小郡教会での19時30分からの「年間第4主日前晩」ミサ説教。[11分]Ogori 2016.1.30.Vigil←をクリックして聴くことができます。
《第二朗読》1コリント12・31〜13・13 本田哲郎訳「コリントの人々への手紙」 新世社
求めるべきは、「人を大切にする」(愛)というカリスマ
あなたたちは、もっとも偉大なカリスマを、熱く求めてください。最高の道として、それをあなたたちに示します。/たとえわたしが、異なることば(異言)で話し、み使いのことばで話せたとしても、人を大切にしないなら、わたしは音を立てるドラ、けたたましいシンバルです。たとえわたしが、預言する力をもち、神秘のすべて、あらゆる知識に通じていて、絶対の信頼をもってあゆみを起こし、山を移すことができたとしても、人を大切にしないなら、わたしの存在は無意味です。たとえわたしが、全財産を炊き出しに注ぎ込み、わが身を投げ出して、それを誇りに思ったとしても、人を大切にしないなら、わたしに益するところはありません。/人を大切にするとは、忍耐づよく相手をすること。人を大切にするとは、思いやりをもって接すること。人を大切にするとは、ねたまず、うぬぼれず、思い上がらず、めざわりなことをせず、自分の利を求めず、いらだたず、人の意地悪を根に持たず、人を不正に抑圧して喜ばず、ともに真実を喜ぶこと。人を大切にするとは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし(信仰)、すべて確かなことに心を向け(希望)、どんなことにもめがずに立ちつづけることです。
「人と大切にする」こと(愛)こそ、すべてを集約する
「人を大切にする」ということは、けっして途絶えることはありません。いずれ預言のことばは出なくなり、異言はやみ、知識への傾きもなくなります。わたしたちは役割に応じて意味を知り、役割に応じて預言のことばを話すものだからです。しかし、この完全なものが登場するとき、役割としてのものは消え去ります。/わたしが乳飲み子のときは、乳飲み子らしく話し、乳飲み子らしい感性をもち、乳飲み子らしく考えたものです。それがおとなになると、乳飲み子のふるまいは消え去っています。/今、わたしっちに見えているのは鏡ごしのぼんやりしたものです。しかし、そのときがきたら、くまなくはっきりと見えるようになるはずです。今のわたしたちは役割に応じて知識があるというだけですが、そのときには、自分が神に知られているとおりに、自分をはっきりと知るようになるのです。/ところで、永続するもの、それは「信頼してあゆみを起こす」こと(信仰)、「確かさに心を向ける」こと(希望)、「人を大切にする」こと(愛)の三つです。このうちもっとも偉大なものは、「人を大切にする」ということです。
《福音》ルカ4・21-30 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」 新世社
立場をはっきりさせたイエスを、郷里の人たちが町から追い出す(マタイ13・55-58、マルコ6・3-6)
[そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた]イエスは、「ここに書かれていることは、きょう、あなたたちが耳にしたとき、実現した」と話しはじめた。/みんなはイエスに心を動かしながらも、その口から出るゆたかなことばをいぶかしく思い、口々に、「この人は、ヨセフのせがれではないか」と言った。イエスは言った。「おそらくあなたたちは、『医者よ、自分自身を手当てせよ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろやったと聞いたが、自分の郷里のここでもやれ』と言うだろう」。/そして、こう言った。「はっきり言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものだ。正直に言おう。エリヤの時代、イスラエルにはおおぜいのやもめがいたが、三年六ヵ月の間天が閉ざされて、全土に大飢饉が起きたとき、エリヤはそのうちのだれのところにもつかわされず、シドンのサレプタのやもめ(列上17・8-24)のところにつかわされただけだった。また、預言者エリシャの時代、イスラエルにはおおぜいのらい病の人がいたが、そのうちのだれも清められず、シリアのナアマン(列下5・1-14)が清められただけだった」。/これを聞いた会堂内の人々はみな憤慨し、立ち上がってイエスを町の外まで追い出し、町が建っている山の崖っぷちに引いていって、つき落とそうとした。しかし、イエスはその人たちのあいだをとおって、立ち去った。