月別アーカイブ: 2016年7月

WYDクラクフ大会:教皇、若者たちと昼食

2016年7月30日バチカン放送日本語課の記事より。

WYDクラクフ大会:教皇、若者たちと昼食

教皇フランシスコは、7月30日、世界青年の日(ワールドユースデー、WYD)」クラクフ大会の若者たち代表と昼食を共にされた。

WYD国際大会の際、教皇が青年たちと昼食のテーブルを囲まれるのは、恒例となっている。

クラクフの大司教館で行われたこの昼食会では、WYD大会のボランティアから選ばれた5大陸の12人が、教皇とポーランドの伝統料理を味わいながら、歓談した。

家庭的な雰囲気のもと、教皇は若者たち一人ひとりと言葉を交わされ、様々な質問に率直に答えられた。

ある青年が教皇に選出された時の気持ちを尋ねると、教皇は神からの恵みとしての平和を感じた、その気持ちは今でも続いていると答えられた。

赦しの秘跡について、教皇は15日~20日の間隔で、一人のフランシスコ会の神父ので告解していると話し、自分の罪を告解することを恥じてはいけないと述べられた。

そして、アルゼンチンで17歳の時にした告解が司祭への召命につながったと教皇は述べ、その時に感じた神のいつくしみについて語られた。

教皇は、ご自分にとって赦しの秘跡は、すべてを赦す神の、愛に満ちた眼差しに見入ることと話された。

また、現代の青年たちにとって最大の挑戦は、希望を決して失わないこと、世の中の状況や条件に押しつぶされないことと強調された。

昼食はおよそ1時間半にわたり、教皇は若者たちとの記念撮影に快く応じられた。

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「心を開き、外に出よう」教皇、ポーランドの教会関係者に

2016年7月30日バチカン放送日本語課の記事より。

「心を開き、外に出よう」教皇、ポーランドの教会関係者に

教皇フランシスコは、7月30日、ポーランドの教会関係者とミサを捧げられた。

ポーランド司牧訪問4日目午前、教皇は、クラクフの神のいつくしみ巡礼聖堂で若者たちに赦しの秘跡を授けられた後、続いて、近距離にある聖ヨハネ・パウロ2世巡礼聖堂に向かわれた。            

同聖堂は、2013年から2015年にかけて建設されたもので、聖ヨハネ・パウロ2世の記念館等を併設している。白い外壁には石膏を多く含む同地域の土が利用されているが、実際、この聖堂は第2次世界大戦中、若き日のヨハネ・パウロ2世が働いていたソーダ工場跡に建てられている。

聖堂内は、神学者・イコン画家のマルコ・イヴァン・ルプニック神父のモザイク画で覆われ、このミサのために祭壇には聖ヨハネ・パウロ2世の聖遺物が据えられた。

教皇は説教の中で、心を開き、自分自身から外に出るようにと、教会関係者らを励まされた。

聖ヨハネ・パウロ2世の、キリストのために「扉を開きなさい」という招きに従い、恐れや快適さのために扉を閉めていようとする誘惑に打ち勝たなければならないと説かれた。

自分の殻から外に出るということは「片道切符の旅」と教皇は述べ、自分を脱ぎ捨て、イエスのために命を捧げる覚悟が必要と話された。

そして、イエスは扉を半分だけ開けた生き方や二重の価値観を好まないと話しつつ、教皇は、自分の安穏な生き方を捨て、何も持たず、イエスだけに固く結ばれ歩むようにと司祭や修道者らに呼びかけられた。

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WYDクラクフ大会:教皇、若者たちの告解を聴く「イエスはありままのわたしたちを愛される」

