月別アーカイブ: 2016年3月

罪を清める神のいつくしみ、教皇一般謁見

2016年3月30日バチカン放送日本語課の記事より。

罪を清める神のいつくしみ、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで3月30日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

復活祭直後のこの謁見には、世界各国の巡礼者が数多く訪れた。

教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、旧約聖書に見る神のいつくしみをテーマに、詩編51を取り上げながら、「罪を清める神のいつくしみ」を考察した。

「ミゼレーレ」と呼ばれる詩編51は、「神よ、わたしを憐れんでください」という言葉で始まる悔い改めの祈りで、自分の罪を告白し、赦しを乞い、神の愛に清められることで新しい人間となることを願っている。

この詩編はユダヤ教の伝統において、ダビデ王がウリヤの妻バト・シェバを奪い、ウリヤをわざと激しい戦いの最前線に送り戦死させた後、預言者ナタンの叱責によってその罪深さを自覚し、神との和解を求めた時のものと言われる。

この詩編をもって祈る人は、ダビデ王が神に対して抱いたのと同じ悔悛と信頼の気持ちを持つだろうと教皇は述べつつ、ダビデ王の自らの罪を告白し、自身の惨めさをさらすことを恐れない謙遜さと共に、神のいつくしみに対するその確信を指摘された。

「神よ、わたしを憐れんでください
 御いつくしみをもって。
 深い御憐れみをもって
 背きの罪をぬぐってください。
 わたしの咎をことごとく洗い
 罪から清めてください」(詩編51,3-4)

いつくしみ深い神に向けたこの祈りの中では、「ぬぐい去る」「洗う」「清める」といった造形的なイメージが用いられている。教皇はこの祈りには、人間が生きる上で真に必要とすること、すなわち、赦され、悪とその結果である死から解放されることへの願いが表現されていると話された。

残念ながら、人生の中でわたしたちは何度もこうした状況に陥るが、大切なのは神のいつくしみに信頼することと教皇は述べ、「神はわたしたちの罪より、ずっと大きな方です」と説かれた。

こうした意味で、この詩編によって祈る人は赦しを乞い、自分の罪を告白しながら、同時に、神の正義と聖性を祝うのであり、神の赦しの力によって罪は根本から清められ、悔悛者は雪より白くなると話された。

罪びとは、神の赦しによって聖霊と喜びに満ちた新しい人間となり、新しい心と、精神、生活をもって、新しい現実が始まる。神の恵みを受け入れ、赦された者は、他の人々にも罪を犯さないようにと教える力を得ると教皇は述べられた。

「神の赦しはわたしたち皆が必要とするものであり、神のいつくしみの最も大きなしるしです」「赦されたすべての罪びとは、その賜物を出会う兄弟姉妹たちと分かち合うように招かれています」と強調された教皇は、わたしたちが心を清め人生を変える神の赦しの証し人となれるようにと祈られた。

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[聖クララ会]復活の木曜日のオミリア(2016.3.31.)

聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[4分聖クララ会2016.3.31.←をクリックして聴くことができます。

明日は初金曜日で、19時から聖堂でミサが行われます。

《福音朗読》ルカ24・35-48 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

 [そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、]道で起こったこと、パンを裂いたときにイエスだと分かったことを、みなに話した。

復活の確認—集まっていた弟子たちと、「亡霊」さわぎ

 みんながそういうことを話していたとき、イエスがまん中に立って、「あなたたちに平和」と言った。みんなは恐ろしさにおびえ、亡霊を見ていると思った。すると、イエスは言った。「なぜ、うろたえるのか。どうして、心にうたがいをさしはさむのか。わたしの手、わたしの足を見なさい。わたしそのものだ。さわって、よく見なさい。見てのとおり、わたしには肉も骨もあるが、亡霊にはないはずだ」。そう言って、イエスはみなに手と足を見せた。かれらが喜びのあまり、まだ信じられず、驚いていると、イエスは、「ここになにか食べるものはあるか」と言った。かれらが焼いた魚を一切れさしだすと、イエスは受けとって、みなの前で食べた。

