月別アーカイブ: 2016年2月

教皇フランシスコ「お告げの祈り」メッセージ(2016.2.14.)公式訳

「四旬節第1主日」の「お告げの祈り」のことばです。カトリック中央協議会のホームページから。*カトリック中央協議会広報部から(文字を拡大し、読みがなを付けることを含めて)転載の許可を得ています。

*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。

2016.2.14. PF.「お告げの祈り」でのことば_ページ_1 2016.2.14. PF.「お告げの祈り」でのことば_ページ_2

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2016.2.27.〜3.13.)

フランシスコ教皇の勧めに従い、3月3日(金)から4日(土)にかけて「主にささげる24時間」を行ないます。3日(金)19時ミサ。ミサに続いて21時まで聖体顕示をして沈黙のうちに祈ります。その間、ゆるしの秘跡を行います。

3月4日(土)は10時から黙想。11時30分からミサ。午後は13時から16時まで「ゆるしの秘跡」を行ないます。19時30分から「四旬節第4主日」前晩のミサを行ないます。*一年8,760時間。そのうちの「24時間」を主にささげましょう。

鳥栖・小郡ミサ時間と場所2015

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[基山]四旬節第2土曜日のオミリア(2016.2.27.)

鳥栖の巡回教会、基山教会の聖堂で行われたミサのオミリア[14分]基山2016.2.27.←をクリックして聴くことができます。基山教会では第二、第四土曜日7時から週日のミサをしています。

★3月の基山での土曜日のミサは12日のみです。ミサ後に「ゆるしの秘跡」を行います。

 

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教皇フランシスコの一般謁見演説(2016.2.10.)公式訳

2月10日の謁見のメッセージの公式訳です。特別聖年に関する連続講話。第7回。「聖書の中のヨベルの年(聖年)—正義と分かち合い」カトリック中央協議会ホームページから。*カトリック中央協議会広報部から転載の許可を得ています。

*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。

2016.2.10. PF.一般謁見演説 :聖書の中のヨベルの年(聖年)_ページ_1 2016.2.10. PF.一般謁見演説 :聖書の中のヨベルの年(聖年)_ページ_2 2016.2.10. PF.一般謁見演説 :聖書の中のヨベルの年(聖年)_ページ_3 2016.2.10. PF.一般謁見演説 :聖書の中のヨベルの年(聖年)_ページ_4

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教皇から子どもたちへ、書簡が本に

2016年2月25日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇から子どもたちへ、書簡が本に

教皇フランシスコの子どもたちへの書簡が本となって出版された。

「親愛なる教皇フランシスコへ-教皇が世界の子どもたちの手紙に答える」(英語版・仮訳)と題されたこの本は、子どもたちの様々な質問に、教皇が書簡の形で答えを与えるもの。

同書は、米国のイエズス会の出版部「ロヨラ・プレス」の企画によって実現した。

英語版に続き、2月25日にはイタリア語版が「天地より先に愛‐教皇フランシスコの子どもたちへの手紙」というタイトルで発売された。

その内容は、教皇と世界中の子どもたちの心と心の対話を伝えるもので、信頼をもって自分たちのいろいろな問題や希望を託す子どもたちと、教皇は父のように向き合い、一つひとつの問いに易しい言葉で誠実に答えている。

たとえば、カナダの少年の「神は天地創造の前に何をしていましたか」という問いに対し、教皇は「天地を創造する前に、神は愛していました」「神はいつも愛しておられます。神は愛です」と答えている。

また、教皇は子どもたちの苦しみにも触れ、米国の少年の「奇跡が行なえるなら、どんなことをしますか」という質問に、「奇跡ができるなら、すべての子どもの病気を癒します」と書いている。

教皇はペルー、オーストラリア、シリア、ジンバブエ、ドミニカ共和国、ナイジェリア、中国、英国、フィリピンなど、世界各国の子どもたちとの対話を通し、信仰、家族、天国、戦争、諸宗教など、幅広い問題について語っている。

また、ご自身についての多くの質問にも率直さをもって答え、「教皇になってどう思いますか」との問いに、「父親のようであること、それ以外は考えられません」「人々と一緒にいることが、わたしを幸せにします。人々と一緒にいられない時は、イエスと一緒にいて、人々について話しています」と記している。

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[聖クララ会]四旬節第2金曜日のオミリア(2016.2.26.)

聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[7分聖クララ会2016.2.26.←をクリックして聴くことができます。

《答唱詩編》詩編30・2b+4、11+12 新共同訳

神はわたしを救われる。そのいつくしみをたたえよう。

 神よ、あなたはわたしを救い、死の力が勝ち誇るのを許されない。神よ、あなたは死の国からわたしを引き上げ、危ういいのちを助けてくださった。/神よ、いつくしみ深くわたしを顧み、わたしの助けとなってください。あなたは嘆きを喜びに変え、あら布を晴れ着に替えてくださった。

《福音》マタイ21・33-43、45-46 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

ぶどう園を乗っ取る農夫は、イスラエルの指導者たち(マルコ12・1-12、ルカ20・9-19)

 [そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちにに言われた。]「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣をめぐらし、中にしぼり場を掘り、見張りやぐらを建て、農夫たちにこれをゆだねて、よその土地に帰っていった。実りの季節が近づいたとき、主人は実りを受け取るために、しもべたちを農夫たちのところへつかわした。すると、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、ある者の身ぐるみをはぎ、ある者を殺し、ある者を石打ちにした。主人はふたたびほかのしもべたちを、前よりもおおぜいつかわしたが、農夫たちは同じようにあしらった。主人はさいごに、『わたしの息子なら、対応はちがうだろう』と言って、自分の息子を農夫たちのところへつかわした。農夫たちは息子を見ると、仲間うちで示し合わせた。『こいつは、跡取り息子だ。さあ、殺して財産を手に入れよう』。そこで農夫たちは息子をつかまえると、ぶどう園の外に引きずり出して、殺した。さて、ぶどう園の主人は、もどって来たとき、この農夫たちをどうするだろうか」。かれらは言った。「悪いやつらは容赦なく打ちのめし、ぶどう園を、季節ごとに実りをおさめるほかの農夫たちに任せる」。イエスはかれらに言った。「聖書にこう書かれたいるのをあなたたちは知らないのか。『建築家のすてた石、これが角(すみ)の首石(おやいし)となった。これは主がなされたこと。われわれの目にはおどろくべきこと』(詩編118・22-23)だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取りあげられ、神の国の実をむすぶ世の民に与えられる」。/大祭司やファリサイ派の人たちは、この一連のたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っていると気づいた。そこで、イエスをなんとかして捕らえたかったが、民衆を恐れた。人々はイエスを預言者だと信じていたからである。

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「神のいつくしみと権力」をテーマに、教皇一般謁見

2016年2月24日バチカン放送日本語課の記事より。

「神のいつくしみと権力」をテーマに、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで2月24日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「聖書に見る神のいつくしみ」の考察を続ける教皇は、この日は「いつくしみと権力」をテーマに講話された。

聖書は様々な箇所で、王や上位にいる者など、「権力者」について語り、その傲慢さや横暴さに触れてきたと教皇は指摘。

富と権力は、正義と慈愛をもって貧しい人々やすべての民のために用いれば、共通善に役立つ良いものとなり得るが、それが一つの特権として自己中心的、高圧的に用いられる時、腐敗と死の道具に変ってしまうと話された。

教皇は権力の横暴の例として、旧約聖書・列王記上21章にある「ナボトのぶどう畑」の話を取り上げられた。

イスラエルを支配する王アハブは、ナボトという人が所有するぶどう畑を、宮殿に隣接しているという理由で買い取ろうとし、よい条件を提示した。しかし、イスラエルにおいて土地は主の賜物として聖なるものであり、実際、ナボトは「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない」と王からの話を断わった。