2016年7月30日バチカン放送日本語課の記事より。

WYDクラクフ大会:教皇、若者たちの告解を聴く「イエスはありままのわたしたちを愛される」

ポーランド訪問中の教皇フランシスコは、7月30日、若者たちの告解を聴かれた。

カトリックの若者たちの祭典、「世界青年の日(ワールドユースデー、WYD)」クラクフ大会は、31日の閉会ミサまであと1日を残すところとなった。

閉会を前にしたこの日の午前、クラクフ南部のワギェヴニキにある神のいつくしみ巡礼聖堂で、WYD参加の若者たちの代表8人が教皇によって赦しの秘跡を受けた。

この朝、神のいつくしみ巡礼聖堂に到着された教皇は、最初に聖堂に隣接する「いつくしみの聖母修道女会」の修道院を訪れた。

同修道女会は、1862年、恵まれない女性の教育と支援を使命として、ワルシャワに創立された。

神のいつくしみの使徒として知られる聖ファウスティナ・コヴァルスカ(1905-1938)は、20歳で同会に入会し、この修道院で33歳で帰天した。

聖ファウスティナ修道女が神の啓示を受けた場所である修道院の礼拝堂に入られた教皇は、同修道女の聖遺物の前で祈りを捧げられた。

この後、教皇は神のいつくしみ巡礼聖堂に、「聖年の扉」をくぐって入堂された。

そして、告解場で教皇は青年たちのために赦しの秘跡をとり行われた。

教皇は巡礼聖堂に集った若者たちに「イエスから決して離れてはいけません。たとえ罪や短所のために、自分はイエスにふさわしくないと感じたとしてもです。イエスはありのままのわたしたちを愛され、そのいつくしみを広げられるのです」と話された。

この後、教皇は神のいつくしみ巡礼聖堂から、公園を隔てた近距離にある聖ヨハネ・パウロ2世巡礼聖堂に向かわれた。

ここで教皇はポーランドの司教・司祭・修道者・神学生らとミサを捧げられた。

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[小郡]年間第18主日説教(2016.7.31.)音声

小郡教会での8時30分からの年間第18主日のミサ説教[10分][小郡]2016.7.31.年間18←ここから聞けます。

《集会祈願》喜びの源である神よ、わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、さわやかな憩(いこ)いを与えてくださるのはあなたです。真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子(おんこ)、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

《第一朗読》コヘレトの言葉1・2、2・21-23 新共同訳

 コヘレトは言う。なんという空(むな)しさ。なんという空しさ、すべては空しい。/知恵と知識と才能を尽(つ)くして労苦(ろうく)した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産(いさん)として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下(もと)で心の苦しみに耐(た)え、労苦してみても何になろう。一生、人の務(つと)めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

《答唱詩編》詩編95・1+2、5+6、7+8

答唱句:神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。

 神に向かって喜びうたい、救いの岩に声をあげよう。感謝に満ちてみ前に進み、楽(がく)の音(ね)に合わせ神をたたえよう。/海は神のもの、神に造られたもの。陸も神のもの、神に形造られたもの。身を低くして伏し拝もう、わたしたちを造られた神の前に。/神は、わたしたちの神。わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。

《第二朗読》使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-5、9-11 本田哲郎訳「パウロの書簡」  新世社

 [みなさん、]あなたたちは、キリストとともに立ち上がらせていただいたのですから、もの事の奥にあるものを求めてください。そこには神の右に座すキリストがおられるのです。地上のことではなく、その奥にあるものを感じ取るようにしてください。

人はみな、「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を身にまとえ

 じつに、あなたたちは死んだのであり、あなたたちのいのちは、神と一体であるキリストといっしょに見えなくされています。キリストがご自身を現わされるときあなたたちのいのちが現われ、あなたたちもキリストといっしょに輝き出るのです。ですから、あなたたちは地上にからみつく部分、すなわち売春、不純な行為、感情に走ること、不当な欲望、それに貪欲(どんよく)なふるまいを死なせてください。こういうことは偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)なのです。/互いに相手を偽(いつわ)ることはしないでください。「古い人」をその行ないとともに脱ぎ捨て、たえず新たにされる「新しい人」を身にまとって、造り主(神)を写し出す方(キリスト)が示したとおりに、神を体験するようになってください。そうなれば、ギリシア人もユダヤ人も、割礼(かつれい)者も無割礼者も、朴訥(ぼくとつ)な民も奥地の住民も、奉仕人も自由市民も、問題ではなくなります。全体がキリストであり、キリストがすべての人と一体なのです。

