月別アーカイブ: 2016年10月

日曜正午の祈り : 教皇 「キリストの福音を謙遜といつくしみをもって告げる」

2016年10月24日バチカン放送日本語課の記事より。

日曜正午の祈り : 教皇 「キリストの福音を謙遜といつくしみをもって告げる」

皇フランシスコは10月23日,日正午のアンジェラスの祈りに際して、聖ペトロ広場を埋め尽くした信徒や巡礼者たちに、キリストこそ唯一の救い主であることを世界に告げるのは、今日緊急課題であることを強調されたが、決して攻撃的な態度をとってはいけないと警告された。

「兄弟姉妹の皆さん、キリストが唯一の救い主であることを再び告げるのは,今日の世界においてキリスト者一人一人に課せられた緊急課題です。

偉大なる使徒聖パウロの例を見てみましょう。聖パウロの宣教事業の成功はひとえにパウロがキリスト近づきその恵みに全面の信頼を寄せたことによります。それによって主ご自身が彼をすべての人々に福音を宣教する使徒とされたのです。

聖パウロの体験に思いをはせますと、キリストの福音を告げ知らせるために、彼がどれほどの苦労をしのんだか、またどれほどの努力を傾けかがよくわかります。まるで宣教の効果はわたしたちの働きと努力によるかのような印象すら受け取れるくらいです。勝利に向かって邁進する競技者たちの努力を聖パウロは惜しみませんでした。しかし、聖パウロ自身も言っている通りわたしたちの宣教の真の結果は、神の恵みのおかげです。神の霊,聖霊こそが世界における教会の宣教活動を効果的にするのです。

今日、宣教に従事するためには大きな勇気が必要です。今は勇気の時です。

ふらつく足取りを強める勇気、キリストの福音のために自分自身を奉献する勇気、宣教に対する信頼を再び取り戻す勇気、まさしくこれらの勇気が必要な時です。.

勇気の時であって、たとえ勇気をもって宣教したとて成功が保証されているわけではありません。 わたしたちには戦うための勇気が必要なのであって、必ずしも勝つための勇気ではありません。.私たちに必要なのは別に攻撃的にならずとも世の精神に染まらない勇気です。 わたしたちに必要なのは、すべての人々の唯一の救い主であるキリストとの一致を少しも損なうことなしにすべての人々に自分自身を開いていく勇気です。

また私たちに必要な勇気とは傲慢にならずに不信仰に抵抗していく勇気であり、福音のたとえに出てくる顔を上げることも出来ずに、神よ罪びとであるわたしを憐れんでくださいと、痛悔に胸を打つ謙遜なあの徴税人の勇気です。まさしく今日は勇気の必要な時です」。

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教皇「移民問題に対し、利己主義ではなく連帯を」一般謁見

2016年10月26日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「移民問題に対し、利己主義ではなく連帯を」一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月26日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は神のいつくしみをテーマに、「お前たちは、わたしが旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せてくれた」(マタイ25,35-36)というイエスの言葉を考察された。

経済危機や、武力紛争、気候変動などによって多くの人が移民としての選択を迫られる今日、外国人に対する事業はことのほか重要になっていると教皇は強調。

移民は新しい現象ではなく、人類の歴史の流れに属するものであり、この現象を現代のものとしてのみ考えることは歴史的記憶の欠如であると話された。

教皇は聖書の中に移民についての多くの記述を指摘。アブラハムが神から「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12,1)と言われ旅立ったことにはじめ、イスラエルの民が隷属下にあったエジプトから脱出し、約束の地を目指し砂漠を旅したこと、またマリアとヨセフ、幼子イエスの聖家族がヘロデの迫害を逃れてエジプトに避難したことなどを挙げられた。

人類の歴史は移民の歴史でもあると教皇は述べつつ、その歴史の中で社会的緊張と同時に、大きな連帯も見られたと話された。

経済危機を背景に、移民に対する閉鎖的な態度、歓迎的でない状況が見られる今日の風潮を教皇は懸念。難民・移民に対する多くの人々の静かで寛大な支援が、本能的な利己主義の声にかき消されることを心配された。

