にとって大切なのは、いつも「今」。皆さんが、このように思ってくだされば、教会はもっと変わって、今に合ったいいものになるのに…。過去にこだわったり、自分の好みを大事にしたり…やっぱり、ここでもいちばんダメなのは「自己中心」的な考え方。イエスは、これがいちばんダメといったのにぃ…っ!!!

バチカン、ローマ法王は現代の諸問題、あらゆる課題をすべて背負い込んでいる。法王職の重責は押して知るべし。次期法王は誰が選ばれるのだろうか。今年の復活祭(3月31日)は、新しいローマ法王と共に祝うことになる…。

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ルルド

フランス、ピレネー山脈の近くにルルドという小さな町がある。1858年の今日2月11日に14歳の少女ベルナデッタに聖母マリアが出現された。イエスが復活して今もわたしたちと共にいてくださる、と信じる者にとっては聖母マリアの出現もあり得ることだし、出現したから信じているということでもない。普通であること自体が奇跡であり、見えるものを通して、その向こうにあるもの、その中にあるものを信じることが「信仰」であると思う。

「奇跡」を通して信じることは、あまりたいしたことではない…と思う。「奇跡」を求めて祈るのもどうかと思う。

「日常」にたくさん「奇跡」は在る。その意味では、今まで数えきれないほど「奇跡」を見せていただいている。

Lourdes

1985年の復活祭後に初めてルルドを一人で訪れた

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「ミサ」で思うこと。

ずいぶん前に、毎週ミサで使われるパンフレット「聖書と典礼」の後ろのコラムに三回連続で書いたことがある。今でも通用すると思うので転載する。明日は小倉カトリック教会で「ミサ典礼と私たちの信仰」というテーマで講演会(研修会)がある。日本カトリック神学院院長の白浜満神父(典礼学専門)の講演。一人でも多くの人に聞いてほしいな…。

 子どもと典礼(1)《ともに。いっしょに。》

典礼の特徴は「ともに在る」ということ。そして、人が集まるその所に神がおられる、ということ。典礼に参加する子どもたちも、そのことを感じることができれば喜んでミサに参加することができる。乳児、幼児から高齢の方までともに一堂に集う典礼。「ともに在る」ことの喜びを味わうために次のようなことを意識する。

あいさつ。だれでも人と会ったときには挨拶をするもの。教会では? 聖堂に入る前から「沈黙の世界」に入っているのだろうか。無言で聖堂を目指す人…。ただひたすらに神のことを想う? その前に、まず、今日、出会った「仲間」にあいさつをする。気の合う人だけでなく、出会ったすべての人に。可能なかぎり。この時、とくに子どもたちに声をかけてはどうだろうか。あいさつをするということは、その人に関心をもっていることの表現でもある。教会に行くと、知らない人からも声をかけられれば、子どもたちは、受け入れられていることを感じ、家族の他にも自分に関心をもってくれている人がいることに気づく。それはまさに、血縁や知人、友人といった関係のわくを越えて、神が呼びかけていることを体験することになる。いろんな人が喜びをもって集い、受け入れ合っている雰囲気。このことが子どもたちに安心感を与える。ミサはここからすでに始まっている。子どものミサ参加が少ない、と嘆く声も聞こえるが、それは大人の課題。子どもが少ない、ということは大人も少ない、ということ。大人の問題。

 子どもと典礼(2)《子どもの場》

「場」は「在る」ために必要なこと。子どもがミサに参加するためには、まず「子どもの場」が必要。母親のそば、友だちと一緒、聖堂の後ろ、いわゆる「泣き部屋」や「母子室」と呼ばれるのが「子どもの場」? 「子どもの場」は大人と同じで「神の前、神の中」。そのことが子どもに伝わるように工夫する必要がある。

ミサは、ただ行くだけや、そこにいることに意味があるわけではない。ともに集ったその場所で、そこで行われ、起こっていることを体験することに意味がある。「ともに神の前、神の中にいる」…その体験がミサ。軽い言葉に聞こえるかもしれないが、ミサの雰囲気が大切だと思う。この雰囲気は一人ひとりが作り出すもの。一人ひとりの祈りが醸し出すもの。乳児でも、幼児でも、その雰囲気を感じとることができる。そのことをわきまえた上で、今一度「泣き部屋」や「母子室」と呼ばれる「場」の功罪について再考する必要があると思う。

