★主日のミサ時間は4月〜来年3月まで小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜です。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。*鳥栖カトリック幼稚園園舎新築工事のため駐車場が使用できないので。
★平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。
★第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。
2017年6月29日バチカン放送日本語課の記事より。
6月29日、カトリック教会の典礼暦は、使徒聖ペトロ・聖パウロの大祝日を記念した。
教会の柱であると共に、ローマの保護者である両聖人を祝い、教皇フランシスコは、バチカンでミサを捧げられた。
このミサは聖ペトロ広場を会場に、前日の枢機卿会議で任命された新枢機卿や、この祭日のためにローマに集った新任の首都大司教ら、多くの聖職者と教皇との共同司式でとり行われた。
ミサの前半、教皇による「パリウム」の祝別が行われた。
パリウムは、毎年1月21日の聖アグネスの日に、教皇によって祝別された子羊の毛から作られる、細長い帯状の肩掛け。白い毛織物の表面に、黒い絹糸で6箇所に十字架が刺繍されている。輪状の部分に首を通し、カズラ(祭服の一種)の上にかけるこの肩衣は、羊を肩に乗せた「善き羊飼い」の姿を象徴している。
毎年の伝統として、聖ペトロ・聖パウロの日に、教皇から、最近任命された首都大司教らにパリウムが与えられる。
今年は世界の36人の首都大司教が教皇からパリウムを受け取った。首都大司教らは各自の教区にパリウムを持ち帰り、信者たちが見守る前で、各国駐在の教皇大使の手から改めてこれを受けることになる。
説教で教皇は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16,15)というイエスが弟子たちに向けた問いを、今日、わたしたち司牧者は自分自身に問わなければならないと述べられた。
イエスはわたしたちの目を見ながら、「あなたにとってわたしは誰か」「わたしはまだ、あなたの命の主、心の向かう先、希望の理由、不動の信頼であるのか」と問いかけていると、教皇は話された。
教皇は司牧者たちに、「居間の中のキリスト者」ではなく、「歩む使徒」となり、生ぬるい信仰に留まらず、愛のために自分を焼き尽くし、毎日をただ漂流するのでなく、沖に向かって漕ぎ出していかなければならないと励まされた。
そして、「イエスを信じる者は、ペトロとパウロのように、最後の最後までイエスの道に従わなくてはならない。その道は十字架と迫害を通ることはあっても、新しい命と、喜びと、復活の道である」と強調された。
「十字架のないキリストは存在しないのと同様、十字架のないキリスト者も存在しない」と述べた教皇は、悪に耐えるとは、忍耐や諦めによってやり過ごすことではなく、イエスに倣い、重荷を背負い、それをイエスのため、人々のために引き受けることと話された。
また、教皇は祈りの重要性を説き、「祈りは希望を育て、信頼を養う水であり、わたしたちが愛されていることを感じさせ、愛することを可能にする。祈りは闇の中に、神の光を灯す」と語られた。
教皇は、この日パリウムを受け取った首都大司教たちに、善き羊飼いに倣い、託された群れのために生きて欲しいと願われた。
《年間第12金曜日》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。
[クララ]ここをクリックして聴くことができます。
「…イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。…』…」(マタイ8章)
*本田哲郎訳「…イエスは手をのばしてその人を抱きしめ、『わたしは、のぞむ。清くなるように』と言うと、たちまち、らい病は清められた。イエスはその人に言った。『だれにも言わないように気をつけなさい。…』…」(「小さくされた人々のための福音」マタイ8章)
***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***
《祭日;使徒聖ペトロ。聖パウロ》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。
[クララ]ここをクリックして聴くことができます。
「…あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…」(マタイ16章)
***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***
2017年6月28日バチカン放送日本語課の記事より。
教皇フランシスコは、6月28日、バチカンで枢機卿会議を開催。この中で5人の新枢機卿の任命式を行われた。
同日午前中の一般謁見に続き、午後から教皇は、聖ペトロ大聖堂で公開枢機卿会議をとり行われた。
祈りと福音朗読に続いて行われた枢機卿任命の儀式では、教皇から名を呼ばれた新枢機卿たちは、神の民の前で信仰宣言を唱え、次いで教皇の前で従順を誓った。
教皇は、5人の新枢機卿一人ひとりに、枢機卿の象徴である赤いベレッタ(帽子)と指輪を贈り、抱擁を交わされた。
この日、教皇フランシスコによって任命された新枢機卿は以下の通り。
・ジャン・ゼルボ、バマコ大司教(マリ)