しかし、移民に対する拒絶的態度は、人身売買の犯罪を助長するのみと警告しつつ、教皇は連帯こそを唯一の解決の道として示された。

そして、米国に移住した人々を助けた聖フランチェスカ・カブリーニを模範としてを思いこされた教皇は、今日の信者たちにも、移民たちに対しいつくしみを証しするよう励まされた。

教皇はまた、数日前にローマで起きた一つのエピソードとして、聖年の聖なる門をくぐるために裸足で聖ペトロ大聖堂に向かっていた移民の男性の話を紹介。この男性は、一人のアルメニア人女性に助けられ、共にタクシーで大聖堂に向かうことができたが、その汚れた服装のために最初は乗車を拒否しようとしたタクシーの運転手も、この男性の話を聞くうちに自分の態度を改めたといういきさつを語られた。

また、イエスが言う「裸であるときに服を着せる」ということは、失われた尊厳を取り戻させるということと教皇は説明。

人身売買の犠牲となった女性や子どもたちもまた、尊厳を奪われているという意味で一種の「裸」の状態であることを忘れてはならないと述べられた。

自分自身の中に閉じこもり、他人に無関心になるという罠に陥らないようにと注意を促された教皇は、わたしたちが他人に自分を開いただけ、人生は豊かになり、社会は平和を、人は尊厳を取り戻すことができると説かれた。

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[鳥栖]2016.10.23.年間30主日説教(音声)

鳥栖教会11時からの年間第30主日ミサの説教[8分][鳥栖]2016.10.23.年間30主日.←ここから聞けます。

鳥栖教会では11月6日(日)8時30分のミサの中で堅信式があります。今、その準備が進んでいます。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]2016.10.23.年間30主日説教(音声)

小郡教会8時30分からの年間第30主日ミサの説教[10分][小郡]2016.10.23.年間30主日.←ここから聞けます。

小郡教会では12月11日(日)11時のミサの中で堅信式があります。今、その準備が進んでいます。堅信を受ける方は主日前晩(土曜日)のミサに参加しています。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]2016.10.22.年間30主日前晩説教(音声)

小郡教会19時30分からの年間第30主日前晩ミサの説教[10分][小郡]2016.10.22.年間30.←ここから聞けます。

小郡教会では12月11日(日)11時のミサの中で堅信式があります。今、その準備が進んでいます。堅信を受ける方は主日前晩(土曜日)のミサに参加しています。説教は受堅者(堅信を受ける人)に向けて行われます。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、「召命司牧とは、主との出会い」

2016年10月21日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、「召命司牧とは、主との出会い」

教皇フランシスコは、10月21日、召命司牧をテーマにした国際会議の参加者に挨拶をおくられた。

教皇庁聖職者省の主催による、召命をめぐる司牧を考えるこの会議は、聖ベーダの説教の一句であり、また教皇ご自身の紋章銘である「憐れみ、選ばれた」という言葉をテーマにしたもの。

会議参加者らへの言葉で教皇は、「召命司牧」とは、教会の委員会やプロジェクトの名前ではなく、「主との出会い」を意味する言葉であると話された。

教皇はご自分のモットー「憐れみ、選ばれた」は、自らの若き日の召命体験を思い起こすものと紹介しながら、その召命は会議や論理によって得たのではなく、自分に注がれるイエスのいつくしみ深い眼差しを体験することで得られたと説明。

召命司牧とは、イエスに倣い、生活の中で立ち止まり、兄弟たちをいつくしみの眼差しで見つめることを学ぶ中で、人々を神なる御父との出会いに導くことと説かれた。

そして、教皇は召命司牧を形作る重要な要素として、「外に出る」「見つめる」「呼びかける」の3つを挙げられた。

「外に出る」について教皇は、召命司牧のためには、人間的な計算を捨て、間違いを恐れず、神のいつくしみの広大な御心に合わせて、自分自身の限界を広げて行く、常に行動する教会が必要と述べられた。

そして、「見つめる」とは、立ち止まり、急ぐことなく出会った人を見つめる、イエスの深いいつくしみに満ちた眼差しを言うのであり、今日の性急なリズムの中では、主の声を聞く内的沈黙は得られないと、多忙の中にある司牧者たちにも注意を促された。