イエスの復活は聖書の実現

 イエスは弟子たちに言った。「わたしについて、『モーセの律法と預言者と詩編』に書かれていることはすべて、かならず実現するということ、これこそ、わたしがあなたたちといっしょにいたとき、言っておいたことである」。そして、イエスは、かれらが聖書を心に感じて共に立てるように、判断の視点を明らかに示した。そして弟子たちに、「まさに、聖書にはこう書いてあるのだ。『キリストは苦しみを受け、三日めに復活する』と」。

弾圧の中で小さくされて立つ弟子たちの使命と、聖霊の約束

 「それゆえ、あなたたちはキリストを身に帯びて、エルサレムからはじめて、すべての民に、道をふみはずしたことへのゆるしをもたらす低みからの見直しを告げ知らせるのだ。あなたたちは、このことの証人である」。

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[聖クララ会]復活の水曜日のオミリア(2016.3.30.)

聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[5分聖クララ会2016.3.30.←をクリックして聴くことができます。

《福音朗読》ルカ24・13-35 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

復活の確認—二人の弟子と「見知らぬ旅人」

 その同じ日に、二人の弟子が、エルサレムから十キロほどはなれたエマオという村に向かっていた。二人は、このたび起こったことの一つひとつについて、話し合っていた。二人が話し合い、確かめ合っているときのこと、イエス自身が近づいてきて、道づれになった。しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスだと気づかなかった。/イエスは二人に、「あなたたちが歩きながらしているその話は、なんのことか」と言った。二人はしずんだ顔つきで立ちどまった。その一人の、クレオパという弟子が言った。「エルサレムに滞在していながら、ここ数日に起こったことを知らないのは、あなただけじゃないだろうか」。イエスが、「どういうことか」と言うと、二人は言った。/「ナザレのイエスのことだ。この人は、神の前に、そして民のみんなの前に、行ないにもことばにも力のある預言者だった。それなのに、大祭司やわれわれの指導者たちは、イエスを引きわたして死刑の判決をくださせ、十字架につけたのだ。わたしたちは、この人こそ、やがてイスラエルを解放する方だと、期待していたのだ。しかし、この事件が起きて、今日でもう三日めだ。/ところが、仲間のある婦人たちが、わたしたちをおどろかせた。婦人たちは、朝はやく墓に行ったが、イエスの体が見当たらないといって、もどってきて、み使いが現われて、イエスは生きていると言った、と言うのだ。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたけれど、婦人たちの言ったとおりで、イエスは見つからなかったというわけだ」。/すると、イエスは、「ああ、ものわかりがわるく、心のにぶい人たちだ。預言者たちが告げたことを、あなたたちは信頼をもって受けとめようとしていない。『キリスト』はこういう苦しみを受けてこそ、栄光に入るはずではなかったのか」と言い、モーセからはじめて、すべての預言者、聖書全体にわたって、自分について書かれていることの意味をときあかした。/さて、かれらはめざす村についたが、イエスはさらに先まで行くようすだった。そこで、二人はイエスをしいて引きとめ、「わたしたちといっしょに泊まりなさい。そろそろ夕暮れで、もう日は傾いているから」と言った。それでイエスは、二人といっしょに泊まることにして、村に入った。/イエスは二人といっしょに食卓についていたとき、パンを取り、賛美をささげてそれを裂き、二人に与えた。するとそのときには、二人の前からイエスの姿は消えていた。二人は、「あの人が、道々話し、聖書をときあかしてくれたとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と、互いに言った。/時を移さず二人は立ち上がって、エルサレムにもどった。そこには十一弟子と仲間たちがあつまっていて、「ほんとうに主は復活した。シモンに姿を現わされたのだ」と話していた。二人も、道で起こったこと、パンを裂いたちきにイエスだと分かったことを、みなに話した。

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2016年度復活徹夜祭:教皇「希望に心を開き、歩き始めよう」

2016年3月26日バチカン放送日本語課の記事より。

2016年度復活徹夜祭:教皇「希望に心を開き、歩き始めよう」

教皇フランシスコは、「聖土曜日」3月26日の夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「復活の聖なる徹夜祭」をとり行われた。