子どもにとって、自分がいる場で何が起こっているのか見ることはとても重要なこと。見える場にいること。聞こえる場にいること。親と一緒にいても、友だちと一緒にいても…見える場にいること。生の声が聞こえる場にいること。「騒ぐ、うるさい」からということで子どもを遠ざけてはいけない。大人が神とともにある「雰囲気」を作れば、子どもはその「雰囲気」を楽しめる。五歳でも祭壇の前で一時間のミサに一人で参加することができる。これは例外ではない。普通に。

 子どもと典礼(3)《楽しみにして》

ある集まりで、どうしてミサに参加するのか、という話題になったことがある。「義務だからミサに行く」という考えが大半で驚いたことがある。「喜んで来る人もいる」というと「えっ、喜んでくる人がいるんですか!」という反応に二度驚いた。

「次の世代に信仰を伝える典礼での取り組みはどのようにしていますか」と尋ねられたことがある。特別なことはしていない。信仰の根本は、神がともにいてくださるということを感じること。それは典礼の場で体験できる。イエスと弟子たちの最後の晩さんに起源をもつミサは二〇〇〇年の歴史をもつ。この長い時間を経て伝えられたことを表す「型」は貴重なもの。子どもであれ、大人であれ、ミサの中にある普遍的な真実は伝わるはず。

わたしがより意識して取り組んでいるのは「型」を大事にしながらも、なによりも「心」や「気持ち」を大切にすること。心、気持ちが伴わない型は偽善となる。子どもたちは、それが真実であるか、うそであるか見抜く力を持っている。子どもを典礼の場から遠ざけて大人中心の典礼をしていくと偽善となる恐れが常に伴う。心、気持ちを大切にすると、言葉がはっきりとして意味が伝わり、動作がヤラセではなくて美しくなる。子どもたちはミサや典礼において、なによりも「本物」に触れることで神に触れることになる。ミサで行われることがただの役目ごなしのようになったり、義務的な気持ちで行われることは絶対に避けなければならない。司祭も含めて、信徒も。そうするとミサが楽しみになる。「今日のミサ、つまらんかった」という子どもの声を聞いたことはない。「本物」でないと…。

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子どもとのかかわり

イエスの望み

子どもとのかかわりについては、イエスのはっきりした望みがある。み言葉そのものをまず聴いてみたい。

「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」[マルコによる福音書第10章]

また、次のようにも言われている。

「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」[同書第9章]

泣く子も黙る

教会での子どもの受け入れはどのようなものだろうか。教会で、人々は、どのように子どもたちとかかわっているのだろうか。何度もイエスの言葉を読むといろんなことに気づかされる。このままではいけないことに気づかされる。子どもを連れて来る親は、イエスが子どもに触れていただくために連れて来るのである。それを叱る者はだれもいないだろう。しかし、子どもたちはイエスに触れているだろうか。子どもがイエスに触れるのを妨げているのではないだろうか。たとえば、「母子室」(子どもたち、特に幼児のための聖堂内の場所。「泣き部屋」ともいわれる)の存在。異論はあるだろうが、次のように考える。母子室があると、静かなミサができる。大人にとってはいい雰囲気? しかし、母子室の中の状態はどんなものだろうか。子どもたちは自由に行き来し、飴を食べ、ゲームをする。祈りどころではない。

幼児も子どもも祈ることができるし、イエスに触れていただくことができる。それは、単に聖体拝領の時に部屋から出て列に加わり、祝福をいただくことだけではない。子どもは雰囲気から学ぶ。祈りの雰囲気の中で、子どもは祈りを学ぶことができる。そのためには、信徒が心から祈ることと、待つ忍耐が必要である。祈りの雰囲気の中では、泣く子も黙ってしまう。

泣く子も歌う

二歳にならない子が聖歌を歌う。ミサの時だけでなく、家庭でも不意に聖歌が口をついて出る。三歳にもならない子が、ミサ中に司祭の祈りの動作のまねをする。祭壇に近づき、司祭に「ここにいるヨ」というサインを送る。五歳になったばかりの子が「親元」を離れて一人で一番前の席につくようになる。まわりを見ながら、聖歌集を開き、歌い、「聖書と典礼」のパンフレットのテキストを目で追う。

ミサに参加しているだれもが、子どもを受け入れねばならない。隔離してはいけない。温かいまなざしを送らねばならない。騒ぐから、うるさいからといって排除してはならない。イエスが触れる機会を奪ってはならない。子どもの親に対してもそうである。

子どもの立場になる

子どもとかかわるためには、子どもの立場に自分を置いてみる必要がある。わたしたち大人も、かつては子どもであった。子どもは大人ではない。子どもは日々成長していくものである。成長するためには時間がかかる。ただ成長するのを待つのではなく、愛で包みながら待つのである。愛は人を変え、人を成長させる。

聖堂では、大人の祈りの雰囲気が子どもを成長させていく。「母子室」ではスピーカーを通してしか音声が聞こえない。「母子室」を出て、聖堂に居ると、そこでは本当の祈りの声が、歌が聞こえ、雰囲気に包まれる。子どもは、その中で確かに成長していく。

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受洗(洗礼を受ける)のための学びは必要?