《福音朗読》ルカ12・13-21 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

おろかな金持ちをうらやむな

 [そのとき、]民衆の中から一人の人が言った。「導師(どうし)、財産をわたしにも分けるよう、わたしの兄に言ってください」。イエスはその人に、「だれがわたしを裁判官や調停人に立てたのか」と言い、みんなに向かって、「貪欲(どんよく)にはすべて気をつけ、そこから遠ざかるようにしなさい。自分が所有するもので、人のいのちがいくらかでものびる、というものではないからだ」と言った。そして、イエスはつぎのたとえを語った。「ある金持ちの畑が豊作(ほうさく)だった。この人は、『どうしようか。収穫(しゅうかく)を納(おさ)めておく場所がない』とあれこれ考えたが、やがて言った。『こうしよう。今の倉をつぶして大きいのを建て、そこに穀物(こくもつ)ぜんぶと値打ち物を納めておくのだ。そして、自分にこう言ってやろう、さあ、おまえは何年もさきまでの値打ち物の貯(たくわ)えができた、休んで、食べて、飲んで、楽しめ、と』。しかし、このとき神はその人に言われた。『おろか者、今夜おまえのいのちは取り去られるのだ。おまえが用意したものは、なんの意味があるのか』と。自分のために富を貯え、神のために富を生かすことをしない者は、このとおりだ」。

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2016.7.30.〜8.14.)

*7月から9月まで、主日のミサ(日曜日)時間は小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜です。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。お待ちしています。8月6日(土)は「主の変容」の祭日です。この日から15日まで「日本カトリック平和旬間」です。朝7時から基山の聖堂でミサを行います。ミサ後ゆるしの秘跡をします。

鳥栖・小郡ミサ時間と場所2016

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[小郡]年間第18主日前晩説教(2016.7.30.)音声

小郡教会での19時30分からの年間第18主日前晩のミサ説教[10分][小郡]2016.7.30.年間18前晩←ここから聞けます。

《集会祈願》喜びの源である神よ、わたしたちが日々の労苦に疲れ果てるときも、さわやかな憩(いこ)いを与えてくださるのはあなたです。真実の生き方を求めてここに集うわたしたちが、キリストのうちに生きる喜びを見いだすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子(おんこ)、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

《第一朗読》コヘレトの言葉1・2、2・21-23 新共同訳

 コヘレトは言う。なんという空(むな)しさ。なんという空しさ、すべては空しい。/知恵と知識と才能を尽(つ)くして労苦(ろうく)した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産(いさん)として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下(もと)で心の苦しみに耐(た)え、労苦してみても何になろう。一生、人の務(つと)めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

《答唱詩編》詩編95・1+2、5+6、7+8

答唱句:神に向かって喜び歌い、感謝の歌をささげよう。

 神に向かって喜びうたい、救いの岩に声をあげよう。感謝に満ちてみ前に進み、楽(がく)の音(ね)に合わせ神をたたえよう。/海は神のもの、神に造られたもの。陸も神のもの、神に形造られたもの。身を低くして伏し拝もう、わたしたちを造られた神の前に。/神は、わたしたちの神。わたしたちは神の民、そのまきばのひつじ。きょう、神の声を聞くなら、神に心を閉じてはならない。

《第二朗読》使徒パウロのコロサイの教会への手紙3・1-5、9-11 本田哲郎訳「パウロの書簡」  新世社

 [みなさん、]あなたたちは、キリストとともに立ち上がらせていただいたのですから、もの事の奥にあるものを求めてください。そこには神の右に座すキリストがおられるのです。地上のことではなく、その奥にあるものを感じ取るようにしてください。

