★10月から12月の主日のミサ時間は以下のとおりです。小郡教会:土曜日19時30分+日曜日11時//鳥栖教会:日曜日8時30分。鳥栖教会での土曜日の夜ミサはありません。
★11月15日(日)の鳥栖・小郡教会での主日のミサは、中村克徳神父様[御受難会宗像修道院]が司式します。ミサの中で七五三の子どもの祝福があります。
2015年10月29日バチカン放送日本語課の記事より。
教皇フランシスコは、10月29日、カトリック系ラジオ放送「ラジオ・マリア」の関係者との出会いを持たれた。
ラジオ・マリアは、1882年にイタリアに創立されたカトリック系ラジオ局。北イタリアの小教区から始まったこの放送は、やがてイタリア全土をカバーするものとなり、現在は世界70カ国に広がっている。
各国から集ったラジオ・マリア関係者およそ200名を温かく迎えられた教皇は、挨拶の中で、福音宣教のために教会を助けるという、同放送局誕生以来の目的を思い起こされた。
そして、常に人々の不安や苦しみに寄添い、信仰の実り、連帯のしるしとしての希望と慰めを与えてきた同放送局の奉仕を喜ばれた。
教皇は、これからも福音と教会の教えに忠実にこの真のミッションを続け、社会の声、特に貧しく疎外された人々の声に耳を傾け、すべてのリスナーの心のよりどころとなって欲しいと励ましを述べられた。
この集いで、イタリアのラジオ・マリア放送局長リヴィオ・ファンザガ神父は、現在迫害下にあるキリスト教徒たちのために、アラブ語のWEBラジオを準備していることを報告した。
この集いで、イタリアのラジオ・マリア放送局長リヴィオ・ファンザガ神父は、現在迫害下にあるキリスト教徒たちのために、アラブ語のWEBラジオを準備していることを報告した。
今日のオミリアは録音に失敗しました。
水腫にかかった人を抱きしめたイエス。
昨日、中学時代の同級生の家族が里帰りの途中に寄ってくれました。車を降りた途端に…「あー、いいですね。癒される感じです。」と言ってくれました。2歳のお孫さんも喜んで活き活きと遊び廻っていました。聖堂の中に入ったときも…「雰囲気が暖かいですね。特別な場所です。癒されます。」と言ってくれました。
ましてや、イエスに抱きしめられた方は、それだけで「癒される」でしょう。律法を守ってるとか、まじめに生きてるとか、悪いことはしてないとか…そういうことで神のいつくしみは制限されるものではありません。12月8日から「神のいつくしみの特別聖年」が始まりますが、その日から「神のいつくしみ」が始まるわけではありません。今、すべての人、すべての被造物、地球、宇宙は、すでに「神のいつくしみに」包まれています。すべてが、神のいつくしみに抱かれています。それに気づくとき、癒しを感じ、平和の中で生きることができるのです。
《答唱詩編》詩編147・12+13、14+15 答唱句:主をたたえよう。主はいつくしみ深く、そのあわれみは永遠。
《第一朗読》ローマ9・1-5 本田哲郎訳「ローマ/ガラテヤの人々への手紙」
わたしは、キリストと一体のものとして、本当のことを言います。偽りは言いません。聖霊と一体となってわたしの心でも証言していることですが、それは、わたしが心に深い悲しみと絶え間ない痛みをもっているということです。感覚の人として言えば、わたしの同胞である仲間たちのためになるのなら、このわたしはキリストから切り捨てられてもいいとさえ思っているのです。この人たちはイスラエル人で、子としての身分もその輝かしさも、契約も律法も、神への奉仕も約束も、かれらのものでした。父祖たちはこの人たちにつながるものであり、感覚の人としては、キリストもこの人たちから出ているのです。すべての人とともにおられる神は、世々にわたってたたえられますように。そうでありますように。
《福音》ルカ14・1-6 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
《周辺に押しやられた人の必要を、優先させよ》
ある安息日に、イエスがファリサイ派の一人の役人の家に、食事によばれて入ったときのことである。人々はイエスのようすをうかがっていた。ちょうどイエスの正面に、水腫にかかった人がいた。イエスは律法家やファリサイ派の人たちに、「安息日に手当てをすることは、ゆらされているか、いないか」と問いかけた。みんなは、だまっていた。それで、イエスはその人を抱きしめて、いやし、家に帰した。そして、人々に言った。「あなたがたの中に、自分の息子か牛が井戸におちたとき、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない人がいるだろうか」。これに対して、その人たちは反論することができなかった。
2015年10月28日バチカン放送日本語課の記事より。
教皇フランシスコは、バチカンで10月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
この日は、1965年10月28日の第2バチカン公会議公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」発布から、ちょうど50周年が記念された。