復活祭前日の「聖土曜日」から、「復活の主日」の夜明けまでの間に、主キリストの復活を待ちながら祈り、その過ぎ越しを祝う荘厳な儀式が行なわれる。復活徹夜祭は、一年間の典礼の頂点である「過ぎ越しの聖なる三日間」のさらなる中心であり、「すべての聖なる徹夜祭の母」といわれる。

この儀式は、教皇による火と復活の大ろうそくの祝別から始まり、復活の光の入堂、復活賛歌の朗唱が行われた。

復活徹夜祭の中では、伝統として成人の洗礼式が行なわれる。教皇はアルバニア、カメルーン、韓国、インド、中国などを出身とする12人の洗礼志願者に洗礼を授けられた。

教皇フランシスコの2016年度復活徹夜祭の説教は以下のとおり。

********

「ペトロは墓へ走った」(ルカ24,12)。どのような思いが走るペトロの頭と心によぎったでしょうか。福音書は、ペトロをはじめとする11人の弟子たちは、婦人たちが墓で見聞きしたことを信じず、むしろ「この話がたわ言のように思われた」と記しています(ルカ24,11)。それゆえに、ペトロの心には疑念と共に多くの否定的な考えが浮かんでいました。ペトロは、愛する師が死んだ悲しみと、イエスの受難の際、自分が師を3度「知らない」と否定したことへの失望でいっぱいでした。

しかし、一つの記述がペトロに変化が起こったことを告げています。婦人たちの話を聞き、それを信じなかったにも関わらず、ペトロは「立ち上がった」(同24,12)というのです。ペトロは座ったまま考え込んでいたのではなく、他の弟子たちのように家に閉じこもってもいませんでした。これらの日々の暗い雰囲気に囚われたままでいることも、疑念に引きずられることもありませんでした。後悔や、恐れ、無駄な噂話に心を奪われたままでもいませんでした。ペトロは自分自身ではなく、イエスを求めました。彼は昔のように、出会うことと信じることの方を選びました。そして立ち上がり、墓へ走りました。そしてそこで見たことに「驚きながら」(同24,12)家に帰ったのです。これがペトロの「復活」、彼の心の復活の始まりでした。悲しみや暗い心に負けず、彼は希望の声に語らせ、神の光が心に差し込むままにしたのです。

墓に香料を持っていくという、いつくしみの業を行うために、明け方早く出かけた婦人たちも、同じ体験をしました。彼女たちは「恐れて地に顔を伏せ」ましたが、「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」という天使たちの言葉を聞きました(同24,5)。

わたしたちもまた、ペトロと婦人たちと同様、悲しみの中に閉じこもり、自分自身だけに囚われていては、いのちを発見することはできません。わたしたちの中の閉ざされた墓を主に開きましょう。イエスはその中に入り命をくださるでしょう。怨恨の石を、石臼のような過去を、弱さと堕落の重い岩をイエスのもとに運びましょう。イエスは来て、わたしたちの手を取り、苦悩の中からわたしたちを引き出してくださるでしょう。しかし、これは今晩転がすべき最初の石、希望の欠如ゆえにわたしたちを自分自身に閉じ込めている石です。主が復活しなかったかのように生き、自分の問題だけを人生の中心に据えて生きる、希望のないキリスト者という、この恐ろしい罠から、主がわたしたちを救い出してくださいますように。

わたしたちは自分の近くの問題と自分の中の問題を見続けています。問題は常にあるでしょう。しかし、この夜、この問題を復活の光で見つめ、ある意味「福音化」してみましょう。闇と恐れが魂の眼差しを惹き付け、心を奪うことはもうなく、わたしたちは天使のあの言葉を聞くでしょう。主は「ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24,6)。主はわたしたちの最大の喜びです。主は常にわたしたちのかたわらにおられ、決してわたしたちを失望させることがありません。

これが希望の基にあるものです。それは単なる楽観主義でも、心理的態度でも、がんばれという招きでもありません。キリスト教の希望は、わたしたちが自分の殻から出て、神に自分を開くことで、神が与えてくださるものです。この希望は欺くということがありません。なぜなら聖霊がわたしたちの心に注がれているからです(ローマ5,5)。慰めの主は、魔法の杖ですべてを良く見せるわけでも、悪を消すわけでもありません。しかし、真の生きる力を呼び覚ましてくれます。人生に問題はつきものですが、そこには常にキリストによって愛され、赦されているという確信があります。キリストは、罪と死と恐れに勝利しました。今日はわたしたちの希望とこの確信を祝う日です。何も、何者も、その愛からわたしたちを引き離すことはできません(ローマ8,39)。