人はみな、「古い人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を身にまとえ

 じつに、あなたたちは死んだのであり、あなたたちのいのちは、神と一体であるキリストといっしょに見えなくされています。キリストがご自身を現わされるときあなたたちのいのちが現われ、あなたたちもキリストといっしょに輝き出るのです。ですから、あなたたちは地上にからみつく部分、すなわち売春、不純な行為、感情に走ること、不当な欲望、それに貪欲(どんよく)なふるまいを死なせてください。こういうことは偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)なのです。/互いに相手を偽(いつわ)ることはしないでください。「古い人」をその行ないとともに脱ぎ捨て、たえず新たにされる「新しい人」を身にまとって、造り主(神)を写し出す方(キリスト)が示したとおりに、神を体験するようになってください。そうなれば、ギリシア人もユダヤ人も、割礼(かつれい)者も無割礼者も、朴訥(ぼくとつ)な民も奥地の住民も、奉仕人も自由市民も、問題ではなくなります。全体がキリストであり、キリストがすべての人と一体なのです。

《福音朗読》ルカ12・13-21 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

おろかな金持ちをうらやむな

 [そのとき、]民衆の中から一人の人が言った。「導師(どうし)、財産をわたしにも分けるよう、わたしの兄に言ってください」。イエスはその人に、「だれがわたしを裁判官や調停人に立てたのか」と言い、みんなに向かって、「貪欲(どんよく)にはすべて気をつけ、そこから遠ざかるようにしなさい。自分が所有するもので、人のいのちがいくらかでものびる、というものではないからだ」と言った。そして、イエスはつぎのたとえを語った。「ある金持ちの畑が豊作(ほうさく)だった。この人は、『どうしようか。収穫(しゅうかく)を納(おさ)めておく場所がない』とあれこれ考えたが、やがて言った。『こうしよう。今の倉をつぶして大きいのを建て、そこに穀物(こくもつ)ぜんぶと値打ち物を納めておくのだ。そして、自分にこう言ってやろう、さあ、おまえは何年もさきまでの値打ち物の貯(たくわ)えができた、休んで、食べて、飲んで、楽しめ、と』。しかし、このとき神はその人に言われた。『おろか者、今夜おまえのいのちは取り去られるのだ。おまえが用意したものは、なんの意味があるのか』と。自分のために富を貯え、神のために富を生かすことをしない者は、このとおりだ」。

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ワールドユースデー・クラクフ大会:教皇、若者たちと十字架の道行き

2016年7月29日バチカン放送日本語課の記事より。

ワールドユースデー・クラクフ大会:教皇、若者たちと十字架の道行き

「世界青年の日(ワールドユースデー、WYD)・クラクフ大会」のためポーランドを訪れている教皇フランシスコは、7月29日夕、若者たちと十字架の道行きをとり行われた。

十字架の道行きとは、十字架の道行は、キリストの受難を黙想しながら行なう信心業。イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架上で息を引き取り、墓に葬られるまでの過程を、14の場面に分け、各所ごとを黙想し祈る。

WYDクラクフ大会の十字架の道行きはブオニエの野外イベント場で行われた。

「十字架の道行き-いつくしみの道行き」のテーマの下、イエスの受難の各場面と共に、参加者らはイエスのいつくしみの愛を黙想し、「旅人に宿を貸す」「飢えた人々に食べ物を与える」「罪人に忠告する」「苦しむ人を慰める」などの、14のいつくしみの業に思いを巡らせた。

また、十字架の道行きの各留では、世界各地でいつくしみの業を行う様々な教会系団体や修道会がビデオで紹介され、その関係者らが十字架を担いだ。

さらに、舞台では現代舞踏のパフォーマンスを通して、イエスの道行きが豊かに表現された。

十字架の道行きの後の説教で、教皇は「神はどこにいるのか。世界に悪があるのなら、神はどこにいるのか。人々は飢え、渇き、家もなく、難民となって追われ、多くの無実の人が暴力やテロや戦争の犠牲となり、病気が人生や愛情の絆をゆるがし、子どもたちが搾取されている世界で、神はどこにいると言えるのか」と問われた。

