月別アーカイブ: 2014年4月
バチカンで列聖式
今週のミサ
列聖式
明日午前8時(現地時間)からバチカンの聖ペトロ広場で福者ヨハネ23世と福者ヨハネ・パウロ2世の二人の教皇の列聖式が行われます。その模様が Centro Terevisivo Vaticano で生中継されます。[日本時間15時〜]
昨年2013年7月5日(金)バチカンはローマ法王福者ヨハネ23世と同福者ヨハネ・パウロ2世の列聖を決定しました。
福者ヨハネ23世(在位1958年〜1963年)は第二バチカン公会議を招集した教皇です。福者ヨハネ・パウロ2世(在位1978年〜2005年)はご存知のように1981年2月23日〜26日に訪日されました。
2月26日には長崎の松山競技場(現野球場)で大雪の中、5万7000人の信者とともに「長崎・殉教記念ミサ」を行い、そのミサの中で76人の洗礼式を司式されました。私は第一朗読を読ませていただきましたが、朗読後に教皇に挨拶をしたときの温かい眼差しを忘れることはできません。その後、3月のはじめに当時の福岡教区長平田三郎司教からローマに行くように命じられました。
1983年にバチカンでヨハネ・パウロ教皇に謁見したとき、「長崎は寒かったですね。」と《思い出》を語り合いました。列聖された明日から、第二バチカン公会議の精神が小郡・鳥栖…日本の教会に実現されていくよう、聖人の取り次ぎを祈り続けます。
フランシスコ教皇一般謁見演説
教皇フランシスコ復活徹夜祭説教2014.4.19.
復活徹夜祭2014年4月19日(土)
19時30分から「復活徹夜祭」を行いました。あいにくの天気でしたので、聖堂入口で火と復活のロウソクの祝福を行い、復活の光と共に入堂しました。朗読台の側に復活ロウソクを置き、「復活賛歌」が歌われました。それから、神の救いの歴史を振り返る「ことばの典礼」が行われました。今年は入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体の秘跡)を受ける方がおられなかったので、聖水を祝福した後、復活のロウソクから火をいただいて各自のロウソクを灯し「洗礼の約束の更新」をして新しい聖水を受けました。その後、感謝の典礼(最後の晩さんの記念:聖体の秘跡)を行いました。[写真提供:九州TV] 動画はこのページの最上行「動画BLOG「こころのヒント!」をクリックしてご覧ください。
「主の復活」:ガリラヤに戻る
キリスト者の信仰とはどういうものだろうか。クリスチャンと呼ばれる人たちは何を信じているのだろうか。十字架につけられて殺されたイエスが復活した。死んだ人が生き返った…と信じていることは確か。でも、それだけではない。もっと肝心なことは…受難を受け、十字架刑で殺されたイエスは「復活し、今も生きておられる」ということ。キリスト者と呼ばれる人たちは、それを信じている。「今、生きている」「今もわたしと共に生きてくださっている」と信じている(はず)。
だから、うれしい。だから喜ぶ。だから祝う。だから「復活祭おめでとう」と挨拶を交わす。
復活の聖なる徹夜祭ではマタイによる福音[28章1-10節]が読まれた。
《…天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」》
ガリラヤ…そこはかつて弟子たちがイエスと出合った場所。イエスから声をかけられ、そこから「弟子の道」が始まった場所。天使も、イエス自身も、ガリラヤに戻れと言う。そこでイエスに合える、と言う。
わたしたち一人ひとりにもガリラヤがある。かつて…イエスと出合った時と場所…そこに戻る。そこでイエスに合える。そして今のガリラヤ…今、わたしが生きている時と場所。そこで復活したイエスに出合える。
静かに、沈黙の中で…わたしたちは復活したイエスに出合える。今、わたしと共に生きてくださっているイエスに出合うことができる。イエスはわたしに呼びかける…「おはよう」と。もっとも日常的な言葉…「おはよう」…。
その声を聞き、そのイエスと出合う人が「キリスト者」。洗礼を受けた者だけではない。すべての人は…じっと静かに耳をすませば、じっと目を閉じて見つめれば「復活して今も共に生きておられるイエス」に出合うことができる。それに気づく人が「キリスト者」である。ごく日常の中で、日常の出来事、日常の出合いの中に復活して今も生きておられるイエスを観ることができる。
だから…「おめでとう!」。だから…「よかったね!」。だから…「うれしいね!」
だから「復活祭:主の復活」を祝う。