ローマの教皇庁立グレゴリアン大学では、同公文書発布50年を機に、諸宗教の代表者らが集い、26日より国際会議を開催。参加者らは28日、謁見会場の聖ペトロ広場で教皇の歓迎を受けた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で教皇は、50年前に発表された「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」のメッセージは、今日も生きた価値を持っていると強調。
人類は一つの共同体として、共通の起源と運命を持っていること、様々な民族・文化において様々な宗教が神あるいは絶対なるものを求めていること、カトリック教会はこれらの諸宗教に見出される真実で尊いもの、その信者たちの精神的・倫理的努力を尊重し、すべての人との対話に開いていることなど、同宣言の精神を振り返った。
世界は、わたしたちがすべての宗教の信者たち、また宗教を持たない人々と協力し、平和や、飢餓、貧困、環境問題、暴力、特に宗教の名のもとに行なわれる暴力、贈賄、倫理的退廃、家庭の危機、経済、そして希望について答えることを見守っていると述べた教皇は、より一層の諸宗教間の対話と協力、そして互いの祈りを呼びかけられた。
年間第28主日の「お告げの祈り」のことばです。カトリック中央協議会のホームページから。*最後の行をクリックしてpdf.ファイルから印刷することができます。
*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。
10月7日の謁見のメッセージの公式訳です。今回は「諸国の人々」について。カトリック中央協議会から。 *最終行をクリックしてpdf.ファイルで見る(印刷する)ことができます。
*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。
聖クララ会修道院聖堂でのミサのオミリア[7分]2015 30th Thurs. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。
《第一朗読》ローマ8・31b-39 本田哲郎訳「ローマ/ガラテヤの人々への手紙」
神がわたしたちの側に立ってくださるのなら、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちみんなのために、ご自分の子を惜しまずに死に渡された神が、どうして子といっしょに、すべてをくださらないことがあるでしょうか。神がお選びになった人たちを、だれが訴えることができるでしょうか。神は抑圧から解放する方です。だれがわたしたちを断罪できるでしょうか。キリスト・イエスは、わたしたちのために死んでくださった方、というよりも立ち上がられた(復活した)方、神の右にいてくださる方、わたしたちに代わって願いごとをしてくださる方なのです。わたしたちを大切にしてくださるキリストから、だれがわたしたちを引き離すことができますか。弾圧か、行きづまりか、迫害か、あるいは飢えか、貧困か、災害か、それとも刃物か。聖書にはこう書かれています。「わたしたちはあなたのために一日中死にさらされており、ほふられる羊のように見なされている」(詩編44・23)それでもなお、わたしたちはそれらのどの場合においても、わたしたちを大切にしてくださるキリストのおかげで、余裕をもって勝利しているのです。わたしが納得するに至ったのは、このことです。すなわち、生や死も、天使や支配する霊も、現在や未来の力あるわざも、天空や地底のどんな未知の被造物も、主であるキリスト・イエスが身をもって示された、わたしたちを大切にしてくださる神から、わたしたちを引き離すことはできないということです。
《福音》ルカ13・31-35 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
《「主を身に帯びる」小さくされた人たちを、心からみとめよ》
ちょうどそのとき、数人のファリサイ派の人が近づいてきて、イエスに、「ここを出ていきなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしているから」と言った。すると、イエスはその人たちに言った。「あのきつねに、あなたがたが言いに行ってもいい。わたしは、今日と明日、悪霊を追い出していやしをもたらし、三日目にそれをやりとげる。ただ、わたしは、今日も明日もそのつぎの日も、この道をすすむしかないのだ。預言者がエルサレム以外の場所で死ぬわけにはいかないからだ」。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分につかわされた人たちを石打ちにする町よ。めんどりが羽の下にひなをあつめるように、わたしは、なんど、おまえの子らをあつめようとしたことか…。しかし、あなたがたは、わたしがそうすることを、のぞまなかった。見よ、あなたがたの家の者たちは、あなたがたの手にのこされるのだ。言っておくが、『主を身に帯びて来る人に、祝福を』と、あなたがたが言う時が来るまで、あなたがたはわたしと出会うことはけっしてないだろう」。
聖クララ会修道院聖堂でのミサのオミリア[10分]2015 30th Wed. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。
《第一朗読》エフェソ2・19-22 本田哲郎訳「パウロの書簡」