主は生きておられ、生きる人々の間でご自分を見つけてもらいたいと願っておられます。イエスと出会った後、それぞれの人が復活のメッセージを告げることで、悲しみに沈み、人生に光を見出せない人たちの心に希望を呼び起こすよう、イエスから派遣されています。それは今日において大変必要とされていることです。自分自身のことは忘れ、希望の喜びにあふれたしもべとして、生活と愛を通して、復活の主を告げるようにとわたしたちは招かれています。そうでなければ、わたしたちは多数の会員とよい規則を持ちながらも、世界の切望に対して希望を与えることのできない単なる国際組織になってしまいます。

どのようにしてわたしたちは希望を育むことができるでしょうか。今晩の典礼はわたしたちに有益な示唆を与えてくれます。それはわたしたちに神の業を思い出し行なうようにと教えています。実際、ミサの朗読は、神の誠実と、わたしたちに対するその愛の歴史を語りました。生きた神のみことばは、わたしたちをこの愛の歴史に引き入れ、希望を育み、喜びで力づけてくれます。それはわたしたちが耳を傾けた福音書も教えてくれることです。天使たちは、婦人たちに希望を呼び覚ますためにこう言いました。「(イエスが)お話しになったことを思い出しなさい」(ルカ24,6)。わたしたちはイエスの言葉、行われたことを忘れません。さもなくば、わたしたちは希望を失ってしまいます。これに対して、わたしたちは主の記念を行い、わたしたちの心に触れたその愛と言葉を思い起こすのです。わたしたちもまたそれを自分のものとし、夜明けの番人となって、復活の主のしるしを見分けなければなりません。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、キリストは復活されました!希望に心を開き、歩き始めましょう。キリストの行いと言葉の記憶が、輝き出る光となって、わたしたちの歩みを終わることのない復活へと確かに導いてくれますように。

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[聖クララ会]復活の火曜日のオミリア(2016.3.29.)

聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[10分聖クララ会2016.3.29.←をクリックして聴くことができます。

《第一朗読》使徒言行録2・36-41 小さくされた者たちの言行録 本田哲郎訳 「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録」 新世社

 [五十日祭の日にペトロはユダヤ人たちに言った。]「ですから、イスラエルの家に属する人はみな、はっきりと知るべきです。神は、あなたたちが十字架につけたそのイエスを、『主』とし、『キリスト』(油注がれた者)とされたということです」。

低みからの見直し(メタノイア)が、聖霊に身を沈めてもらう(洗礼)条件

 聞いていた人たちは心を打ちのめされた。それで、ペトロとほかの派遣される者たちに、「同胞の方々、わたしたちはどうすればいいのですか」と言った。ペトロはその人たちに言った。「低みに立って見直し、一人ひとりみな、「キリスト」であるイエスご自身にむすびついて沈めの式を受けなさい。そうすれば、道をふみはずしたことはゆるされ、おくりものとして聖霊を受けるのです。聖霊の約束は、あなたたちに向けられたものであり、あなたたちの子どもにも、はるか遠くの人たちにも、神である主が呼びかける、すべての人に向けられているのです」。ペトロはほかにも多くの事例をあげて証言し、「このひずみきった社会から自由になりなさい」と言って、みんなを励ました。ペトロが身をもって示したことを受け入れた人たちは、沈めの式をしてもらい、その日、およそ三千人が仲間に加えられた」。

 

《福音朗読》ヨハネ20・11-18 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

イエス、低みに立つマグダラのマリアに現われる(マルコ16・9-11)