教皇はそれに対するイエスの答えとして、「神は彼らの中にいるのです」と説かれた。

「イエスは彼らの中におられ、彼らと共に苦しみ、彼ら一人ひとりのアイデンティティーを深く帯びておられます。イエスはこうして彼らと一致され、ほとんど彼らと一体化されているのです」。

「わたしたちは、疎外されたすべての人の中にいる十字架のイエスに奉仕するように呼ばれています。孤独な人、飢えた人、渇く人、服のない人、受刑者、病者、失業者、迫害された人や、難民・移民を通して、ご自分の祝福された体に触れるようにと招いておられるのです」。

「そこに神がおられます、そこで神に触れることができるのです」と強調された教皇は、人生を中途半端に生きることなく、イエスに倣い、貧しく弱い兄弟たちへの無償の奉仕に人生を費やす若者たちが必要とされていると呼びかけられた。

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「イエスのように病者に寄添う」教皇、クラクフの小児科病院関係者に

2016年7月29日バチカン放送日本語課の記事より。

「イエスのように病者に寄添う」教皇、クラクフの小児科病院関係者に

ポーランド滞在中の教皇フランシスコは、7月29日午後、クラクフの小児科病院を訪れた。

クラクフ郊外プロコチム地区にあるこの大学系病院は、小児総合医療施設としてポーランド南部では最大の規模を持つ。

教皇は病院のホールで、子どもの患者とその両親、医療関係者らに迎えられた。

挨拶の中で教皇は、福音書の中には、主イエスが病者と出会ったり、病者の願いを受け入れたり、病者のために快く赴く場面が何度も出てくることを指摘。

イエスは常に病者たちの存在に気付き、病気の子どもを見守る母親のように彼らを見つめ、憐れみに心を動かされたと教皇は話された。

キリスト者として、イエスのように沈黙のうちに病者に触れ、祈りをもって寄添えるならば、どれほどよいだろうかと教皇は感嘆しつつ、残念ながら今日の「切捨ての文化」の中で犠牲となるのは、まさに最も弱く傷つきやすい人たちであると述べられた。

こうした風潮に対し、この病院において最も小さく助けを必要とする人たちが受け入れられていることを、教皇は愛のしるし、真の人間的・キリスト教的な文明のしるしとして喜ばれた。

支えが必要な人々に愛と優しさをもって奉仕することは、人類を成長させ、わたしたちに永遠の命への道を開かせると述べた教皇は、常にいつくしみをもって良い業を行うよう、関係者を励まされた。

この後、教皇は関係者らの案内を受けながら、病棟の子どもたちを見舞い、その家族らを励まされた。

最後に、教皇は病院の礼拝堂で祈りを捧げられた。

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教皇、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪問

2016年7月29日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪問

教皇フランシスコは、7月29日、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪問された。

ポーランド訪問3日目の朝、教皇は同国南部、オフィシエンチムに向かわれた。

オフィシエンチム郊外には、ドイツ占領下の1940年に建設されたアウシュヴィッツ第一強制収容所がある。

現地に到着された教皇は、「働けば自由になる」という言葉が掲げられたアウシュヴィッツ収容所の正門を歩いてくぐられた。

被収容者たちの点呼が行なわれ、集団絞首刑が執行されていた「点呼広場」で、教皇は長い沈黙の祈りを捧げられた。

次いで、第11ブロックを訪れた教皇は、ここで10人の生還者とお会いになった。教皇は一人ひとりの手を固く握り、生存者たちの言葉にじっと耳を傾けられた。

多くの無実の人々が銃殺された「死の壁」の前にランプの火を捧げられた教皇は、壁を見つめ、それに手を触れ、祈られた。

続いて、教皇は聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父(1894-1941)が他の被収容者と共に餓死刑のために入れられ、亡くなった地下牢を訪れた。

