月別アーカイブ: 2017年9月

[小郡]年間第26主日前晩ミサ説教(2017.9.30.)

小郡教会19時30分からの「年間第26主日」前晩ミサ説教[17分]。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】[主は言われる。]「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」(エゼキエル18章)

【第二朗読】[皆さん、]…何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。…。(フィリピ2章)

【福音】[そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。]「…あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼をしんじようとしなかった。」(マタイ21章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、新福音化推進評議会のメンバーと

2017年9月29日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、新福音化推進評議会のメンバーと

教皇フランシスコは、バチカンの新福音化推進評議会のメンバーとお会いになった。

教皇庁新福音化推進評議会(議長:サルバトーレ・フィジケッラ大司教)は、9月27日から定例総会を開催。会議最終日29日、参加者らはバチカン宮殿で教皇との出会いを持った。

関係者への挨拶で教皇は、今日の教会の、福音宣教への恒久の使命に対する努力と熱意を新たにする必要を強調。

昨年閉幕した「いつくしみの特別聖年」を全教会にとっての特別な恵みの時として思い起こされた教皇は、この感激が薄まったり、忘れられることがないようにと願われた。

神の民は神のいつくしみを贈り物として深く受け止め、この聖年を特に赦しの秘跡を通して、神の優しさと限りないその赦しを感じる機会としたと教皇は振り返った。

教皇は、教会がいつくしみの道具としてあり続けるための、その大きな責任を指摘。

神のいつくしみを世に知らせるために、そのいつくしみがキリスト者の生き方の中で具体的で目に見えるものとなるべきと話された。

また、教皇はこの席で、新福音化推進評議会が進める、11月19日の「第1回貧しい人たちの日」に向けた準備を励まされた。

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2018年の「世界広報の日」テーマ発表

2017年9月29日バチカン放送日本語課の記事より

2018年の「世界広報の日」テーマ発表

2018年度のカトリック教会の「世界広報の日」のテーマが公表された。

カトリック教会の「世界広報の日」は、福音宣教の中でも特に新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、インターネット、映画など、様々な広報機関・媒体を用いて行う宣教について、教会全体で考えることを目的としている。

「広報の日」は、毎年、聖霊降臨前の日曜日に記念され、2018年は5月13日に当たる。日本の教会では、聖霊降臨の前々週の日曜日(復活節第6主日)に記念されるため、来年度は5月6日となる。

教皇フランシスコが選んだ、来年の「広報の日」のテーマは、「真理はあなたを自由にする (ヨハネ8,32)。フェイクニュースと平和のジャーナリズム」。

「世界広報の日」に向けての教皇メッセージは、伝統的に、ジャーナリストの保護者である聖フランシスコ・サレジオの日(1月24日)に発表される。

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2017.9.30.〜10.15.)

主日のミサ時間は来年3月まで小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜です。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。*鳥栖カトリック幼稚園園舎新築工事のため駐車場が使用できないので。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。10月は14日と28日です。

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[基山]生きる力を与える言葉[2017.9.30.オミリア]

《聖ヒエロニモ》基山教会聖堂で7時から行われたミサのオミリア[10分]を聴くことができます。

[基山]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】いつくしみ深い父よ、あなたは聖ヒエロニモに、聖書を学び、深く味わう恵みをお与えになりました。信じる民があなたのことばのうちにいのちの泉を見いだし、日々生きる力を汲むことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【第一朗読】…別の御使いが出て来て迎え、彼に言った。「…娘シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来てあなたのただ中に住まう、と主は言われる。その日、多くの国々は主に帰依してわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう。」(ゼカリア書2章)

【福音】[そのとき、]イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(ルカ9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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きれいになりました。[2017.9.29.]

小郡教会聖堂の内陣、十字架が掛けられた壁が白くなりました。両側の窓から差し込む光の当たり具合が時間によって変わっていきます。聖堂外壁の修理も終わり、明日から洗浄作業に移ります。その後塗装され、10月末までには終わる予定です。

 

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[クララ]与えられた使命を生きる[2017.9.29.オミリア]

《聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】いつくしみ深い神よ、あなたは限りない英知をもって天使と人間にそれぞれ使命をお与えになりました。あなたに仕える天使の助けによって、わたしたちもゆだねられた使命を果たすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン

【福音】…イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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希望は心の原動力、教皇一般謁見、カリタスの難民救済キャンペーンに言及

2017年9月27日バチカン放送日本語課の記事より

希望は心の原動力、教皇一般謁見、カリタスの難民救済キャンペーンに言及

教皇フランシスコは、バチカンで9月27日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を続けつつ、この日は「希望を妨げるもの」とは何かを考えた。

教皇はこのテーマを取り上げるにあたり、「パンドラの甕」の話を思い出したと述べた。

ギリシャ神話の登場人物、パンドラが決して開けてはいけないという甕を開けると、ありとあらゆる災いが世界に飛び出していったが、すべての悪が出て行った後で、甕に残っていたもの、それは「希望」であった。

教皇は、この神話は、なぜ人類にとって希望がこれほどにも大切であるかを物語っていると話し、「命がある限り、希望がある」とよくいうが、むしろ反対で、希望が人生をつないでいると述べた。

教皇は、この日からスタートした国際カリタスの難民救済キャンペーンを紹介。希望は、より良い生活を求め、家や土地、時には家族をも後にして旅立つ人たちの心の原動力であると話した。

同時に、希望は、出会い、互いを知り、対話を願う、受け入れる人々の心の原動力でもあると指摘。難民たちの旅を分かち合うこと、希望を分かち合うことを恐れないで欲しいと呼びかけられた。