・フアン・ホセ・オメリャ、バルセロナ大司教(スペイン)
・アンデルス・アルボレリウス、ストックホルム司教(カルメル会士、スウェーデン)
・ルイ・マリ・リン・マングカネクコン、パクセ使徒座代理区・代牧司教(ラオス)
・グレゴリオ・ロサ・チャベス、サンサルバドル大司教区・補佐司教(エルサルバドル)
これら5人の新枢機卿は、翌日29日の使徒聖ペトロ・聖パウロの大祝日のミサを、教皇と共に捧げる。
2017年6月28日バチカン放送日本語課の記事より。
教皇フランシスコは、バチカンで6月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
今年の6月、連日の晴天で、記録的な暑さに覆われたローマも、この日は曇りがちで一時的に雨が降るなど、不安定な空模様となった。
謁見で「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシスを続ける教皇は、この日は「殉教者の力としての希望」をテーマに講話された。
「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」という、マタイ福音書(10,22)のイエスの言葉にあるように、イエスは弟子たちを宣教に派遣する時、容易な成功の幻想を抱かせることなく、むしろ、神の御国を告げることで常に反対に会うだろうと、迫害を予告している。
教皇は、キリスト教徒とは「流れに逆らう人」と強調。
様々な形で表されるエゴイズムや不正義など、罪に満ちた世界において、キリストに従う者が反対の方向に向かうことは当然であると話された。
教皇はキリスト者のこうした生き方は、反骨精神のためではなく、神の御国の論理、希望の論理に忠実な、イエスの教えに基づく生き方であると述べられた。
弟子たちを宣教に送り出す際に、イエスが特に清貧さについて触れていることを教皇は指摘。
キリスト者は富や権力、そして自分自身への関心から離れているべきであり、謙遜で、清貧でないキリスト者は、イエスに似た者とは言えないと注意を促された。
キリスト者の唯一の力は福音であると述べた教皇は、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10,30)とイエスが弟子たちを安心させているように、困難にあっても、神はわたしたちをご覧になり、必ず守り、解放してくださると説かれた。
イエスに死に至るまで忠実である生き方をした人々を殉教者と呼ぶと教皇は述べつつ、「殉教(マルティリオ)」とは、証しを意味する言葉であると説明。
殉教者は自分のために生きるのでも、自分の考えのために闘うのでもなく、ただ福音への忠実のために死を受け入れる人々であると話された。
一方で、教皇はキリスト者にとって最も大切なものは愛であることを明確に示しつつ、自分を犠牲にしたテロ行為を「殉教者」と呼ぶことを、キリスト者は受け入れないと述べられた。
過去と現在の多くの殉教者たちを思い起こされた教皇は、これらの殉教者の力は、イエス・キリストにおいて与えられた神の愛から誰も自分たちを引き離すことはできないという、大きな希望であったと語られた。
そして、神がわたしたちにその証し人となる力を、また毎日の義務を愛を込めて行うという隠れた殉教において、キリスト教的希望を生きる恵みを、与えてくださるようにと祈られた。
2017年6月27日バチカン放送日本語課の記事より。
教皇フランシスコは、6月27日、ご自身の司教叙階25周年を記念するミサを捧げられた。
現教皇は、アルゼンチンでの司牧時代、1992年5月20日、聖ヨハネ・パウロ2世よりブエノスアイレスの補佐司教に任命され、同年6月27日、司教の叙階を受けた。
この日、教皇は、司教叙階から25年を祝い、バチカン宮殿のパオリーナ礼拝堂で、ローマ在住の枢機卿たちと共にミサをとり行われた。
ミサの説教で教皇は、教会における高齢者の存在は「長老」を意味せず、むしろ若者たちにとっての「夢を見ることのできる祖父たち」でなくてはならないと述べられた。
教皇は、旧約聖書・創世記に語られる神とアブラムの対話に注目。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」、と主に命じられ出発した高齢のアブラムの、常に主に信頼して歩む生き方に学ばなくてはならないと話された。
神がアブラムに命じたこと、それは「立ちなさい、見渡しなさい、希望を持ちなさい」ということであったと教皇は指摘。
座ったままでいないで、立ち上がって歩み、壁を築くことなく水平線を眺め、主が与えてくださる数え切れないほどの子孫を望み続ける、こうしたアブラムに倣う必要があると語られた。
「今は人生を閉じ、総括する時ではない、人生は最後の最後まで、使命のために開かれている」と主は呼びかけていると話された教皇は、わたしたちの使命は望みを持ち、それを若者たちに伝えること、と説かれた。
《年間第12水曜日「聖イレネオ司教殉教者》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。
[クララ]ここをクリックして聴くことができます。
「…すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。…このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7章)
***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***