収容所で脱走者が出たことへ見せしめとして、10人が餓死刑に定められた時、コルベ神父は、一人の家庭を持つ男性の身代わりとなることを自ら申し出て、他の9人と一緒に地下の餓死室におくられた。地下牢でコルベ神父は仲間を励まし続け、2週間後、まだ生存していた他の3人と共に注射を打たれ、殺害された。

暗く狭い地下房に入られた教皇は、その中に一人で長い間留まり、頭を下げ祈り続けられた。

教皇は、アウシュヴィッツ収容所の訪問帳に、「主よ、あなたの民を憐れんでください。主よ、多くの残忍さをお赦しください。フランシスコ 2016年7月29日」とスペイン語で記された。

この後、教皇は、アウシュヴィッツ収容所から3km先に第2収容所として建てられたビルケナウ収容所へ、かつて何万という人々を輸送するために使われた線路に沿って、カートで向かわれた。

ビルケナウの犠牲者国際慰霊碑では、「暗い淵から、主よ、あなたを呼びます」という言葉でで始まる詩編130が、ユダヤ教のラビと、ポーランドの司祭によって、唱えられた。

碑文を見つめながら歩まれた教皇は、慰霊碑の前にランプの火を灯し、沈黙の祈りを捧げられた。

教皇はここで、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の中、自らの命をかけてユダヤ人を守った人々、「諸国民の中の正義の人」たち、25人とお会いになった。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を後にされた教皇は、「世界青年の日(ワールドユースデー)」の大会が開催されているクラクフへと戻られた。

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「神は愛」[2016.7.29.オミリア]

《年間第17金曜日のオミリア》聖クララ会の聖堂で行われたミサのオミリア[12分][クララ]2016.7.29←をクリックして聴くことができます。7月29日は聖マルタの記念日。「マルタはマリアとラザロの姉妹であった。ベタニアではイエスをあたたかくもてなし、また、イエスは彼女の祈りにこたえて、死んだラザロを復活させた。」(『毎日の読書』より)

《第一朗読》1ヨハネ4・7-16 新共同訳

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独(ひと)り子を世にお遣(つか)わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子(みこ)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全(まっと)うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父(おんちち)が御子(みこ)を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公(おおやけ)に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

《答唱詩編》詩編34・2+3、4+5 新共同訳

答唱句:主を仰ぎ見て、光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く。 主をたたえよう、明け暮れ賛美をくちにして。主はわたしたちの口のほこり、苦しむ時の心のよろこび。/心を合わせて主をあがめ、ともにその名をたたえよう。主はわたしたちの祈りに心を留め、すべての恐れを遠ざけてくださる。

《福音朗読》ヨハネ11・19-27 本田哲郎訳「小さくされた人々のための福音—四福音書および使徒言行録—」  新世社

低みに立つイエスを信頼してことに当たるなら、死んでいても、生きる

 [そのとき、]多くのユダヤの人たちがマリアとマルタのところに来ていて、弟のことで二人を慰(なぐさ)めていた。マルタはイエスが来ると聞いて、迎えに行った。マリアは家の中に、ずっと座ったままでいた。マルタはイエスに向かって、「主よ、もしここにいてくださったなら、弟は死ななかったでしょう。けれども、あなたが願うことはなんでも、神はかなえてくださると、わたしは今も信じています」と言った。イエスはマルタに、「おまえの弟は復活する」と言った。マルタは、「週末の日の復活のときに、弟が復活するということは分かってます」と言った。イエスは言った。「わたしが復活であり、いのちである。わたしに信頼(しんらい)してあゆみを起こす人は、たとえ死んでいても、生きるのだ。生きていて、わたしに信頼してあゆむ人は、永遠に死ぬことはない。おまえはこのことに信頼してあゆみを起こすか」。マルタは、「はい、主よ。わたしは、あなたが、世に来られるはずの神の子キリストであると、信頼してあゆんできました」と言った。

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