教会質問箱(キリスト新聞2010年10月16日号掲載:山元回答)より

Q. 受洗のための学びは必要? 「洗礼を受けるための準備として、どのような学びが必要ですか。信仰さえあれば学びは不要ですか。」(20代・男性)

A. パウロは、信仰は聞くことによって始まる、と言っています。

キリスト、もしくはキリスト教との関わりはいろいろなかたちで始まります。人との出会い、出来事との出会い。本を読んだり、映画を観たり。また、祈りの中で…。

人は本性的に神とのつながりを求めるものでしょう。人間は、神によって形づくられ、その鼻に「命の息を吹き入れられ、人はこうして生きる者となった」と創世記に記されています[創世記2章7節]。人は神によって命が与えられ、神に似せて造られた存在ですから、本質的に神に向かう存在なのです。時代や文化、部族によって数えきれないほどの宗教があるのももっともなことです。人々は歴史の歩みの中で、おそらくその存在の最初から「神」を信じて生きているのでしょう。

キリスト教では、イエスが人類の救い主であり、イエスによって真の神の姿が明らかにされたと信じています。つまり、イエスこそ、神が人類に約束されたキリストであると信じるのです。

そのことは聖書と聖なる伝承によって今に至るまで伝えられてきました。洗礼を受ける、つまりキリスト者、キリスト教信者となるためには、当然、イエスとは何者か、聖書と聖伝(聖なる伝承とされている事柄)は何を伝えているのかを知らなければ、信じることはできないでしょう。

したがって、洗礼を受けるためには…というより、キリストを信じる…厳密には、復活して今も生きておられるイエス・キリストを信じることができるようになれば、洗礼を受けるということになるでしょう。

とりたてて「勉強」しなければ信者になれない、というより、今、ともに生きておられるイエスを「主」と宣言できるようになれば洗礼を受ける、ということではないでしょうか。自分のそれまでの人生を通して「学ぶ」ことが一番でしょうし、やはり、しっかりと「み言葉」を読み、聞かなければ「独りよがりの、間違った信仰」になるのかもしれません。

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批判すること

もうずいぶん前のことになる。外国にいた頃、その国のある神父から次のように聞かれた。「君は自分の国の政府のやり方についてどう思うか」。当時、政治にほとんど興味をもっていなかったわたしは「べつに…。問題ないと思う。まあ、いいんじゃないの」と答えた。彼は不思議な顔をして「お前、それでいいのか。お前はバカか。自分の考えはないのか」と少し強い口調でたしなめるように言った。

幼少の頃からの自分の歩みを振り返ってみると、結構自分では素直な生き方をしてきたつもりである。素直な生き方とは、親の言うことを聞き、先生や聖職者の教えることを反抗や反発もしないで聞き入れ、人との争いを避けるために自分を抑えて、思ったままの自分を出さないこと。そのため、自分を「いい子」と思い込み、おそらく周りの人たちもそう思っていただろう。

先の友人との会話をきっかけに「批判」ということを考えるようになった。考えるというより、「批判」するようになった。いろんな雑誌や新聞やコラムを書くようになって何年も経つが、その間、多くの読者に支えられ、励ましもいただいたが、かつての自分を知る読者からは、わたしの批判的な姿勢を疑問視する声が聞こえてきたこともある。

「批判」は決して悪いことではない。かつて「批判」することができなかったのは自分の意見や考えがなかったからだということに気づいた。何事に対しても受け身の姿勢でいたからではないか。日本では、とくに教会では「批判」は嫌われる。意見があれば、当然批判することになる。あるときは対立も生じるかもしれない。しかし、そこからいいものが生まれてくるのではないだろうか。批判に感情が入るからおかしくなるのであって、冷静にかつ謙虚にありのままの自分を出せばよい結果が出て来るものである。あの友人に感謝したい。

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