 マリアは墓の前に残り、外で泣いていた。泣きながら身をかがめて中をのぞくと、白い衣もまとったふたりの御使いが座っているのがはっきり見えた。そこは、イエスの体が置いてあったところで、一人は頭のほうに、一人は足のほうにいた。かれらはマリアに、「なにを泣いているのか」と言った。マリアは、「わたしの主が移されてしまっています。どこに置かれてるのか、分からないのです」と言った。そう言って、マリアがうしろをふり返ると、イエスが立っているのがはっきり見えた。しかし、マリアは、それがイエスだとは分からなかった。イエスはマリアに言った。「なにを泣いているのか。だれをさがしているのか」。マリアは園の番人だと思って、その人に、「すみません。もしあなたがあの方を運んだのなら、どこへ置いたか言ってください。わたしが引き取ります」と言った。イエスは、「マリア」と言った。マリアはふりかえると、ヘブライ語で言った。「ラッブーニ」(導師という意味)。イエスはマリアに言った。「すがりつくのはよしなさい。わたしは、まだ、父のもとに上っていない。それより、わたしの仲間たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしは、わたしの父でありあなたたちの父である方、わたしの神でありあなたたちの神である方のもとへ上る』と」。マグダラのマリアは行って、弟子たちに、「わたしは主に会いました」と言い、主が言われたことを告げた。

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復活祭2016:教皇フランシスコによるウルビ・エト・オルビ

2016年3月27日バチカン放送日本語課の記事より。

復活祭2016:教皇フランシスコによるウルビ・エト・オルビ

カトリック教会の典礼暦は、3月27日、主の復活の大祝日を迎えた。

教皇フランシスコは、聖土曜日の26日夜、「復活の聖なる徹夜祭」をバチカンの聖ペトロ大聖堂で祝われた。

そして、復活祭当日の朝、教皇は「復活の主日のミサ」を捧げられた。

この日のローマは、青空に薄い雲の浮かぶ穏やかな天候に恵まれ、聖ペトロ広場は教皇ミサに参列し、祝福を受けようと集った世界各国の巡礼者たちでいっぱいとなった。

ミサ終了後の正午、教皇は聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーから、ウルビ・エト・オルビ(ローマと世界に向けた祝福とメッセージ)をおくられた。

このメッセージで教皇は、愛のために十字架上で死に、愛のために復活したイエス・キリストを示し、神の無限のいつくしみを説いた。

教皇は、シリア、イラク、イエメン、リビア、聖地、ウクライナ、そしてアフリカ地域の紛争地帯や、ベルギー、トルコ、ナイジェリア、イラクをはじめテロにより傷いた国々、また紛争や危機、迫害によって難民となった人々に思いを寄せ、世界に平和と正義、人間の尊重が育まれることを復活の主に祈られた。

メッセージに続き、教皇フランシスコはローマと全世界に向けて、教皇祝福をおくられた。

教皇フランシスコの2016年度復活祭メッセージは以下のとおり。

***************

「恵み深い主に感謝せよ。いつくしみはとこしえに。」(詩編136.1)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、復活祭おめでとうございます!

神のいつくしみの受肉である、イエス・キリストは、愛のために十字架上で死に、愛のために復活しました。それゆえに今日わたしたちは宣言します。イエスは主なりと!

イエスの復活は詩編の預言を完全に実現するものです。神のいつくしみはとこしえに、神の愛は永遠に、決して死ぬことはありません。わたしたちはイエスに完全に信頼することができます。そしてイエスが黄泉にまで降られたことに感謝するのです。

人類の精神的・倫理的深淵、心の空虚と、それがもたらす憎しみと死を前に、ただ無限のいつくしみだけが、わたしたちに救いを差し伸べます。神だけがその愛をもってこの空虚を、この深淵を埋め、その中にわたしたちを落とすことなく、自由といのちの地に向かって一緒に歩んでくださるのです。

十字架につけられたイエスは、ここにはいず、復活された(マタイ28,5-6)という復活の喜びの知らせは、死の深淵はもはや乗り越えられ、それと共に悲しみも嘆きも労苦もなくなった(黙示録21,4)という慰めに満ちた確信をわたしたちに与えます。

弟子たちから見捨てられ、傷つき、不当な裁きと恥ずべき死の重荷を負った主は、今、不滅のいのちにわたしたちを与らせ、飢え渇いた者、寄留者、受刑者、疎外され見捨てられた者たち、非道と暴力の犠牲者らに、優しさと同情の眼差しを注いでくださいます。世界には心身共に苦しむ人々があふれています。一方で、新聞はしばしば家庭の中でさえも起こり、時には全市民をも言い尽くしがたい試練に陥れる、残忍な犯罪の記事で埋まっています。

