月別アーカイブ: 2017年10月

[クララ]小さいが成長する種[2017.10.31.オミリア]

《年間第30火曜日》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカ13章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]年間第30主日ミサ説教(2017.10.29.)

鳥栖教会11時からの「年間第30主日」ミサ説教[8分]。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」…(マタイ22章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2017.10.28.〜11.12.)

主日のミサ時間は来年3月まで小郡教会8時30分〜、鳥栖教会11時〜です。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。*鳥栖カトリック幼稚園園舎新築工事のため駐車場が使用できないので。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。

平日のミサは11月1日(水)は「諸聖人」の祭日です。小郡では6:30〜修道院で、鳥栖では10:30〜にミサが捧げられます。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。

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[基山]使徒たちから受け継がれてきた信仰[2017.10.28.オミリア]

《祝日:聖シモン 聖ユダ使徒》基山教会聖堂で7時から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

[基山]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、…熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。…(ルカ6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、ローマの「スコラス・オクレンテス」事務局を訪問

2017年10月27日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、ローマの「スコラス・オクレンテス」事務局を訪問

教皇フランシスコは、ローマの「スコラス・オクレンテス」事務局を訪問された。

「出会いの学校」を意味する「スコラス・オクレンテス」は、教皇がアルゼンチンでブエノスアイレス大司教を務めていた時から推進してきた教育ネットワーク。

すべての青少年に教育の機会を提供し、出会いと、対話、異なる存在への尊重を推進することを目的に、公立・私立、宗教の違いを超えた様々な教育機関が協力し合っている。

「スコラス・オクレンテス」は、2013年8月に教皇庁立基金としての形を整え、その活動を充実させてきた。今年6月には、ローマのトラステベレ地区にあるサン・カリスト館に事務局が開設された。

教皇は、10月26日夕方、このローマ事務局を訪れ、パレスチナ、イスラエル、イタリア、スペインを中心に、各地から集った多くの学生たち、ボランティアや関係者に迎えられた。

この集いで、教皇は、メキシコ、パラグアイ、アルゼンチン、プエルトリコ、米国テキサスからの中継を通し、それぞれの若者たちが置かれた困難な状況や、スコラス・オクレンテスの支援について語る声に耳を傾けられた。

教皇は特に今年9月のハリケーンで大きな被害を受けたプエルトリコの若者たちに連帯を示された。

移民とその受け入れについて、教皇は、常に新・旧の大陸を相互に豊かにする源であると強調。

よりよい未来の希望に賭ける移民たちを助けて欲しいと教皇はすべての人々に願うと共に、一方で、移民たちが受入れ国の法律を遵守し、市民たちが守られる必要を説かれた。

また、教皇はこの日、中央・南アメリカのいくつかの国々の「スコラス・オクレンテス」の活動拠点の誕生を喜ばれた。

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教皇、国際宇宙ステーションの隊員たちと中継で対話

2017年10月26日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、国際宇宙ステーションの隊員たちと中継で対話

教皇フランシスコは、国際宇宙ステーションの隊員たちと、ビデオ中継を通して対話された。

10月26日、バチカン宮殿と国際宇宙ステーションはビデオ中継によって結ばれた。

教皇は、バチカン宮殿の一室から、現在、宇宙ステーションに滞在中の6人の隊員たちに挨拶をおくり、宇宙について、また宇宙飛行士としての任務などについて質問。

宇宙ステーション側では、イタリア人のパウロ・ネスポリ隊員を仲介・通訳として、遠征52・53隊の他の宇宙飛行士たち全員(出身:米国・ロシア)が参加し、およそ25分間にわたり教皇と会話した。

まず、教皇は隊員らに、「果てしない宇宙を前に、宇宙における人間の存在をどのように感じるか」、「宇宙を動かす愛の力の存在をどう思うか」など、哲学・宗教的な問いを投げ掛けられた。

宇宙飛行士らは、「自分たちは技術者なので」と前置きしながらも、宇宙は知れば知るほど、実は少ししか知らないと気付かされること、愛とは誰かのために自分を捧げることを可能にしてくれる力ではないか、などと率直な回答を寄せた。

続いて、教皇は、「なぜ宇宙飛行士を目指したか」、「宇宙ステーションで驚いたことは何か」「ステーション内での協力関係から学ぶこと」など、宇宙飛行士の仕事や体験にまつわるテーマを尋ねられた。

隊員らは、祖父が世界初の人工衛星スプートニクのために働いていたために、その影響を受けた、宇宙から地球を眺めることで、人類について考え、よりよい未来のために働きたいと思ったなど、宇宙飛行士を目指した理由を述べていた。

また、宇宙では地上と感覚が違うので、地上ではあたりまえのこと、たとえば方向でもどちらが上でどちらが下かなど、自分の力で決めなくてはならないと説明。

ここでは多くの国の人が個人や世界を超えて、より大きなことのために協力して働き、この知識の旅を続けていると、隊員たちは語った。

教皇は、「皆さんは小さな国連です。一人ひとりの力を合わせてより大きな力とすること、これは皆さんが示す模範です」と称え、宇宙飛行士らに祝福をおくられた。

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教皇、スコットランド国教会の使節と会見

2017年10月26日バチカン放送日本語課の記事より

教皇、スコットランド国教会の使節と会見

教皇フランシスコは、スコットランド国教会の使節とお会いになった。

スコットランド国教会のデレク・ブラウニング総会議長率いる使節は、10月26日、バチカン宮殿に教皇フランシスコを訪問した。

教皇は使節を温かく迎えられ、訪問への感謝を述べられた。

ルターの宗教改革から500年を記念し、昨年スウェーデンのルンドを訪問したことを教皇は思い起こしつつ、こうした機会を背景に、スコットランド国教会の使節との出合いが行われたことに意義を見出された。