希望とは、満ち足りた人々のための力ではない、貧しい人たちこそが、一番希望を持つ人々であると教皇は話し、満たされた人たちが眠り込む中、主の降誕の夜に目覚めていた人々、ヨセフやマリア、羊飼いたちなど、謙遜な人たちの存在を思い起こされた。

しばしば、恵まれすぎた人生というものは一つの不幸である、と教皇は語り、期待も、忍耐も、努力も学ばなかった若者がいるとすれば、何も望むことのない、夢を閉ざされた、最悪の生き方をすることになると警告された。

空虚な魂は、希望にとって最悪の妨げであると教皇は強調。これは誰にでもある危険であり、キリスト者の歩みの中でも希望を失う誘惑となりうると話した。

無気力は生活を内面から侵食し、抜け殻のようにしてしまうと教皇は注意を促し、神がわたしたちを喜びと幸福のために創られたことを忘れず、こうした神から来たものではない不幸の誘惑から心を守らなければならないと説かれた。

自分を弱く感じ、苦しみとの戦いが辛い時、わたしたちはいつでもイエスの御名に助けを求めることができると述べた教皇は、「主イエス・キリスト、生ける神の御子よ、罪びとであるわたしを憐れんでください」と祈ることで、キリストは扉を開け放ち、わたしたちに希望の地平線を見せてくれるだろうと話された。

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フィローニ枢機卿、東京でミサと様々な集い、日本司牧訪問を終了

2017年9月25日バチカン放送日本語課の記事より

フィローニ枢機卿、東京でミサと様々な集い、日本司牧訪問を終了

訪日した教皇庁福音宣教省長官、フェルナンド・フィローニ枢機卿は、東京でミサや様々な集いに参加。9月26日、10日間にわたる司牧訪問を終え、日本を後にした。

9月17日から始まった日本司牧訪問で、フィローニ枢機卿は、到着した東京から、まず西日本へ。福岡、長崎に赴いた後、広島、大阪を訪れた。その後、同枢機卿は、東日本へと移動。仙台を基点に福島県内の被災地を訪問し、再び東京に戻った。

枢機卿は、23日、日本カトリック学院・東京キャンパスを訪れ、神学生との出会いを持った。

神学生らへの講話で、枢機卿は、日本における司祭召命の不足に言及。これまで教会に奉仕してきた司祭たちの高齢化が進む一方で、それに対応するだけの召命の増加がないことに憂慮を表した。

発展した近代的な大都市で神学の勉強をするということは、この世と福音的価値の対照の中に身を置くことと述べた枢機卿は、こうした状況においてこそ、司祭生活に伴う3つの「預言的しるし」、清貧・貞潔・従順の意味をいかに理解し、それを生きるかが重要と説いた。

また、神学院で司式されたミサで、フィローニ枢機卿は、種を蒔く人のたとえ(ルカ 8,4-15)をテーマに説教。種を蒔く人はイエス、地面はわたしたちの心、種は神の御言葉であるが、このたとえが特に焦点を当てているのは、種が蒔かれた地面の状態であり、すなわち、わたしたちの心の状況はどうなのかが問われていると話した。

同時に、このたとえは、ミサのために働き手が必要な場所、人間が困難な状況に置かれている場所、罪や敵意によって神とその御言葉の受け入れが妨げられている場所など、世の中のことをも考えさせるものと指摘した。

24日、東京カテドラル・関口教会の信徒会館で行われた司祭・修道者・信徒との集いで、フィローニ枢機卿は、福者ユスト高山右近の生涯を回想。日本の現実と離れることなく、福音が日本人にとって何ら異質ではないとの考えの下、社会の中に留まり、イエスのように迫害者を赦しながら、神の深い御心である、赦しといつくしみを自らの態度で示した、その生き方を振り返った。

枢機卿は、日本各地を訪問する中で、日本のキリスト教共同体の宣教に対する大きな可能性を確信したと話した。今日、そして将来、一般的な召命の危機や他の理由で、日本に来る宣教者は以前より多くはないかもしれないと述べつつ、今後の宣教事業は日本にいる人々、司祭・修道者・信徒・家庭・団体などの肩にかかっていると語った。

こうした中、フィローニ枢機卿は東京大司教区が司牧や文化・社会活動などを通して宣教において果たすべき責任を説き、中でも司牧的刷新、外に向かっていく宣教、キリストとの個人的出会いである福音宣教について、再び考え、それに取り組んで欲しいと願った。

同日、東京カテドラルで、フィローニ枢機卿は日本の司教団と共にミサを捧げた。

このミサの説教で、枢機卿は、「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ 20,1-16)を観想した。

このたとえに見る、ぶどう園の主人、すなわち神の特徴として、どの時間に雇った労働者にも、約束した正当な報酬を受け取ることだけを承諾させること、また、主人はどの時間にも常に労働者を探しに出かけて行き、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と彼らに尋ねていることを枢機卿は挙げた。

「神の目には、人々がなすべきことや人生の意味を知らずに生きていることはよくないことと映る。神は人間を目的をもって創られた」と述べた枢機卿は、わたしたちは人生の目的を見失う時、どこにいくかわからない車のようになってしまうと話した。

わたしたちの行くべき道とは何だろうか、それに対し、イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14, 6) と言っていると枢機卿は強調。

教皇フランシスコがこのイエスの言葉について「道・真理・命」という通過すべき3つの扉と説いていることを紹介した。

日本もまた福音を、キリストを、その真理を必要としているだろうかとフィローニ枢機卿は問いつつ、神が今だけでなく、いつも、どの時間にもわたしたちを探しに訪ねて来てくださるようにと祈った。

フィローニ枢機卿は、25日、日本の司教らと会合した。

そして、26日、日本司牧訪問を終了、帰国の途についた。

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