また、教皇は「呼びかける」という動詞に特にキリスト教的な性格を見出しつつ、「わたしに従いなさい」とイエスがマタイに言ったように、イエスの呼びかけは人々を安穏な生活から立ち上がらせ、新しい世界に向かって歩ませる力を持っていると指摘。

司牧者たちもまた、若者の信仰を本や規則の中に閉じ込めるのではなく、彼らに問いを投げかけながら、若者たちを福音の喜びを探す歩みへと連れ出さなくてはならないと強調された。

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自分が悔い改めること[2016.10.12.オミリア]

《年間第29土曜日:聖クララ会修道院教聖堂行われたミサのオミリア[7分][クララ会]2016.10.22.←をクリックして聴くことができます。

***平日ミサのオミリアは今後も紹介していきますが、ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇フランシスコの一般謁見演説(2016.9.28.)公式訳

9月28日の謁見のメッセージの公式訳です。特別聖年に関する連続講話。第31回。「十字架上のしるし」(ルカ23・39-43参照)。カトリック中央協議会ホームページから。*カトリック中央協議会広報部から(文字を拡大し、読みがなを付けることを含めて)転載の許可を得ています。

*ここをクリックしてpdf.ファイルで読む(印刷する)ことができます。

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「飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませる」教皇一般謁見

2016年10月19日バチカン放送日本語課の記事より。

「飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませる」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月19日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「神のいつくしみ」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませる」をテーマに講話された。

豊かで快適な生活は、人々を自分の中に閉じこもらせ、他人の困窮に無関心にさせてしまうが、これに対し、わたしたちは現実を直視し、受け入れ、急を要する状況と対峙する必要があると教皇は話された。

そして、いつくしみの業の中でも、特に、食糧や水の不足に苦しむ人々に手を差し伸べることの大切さを説かれた。

飢えに苦しむ人々のニュースを前に、寛大な寄付を行なうことは、多くの人の苦しみを和らげることに役立つ。ただ、こうした形の慈愛の業は重要であるが、直接わたしたちが人々と関わることはないと教皇は指摘。

一方、わたしたちが道で助けを必要とする人とすれ違うならば、状況は大きく変り、自分はその人と関わる第一人者となり、もはやその人と自分との間には距離がなくなる。抽象的な貧困は、わたしたちを考えさせるだけだが、実際に貧しい人と出会う時、その貧困はわたしたちに直接問いかけるものとなると話された。

こうした時、わたしたちの反応はどうだろうか、目をそらして行ってしまうのか、あるいは立ち止まり話しかけ、その人の置かれた状況に関心を持つだろうか、と教皇は問われた。

その人は食べるものに困っているのかもしれない。わたしたちはいったい何度「主の祈り」の中で、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ってきたことだろうかと話された。

教皇は、神は「詩編」の中で「すべて肉なる者に糧を与える方」(136,25)と表現されていると解説。

飢えは過酷であり、戦争や飢饉を体験した人はそれを知っているが、今日の時代にも、豊かさや無駄遣いと隣合わせで、その飢えの体験が現実に繰り返されていることを忘れてはならないとアピールされた。

「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか…行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という「ヤコブの手紙」(2,14-17)の言葉を引用しつつ、教皇は、わたしたちの助け、言葉、働きかけを必要としている貧しい人々の存在に気付き、これらの人々を助けることに、わたしたち皆が関与し、呼ばれていることを知るようにと強調。

また、前教皇ベネディクト16世の回勅「真理に根差した愛」における、「飢えた人に食べる物を差し出すことは、普遍の教会にとって、一つの絶対的な倫理です」という教えを紹介された。

「わたしが命のパンである」(ヨハネ6,35)、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7,37)と言われるイエスは、飢える人に食べさせ、渇く人に飲ませることを通して、わたしたちがいつくしみの神との絆を体験するよう招いていると、教皇は話された。

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[小郡]年間第29主日前晩説教(2016.10.15.)動画

小郡教会での19時30分からの年間第29主日のミサの様子と説教。  エクレシア九州TVの動画Blog「こころのヒント!」で視聴することができます。

小郡教会では12月11日(日)11時のミサの中で堅信式があります。今、その準備が進んでいます。堅信を受ける方は主日前晩(土曜日)のミサに参加しています。主日のミサではミサが始まる前に「聖霊を求める祈り」を唱えています。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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