ナボトの拒否に王はひどく機嫌を損ねた。そこに介入した妻のイゼベルは、「今イスラエルを支配しているのはあなたです」と言い、ナボトのぶどう畑を手に入れるために、彼女が考える「権力」、すなわち王のすべての望みは絶対命令であるという考えを行使した。そして、王の名で長老たちに手紙を書き、ナボトが神と王を呪ったという讒言のもとに、彼を殺害させた。

このエピソードに見る王の「権力」と対比し、教皇はイエスの「支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕えるものとなり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20,25-27)という言葉を思い起こされた。

「しかしながら、神は人間の悪や不正な業よりもっと偉大であった」と述べた教皇は、神がそのいつくしみによって預言者エリヤを遣わし、アハブの回心を促し、その罪を理解したアハブが打ちひしがれ、赦しを求めた経過を教皇は説明された。

主はアハブの悔悛を受け入れられたが、いずれにせよ、彼の罪の結果として一人の無実の人が殺されてしまった。このように悪は苦しみの跡を残し、人間の歴史は傷を引きずるが、こうした中にも、神のいつくしみの業は進められていくと教皇は説かれた。

イエス・キリストは真の王であるが、その権力はまったく違うものであると述べた教皇は、その王座としての十字架、殺すことなく命を与え、弱い者に寄添い、罪の結果である死に打ち勝つイエスの王としての姿を観想するよう招かれた。

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[聖クララ会]四旬節第2木曜日のオミリア(2016.2.25.)

聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[6分聖クララ会2016.2.25.←をクリックして聴くことができます。

《答唱詩編》詩編1・1ac+2、3 新共同訳

流れのほとりの木のように、神に従う人は実を結ぶ。

 しあわせな人、罪びとの道を歩むことなく、神のおきてを喜びとし、昼も夜も教えを心に留める人。/流れのほとりに植えられた木が、季節になると豊かに実り、葉もしおれることのないように、この人の行いも実を結ぶ。

《福音》ルカ16・19-31 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

「金持ち」の門前に「貧しい人」はいる—金持ちが貧しい人をつくる

 [そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「一人の金持ちがいた。紫布や亜麻布の衣をきて、毎日はなやかに、おおしろおかしくすごしていた。その金持ちの門前に、ラザロという、できものにおおわれた貧しい人が横たわっており、その金持ちの食卓からおちるもので、腹をみたしたいと重いっていた。犬がよってきては、できものをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、み使いたちによってアブラハムのふところにはこばれた。また、金持ちも死んで、葬られた。/金持ちは地獄で苦しみながら目を上げると、はるかかなたに、アブラハムとそのふところにいるラザロが見えた。かれは声をあげていった。『父アブラハムよ、わたしの苦しみを分かってください。ラザロを送って、指先を水にひたしてわたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中であえいでいます』。すると、アブラハムは言った。『おまえは生きているあいだ、あれこれ良いものを手にしたが、ラザロは反対にいやなものばかりだった。だから今、ラザロはここで慰めを受け、おまえは苦しみにあえぐのだ。そればかりではなく、わたしたちとおまえたちのあいだには大きな裂け目があって、こちらからおまえたちのほうへ、渡りたくても渡れず、そちらからわたしたちのほうへ越えて来ることもできないのだ』。すると金持ちは、『父よ、それならお願いします。ラザロをわたしの父親の家にやってください。わたしには弟が五人いますが、弟たちまでこんな苦しいところに来ないよういn、しっかり分からせてほしいのです』と言った。/アブラハムは、『かれらには〈モーセと預言者〉がいる。それに聞きしたがったらいいのだ』と言った。しかし金持ちは、『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者のだれかが弟たちのところは行けば、きっと低みに立って見直すはずです』と言った。そのときアブラハムは言った。『〈モーセと預言者〉に聞きしたがわない者は、死者の中からだれかが生き帰って来たとしても、納得するものではないのだ』」。

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