ですから、もうあなたたちは「よそ者」でも「寄留者」でもなく、「聖なる者」たちと同じ住民、神の家族の一員です。あなたたちは、特使(使徒)や預言のことばを話す者たちを土台にした建物に組み込まれており、そのかなめ石はキリスト・イエスです。このかなめ石であるキリストと一体につながっていてこそ、建物全体は組み合わせよく建て上げられていき、主の神殿ができあがります。あなたたちも、このキリストと一体となって、霊の働きによって、同じ建物に組み込まれ、神の住まいをいっしょに造っているのです。
《福音》ルカ6・12-19 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
《底辺から立つ人たち(漁師・収税人など)が、「派遣される者」に》
そのころ、イエスは祈るために山に出かけ、神に祈って夜を明かした。朝になると、イエスは弟子たちを呼んで、その中から十二人をえらんで、「派遣される者」と名づけた。それは、イエスがペトロと名をつけたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、フィリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルファイのヤコブと「過激派」と呼ばれていたシモン、ヤコブのユダとイスカリオテのユダである。このユダが裏切り者となった。
《痛みを共有する「手当て」が、「いやし」を呼ぶ》
イエスは弟子たちといっしょに山を下りて、すそ野のところに立った。そこにはイエスの弟子である民衆と、ユダヤ全域およびエルサレム、ティルスやシドンの海岸地方からの民の群れがいた。この人たちは、イエスの話を聞くため、病気をいやしてもらうために、やって来ていた。けがれた霊になやまされていた人たちも、手当てをしてもらった。民衆はみな、イエスにさわってもらおうとしていた。イエスから神の力が出て、みんなにいやしが起こっていたからである。
聖クララ会修道院聖堂でのミサのオミリア[4分]2015 30th Tue. in ordinary time(B)←をクリックして聴くことができます。
《第一朗読》ローマ8・18-25 本田哲郎訳「ローマ/ガラテヤの人々への手紙」
《すべての被造物も、ともに解放されることを待ちわびている》
やがてわたしたちに現される輝きを思えば、今のときの苦しみは取るに足りないとわたしは考えます。被造物は、神の子どもたちが現れ出るのを、期待をこめて待ち受けています。被造物は、今は空しく従うだけですが、進んでそうしているのではなく、従わせるものがあるからです。それはひとつの確かさです。それは、被造物みずからも、腐敗への奉仕から解かれて、神の子どもたちの輝かしい自由に参加するようになるというものです。被造物はみな、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。そればかりか、かれらも霊の初穂をいただいており、わたしたちもかれらも、それぞれの内でうめいています。そして、わたしたちが神の子どもとなることを、すなわち、この体が贖われることを、待ち受けているのです。わたしたちには確信があるということで、もう救いを得ています。見た上で確信するというのは確信ではありません。見ていることを確信するという人がいますか。わたしたちは、まだ見ていないことを確信しているのであれば、低みからめげずに立ちつづけて、それを待ち受けるものです。
《福音》ルカ13・18-21 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
さて、イエスは言った。「神の国は何に似ているか、何にたとえようか。それはからし種に似ている。人がその種を自分の庭に放っておいたら、成長して木になった。そして、空の小鳥たちがその枝に巣をつくった」。イエスはさらに言った。「神の国は何にたとえようか。それは酵母(こうぼ)に似ている。婦人がそれを四十リッターの粉にねりこむと、やがてぜんぶが発酵する」。
小郡教会聖堂での11時「年間第30主日」ミサの説教[12分]Ogori 2015 30th Sunday←をクリックして聴くことができます。
《福音》マルコ10・46-52 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」
一行はエリコにやって来た。そして、イエスが弟子たちや多くの民衆とともに、エリコの町を出て行こうとしたとき、通り端に、ティマイの子バルティマイという、目の見えないもの乞いが座っていた。バルティマイは、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの申し子イエス、わたしの苦しみを分かってくれ」と叫びだした。おおぜいの人たちがかれを叱りつけてだまらせようとしたが、バルティマイはますます、「ダビデの申し子、わたしの苦しみを分かってくれ」と叫んだ。イエスは立ちどまって言った。「あの人を呼びなさい」。人々は、その目の見えない人に声をかけて、「安心しろ。立て。おまえを呼んでおられる」と言った。バルティマイは上着をぬぎすて、おどりあがってイエスのもとに来た。イエスがかれに、「何をしてほしいのか」とたずねると、目が見えないその人は、「導師、見えるようになりたい」と言った。イエスはかれに言った。「行きなさい。あなたが信頼をもってあゆみを起こしたそのことが、あなたを救った」。すると、かれはすぐに見えるようになり、道々、イエスのついて行った。