教皇はカトリック教会とスコットランド国教会が、長い対立を経た今、兄弟としてこの年を迎えることができたのは神の恵みによるものと述べ、エキュメニカルな歩みによってもたらされた理解と信頼、協力関係を喜ばれた。

特に、相互の記憶の浄化をこの共通の歩みの中で最も重要なものとして示された教皇は、人間的視点を通して、懐疑を持ち、互いの違いや過ちを見つめがちであった時代から、今わたしたちは同じ神の子として、ようやく神の眼差しをもって互いを理解できるようになったと指摘された。

福音の精神のもとに、謙遜な愛徳の道を共に進み、分裂を乗り越え、傷を癒すことを望まれる教皇は、キリスト者の一致を伴わないならば、福音宣教は完全な信頼性を持たないと強調された。

また、教皇は、今日イエスの名のために迫害に苦しむ、世界の多くのキリスト教徒たちの存在に思いを向け、これらの人々の証しは最後まで愛と勇気をもって前進するようにとわたしたちを促していると語られた。

教皇は、目に見える一致に向けての日頃の歩みが、近年に見たような豊かな実を、今後ももたらすことを願われた。

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人事:東京大司教区の新大司教に、菊池功司教

2017年10月25日バチカン放送日本語課の記事より

人事:東京大司教区の新大司教に、菊池功司教

教皇フランシスコは、東京大司教区の新しい大司教として、菊池功司教を任命された。

教皇は、10月25日、東京大司教区のペトロ岡田武夫大司教の引退願いを受理された。

そして、同大司教区の大司教に、新潟教区のタルチシオ菊池功司教(神言会)の任命を発表された。

菊池功司教さまのメッセージ

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[クララ]正しい判断の規準[2017.10.27.オミリア]

《年間第29金曜日》聖クララ会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【答唱詩編】*神よ、あなたのことばは わたしの足のともしび、わたしの道の光。//あなたのすすめからそれないように、心を尽くしてあなたを求める。わたしは仰せを心にいだく。あなたのさばきを示してください。/神よ、あなたのことばを生涯守れるように、豊かな恵みを与えてください。教えの偉大さを悟れるように、わたしの目を開いてください。(詩編119)

【福音】[そのとき、イエスは群衆に言われた。]「…偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今のと時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。…。」(ルカ12章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「希望の目的地としての天国」教皇一般謁見

2017年10月25日バチカン放送日本語課の記事より

「希望の目的地としての天国」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで10月25日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇は「わたしたちの希望の目的地としての天国」をテーマに講話し、この典礼年の間に継続された「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシスを締めくくられた。

「天国(楽園)」を、イエスの十字架上の最後の言葉の一つとして教皇は示しつつ、イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪者のうち、「よい泥棒」と呼ばれる一人にイエスが向けた、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉について観想された。

イエスがゴルゴタの丘で十字架につけられた時、十字架上にいたのはイエス一人ではなく、二人の犯罪人が、右に一人、左に一人、十字架につけられていた。

この時、イエスの隣にいた犯罪人の一人、いわゆる「よい泥棒」は、イエスをののしるもう一人の犯罪人をたしなめ、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(ルカ 23,41)と、自分の罪を認める告白をした。

聖金曜日、イエスは人となられた神の極みとして、わたしたち罪びとに連帯を示され、苦しむ主のしもべは「罪びとの一人に数えられた」(イザヤ53,12、ルカ 22,37) というイザヤの預言を実現することになったと教皇は話された。

カルワリオでイエスは一人の罪びとと最後の出会いをし、彼のためにも御国の扉を開かれたと教皇は指摘。

認められるような善行もなく、何一つ価値あるものを持っていなくても、イエスに信頼し、無実で善良なイエスに比べ自分はこれほどにも違うと認め、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という謙虚な言葉だけで、イエスの心を打つに十分であったと語られた。

「よい泥棒」はわたしたちが神を前にした時の真の状態を思い出させてくれると述べた教皇は、わたしたちが神の愛への郷愁を表すたびに、神は子であるわたしたちに憐れみをもよおすのであり、わたしたちが人生における良心の糾明をするたびに、良いことよりも欠点を多く発見しても、失望することなく、神のいつくしみに信頼することが大切であると説かれた。

教皇は、「楽園」はおとぎ話の場所でも、うっとりするような庭園でもなく、それは神との抱擁、無限の愛であると説明。わたしたちのために十字架上で死んだイエスのおかげでわたしたちはそこに入ることができると話された。

「臨終の時、キリスト者は『わたしを思い出してください』とイエスに繰り返すことで、そこに誰もわたしたちを思い出す人がいなくても、イエスはわたしたちのかたわらにおられる。」

「イエスはわたしたちを最も素晴らしい場所に連れていくことを、また、イエスによって贖われたわたしたちの人生の何一つ失われることないようすべてをそこに持っていくことを願われる。」

「これがわたしたちの人生の目的地であり、そこではすべてが完成され、すべてが愛に変容される。」

教皇はこのように語られた。

もし、これを信じるならば、死はもうわたしたちを恐れさせず、わたしたちは平安と大きな信頼のうちにこの世を旅立つ希望を持つことができると教皇は強調。

イエスを知った者は、もう恐れるものがない。「愛は決して滅びない」(1コリント13,8)と聖パウロが言うように、すべては過ぎ去るが、愛だけが残ると説かれた。

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