復活のキリストが、長く続く紛争と、それに伴う破壊、死、人権の蹂躙、壊された共存といった悲しみに引き裂かれた国、愛するシリアに希望の道筋を示してくださいますように。復活の主の力に、進行中の対話を託し、皆の善意と協力によって平和の実を得て、兄弟愛に満ち、すべての市民の尊厳と権利が認められる社会を築けますように。

地中海と中東の他の地域、特にイラク、イエメン、リビアにおいて、墓の転がされた石の横で天使の口から発せられたいのちのメッセージが、かたくなな心を和らげ、民族・文化間の出会いを進めてくれますように。

キリストの御顔に輝く新しい人間の姿が、聖地におけるイスラエルとパレスチナの共存に、また正義に基づく恒久の平和の基礎を据えるための、直接的で誠実な対話を通した忍耐強い努力に、よい影響を与えますように。

いのちの主がウクライナ紛争に対する最終的な解決への努力を見守ってくださいますように。そして、捕囚の解放をはじめとする人道支援を励まし、支えてくださいますように。

わたしたちの平和である、主イエスよ(エフェソ2,14)、復活することで死と罪に打ち勝った方よ、この復活祭において、テロリズムの犠牲者たちにわたしたちが寄添えるよう促してください。テロリズムは、分別なく残忍な暴力をもって、世界の様々な場所、最近ではベルギー、トルコ、ナイジェリア、チャド、カメルーン、コートジボアールなどの国で、無実の人の血を流し続けています。アフリカ諸国、時に政治的・社会的緊張を抱えたブルンジ、モザンビーク、コンゴ民主共和国、南スーダンの平和のために希望と未来を育んでください。

愛の武器でもって、神はエゴイズムと死を打ち負かしました。神の御子イエスは皆に開け放たれたいつくしみの扉です。イエスの復活のメッセージが、困難な状況を生きるベネズエラの市民と、同国の運命を握る人々に届き、彼らが共通善のために働き、皆の対話と協力の場を見つけることができますように。市民の精神的・物質的幸福を保証するために不可欠な、出会いの文化と、正義、相互の尊重が、あらゆる場所で育くまれますように。

復活のキリストは、世紀にわたり響く全人類のためのいのちの知らせをもって、よい未来を求めて歩む人々を忘れず、増え続ける移民・難民に寄り添うように、わたしたちを招きます。戦争や、飢え、貧困、社会的不正から逃げてきたこれらの人々の中には、多くの子どもたちも含まれます。これらのわたしたちの兄弟姉妹は、しばしば旅の途中で亡くなったり、受け入れと支援を提供してくれるはずの人々から拒否されています。次回の世界人道サミットが、尊厳を備える人間を中心に据え、紛争やその他の危機の被害者、特に最も弱い人々、民族・宗教のために迫害される人々を支援・保護する政策を起草することができますように。

この栄光にあふれた日、地は大きな輝きにあふれて喜んでいます。それにも関わらず、地は、その自然のバランスを崩す強欲な搾取によってひどい扱いを受け、蔑まれています。特に気候変動の影響で、干ばつや、激しい洪水の被害を受け、それに伴う食糧危機に見舞われている世界の各地を思います。

信仰とキリストの名に対する忠実ゆえに迫害されているわたしたちの兄弟姉妹たち、そして、より力を振るうように見える悪を生活の中で目の前にしている多くの人たちと共に、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16,33)というイエスの慰めに満ちた言葉を聞きましょう。今日はこの勝利の光り輝く日です。なぜならキリストは死を踏みつけ、その復活をもっていのちと不滅を再び輝かせたからです(2テモテ1,10)「主はわたしたちを隷属から自由へ、悲しみから喜びへ、喪から祝祭へ、闇から光へ、奴隷の状態から贖いへと、通り抜けさせてくださった」(サルディスのメリト、復活祭の説教)。

社会においてあらゆる希望、生きる喜びを失った人々、孤独の中で生きる気力を失い打ちのめされたお年寄りたち、未来がないように感じている若者たち、これらすべての人々に、今再び、復活の主の言葉をおくりたいと思います。「見よ、わたしは万物を新しくする…渇いている者には、いのちの水の泉から値なしに飲ませよう」(黙示録21,5-6)。イエスのこの励ましのメッセージが一人ひとりを助け、神と兄弟たちとの和解の道を開くために、より勇気をもって再出発できるよう、わたしたちを助けてくれますように。

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聖金曜日:十字架の道行き、教皇、キリストの十字架に神の愛と人間の不正を見つめる

2016年3月26日バチカン放送日本語課の記事より。

聖金曜日:十字架の道行き、教皇、キリストの十字架に神の愛と人間の不正を見つめる

キリストの十字架上での死を記念する「聖金曜日」の夜、教皇フランシスコによって、ローマ市内のコロッセオで十字架の道行がとり行われた。

十字架の道行きとは、キリストの受難を黙想しながら行う信心業。イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架上で最後を遂げ、墓に葬られるまでの過程を14の場面(留、りゅう)に分け、それぞれの場面を心を込めて黙想し、祈りを唱える。

「聖金曜日」を迎えた3月25日の夜、ローマの中心部にある古代競技場コロッセオのまわりには、「十字架の道行」参加者が手にするろうそくの光が広がった。

聖職者や修道者、信徒の代表者が掲げる十字架は、コロッセオの内部から出発し、イエスの受難の各場面を黙想しながら、対面のパラティーノ遺跡方向へ進んだ。

今年、十字架を掲げる代表を務めたのは、ローマ教区の家族をはじめ、エクアドル、ボリビア、パラグアイ、ケニア、ウガンダ、中央アフリカ、メキシコなど、教皇がこの1年に訪問した国々の信者たち。このほか、中国や、ロシア、シリア、聖地の信者・修道者らも参加した。

毎年、この行事のために黙想用のテキストが用意されるが、今回はペルージャ=チッタ・デラ・ピエーヴェ教区のグアルティエロ・バッセッティ大司教がそれを記した。

教皇は十字架の道行の終了後、十字架上のイエスに長い祈りを捧げられた。

この中で教皇は、キリストの十字架を、「神の愛と人間の不正」「愛ゆえの究極の犠牲と愚かさゆえの究極のエゴイズム」「死の道具と復活の道」「従順と裏切り」と相対するものの象徴として示された。

教皇はキリストの十字架に、残忍な行為によって殺害された人々、戦争や暴力の恐怖から逃れる女性や子どもたちの顔、移民たちの墓場と化した海を重ねられた。

また同時に、人の苦しみに無関心な人々、自分の罪を受け入れずに人を非難する者、暴力の正当化のために神の名を用いるテロリスト、わたしたちの共通の家である環境を破壊する者たちなどの姿をも、十字架のもとに見出された。

一方で、教皇は無限の愛と復活の象徴としてのキリストの十字架に、誰の賞賛をも求めず正しいことを行なう人、謙遜な使徒職によって闇を照らす司祭たち、善きサマリア人として貧困や不正義を受けた人々の傷を癒す修道者たち、自分の罪深さを知る人々、忠実さをもって家庭生活をおくる人々らの姿を映し出された。

夜明けの光は夜の闇よりもずっと強いことをキリストの十字架が教えてくれるようにと教皇は祈り、悪の見かけだけの勝利は、復活と神の愛の確信の前に消え去るだろうと説かれた。

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2016.3.26.〜4.10.)

世界中で起こっている悲惨な出来事に目を留め、イエスがともに苦しんでおられることに気づきましょう。

「務め」や「義務」としてではなく、自ら関心をもち、キリスト者と呼ばれる自分を見つめてみましょう。ミサ典礼に参加することで、イエスの教えと呼びかけにより気づくことができると思います。それは《喜び》への呼びかけです。

小郡教会では夜19時30分から内山恵介神父[御受難会司祭]司式で、鳥栖教会では同じく19時30分から山元眞神父司式で「復活の聖なる徹夜祭」の典礼が行われます。鳥栖教会での〈復活の聖なる徹夜祭〉の典礼はインターネットで中継されます。 http://tosu.catholickyushu.com

鳥栖・小郡ミサ時間と場所2016.3.26.〜4.10.

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