月別アーカイブ: 2018年3月

[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2018.3.31.〜2018.4.15.)

★★★鳥栖カトリック幼稚園外構工事のため4月一杯は佐賀銀行の職員駐車場をご利用ください。

★4月〜6月は小郡教会11時〜、鳥栖教会8時30分からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分〜です。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

聖金曜日:主の受難の儀式、バチカンで

2018年3月30日バチカン放送日本語課の記事より

聖金曜日:主の受難の儀式、バチカンで

イエス・キリストの十字架上での死を記念する「聖金曜日」、教皇フランシスコは「主の受難の儀式」をとり行われた。

3月30日夕方、聖ペトロ大聖堂で行われた「主の受難の儀式」では、厳かな雰囲気のもとに、ことばの典礼と、十字架の崇敬、聖体拝領式が行われた。

儀式の始めに、教皇は祭壇前の床に伏し、沈黙のうちに祈られた。会衆もまた、ひざまずき、沈黙の祈りが続いた。

みことばの祭儀では、まず「イザヤ書」(52,13-53,12)の、「自らを償いの献げ物とし」「多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」、主のしもべの受難と死の預言と、「ヘブライ 人への手紙」(4,14-16; 5,7-9)の、偉大な大祭司、神の子イエスが自らを犠牲にし、その苦しみへの従順によって完全な者となり、「ご自分に従順であるすべての人々に対し、永遠の救いの源となった」ことを説く箇所が読まれた。

続く「ヨハネ福音書」(18,1-19,42)の朗読では、イエスが捕らえられてから、尋問と死刑判決を受け、十字架上で死を遂げ、葬られるまでの出来事に人々は聞き入った。

説教を行った教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父は、イエスの十字架の下に聖母と共にいて、イエスの受難の証言者となった福音書記者聖ヨハネに注目。

聖ヨハネはイエスの受難と死を目の前で見ただけでなく、イエスの復活後、聖霊の光のもとに、これまで起きたすべてのことを見つめ、「成し遂げられた」(ヨハネ19, 30)と言ったイエスの最後の言葉の意味を理解した人であったと指摘した。

なぜ、わたしたちの教会やキリスト者の集う場所には常に十字架があるのか、十字架に対するこの際限ない集中はなぜなのか、と同神父は問いつつ、「神は愛(アガペ)である」(参照:1ヨハネ4,10)とヨハネが記したように、ただ十字架の上にのみ、神の自己奉献に至るまでの究極の愛を見ることができるからであると説いた。

カンタラメッサ神父は、今年開催される若者をテーマにしたシノドスに言及。この機会に、イエスに早くから従い、イエスの受難と死と復活を目撃したことで、完全に人生を決定付けられたこの若い弟子、ヨハネのメッセージから多くを汲み取るよう招いた。

そして、キリストが若者に何を期待し、若者は教会と社会に何を与えることができるかだけでなく、むしろ、キリストが若者に与えるものは何かを考えようと話し、イエスと共にいることで、満ちあふれる喜びと命を発見した聖ヨハネの人生を思い起こした。

説教に続いて、聖金曜日のこの儀式の特徴の一つである、盛式共同祈願が行なわれた。

後半の十字架の崇敬では、十字架を手にした助祭が祭壇に向かって歩みつつ、三回立ち止まり、その度、十字架を高く掲げ、世の救い主キリストがつけられた木の十字架であると述べ、人々を崇敬へと招いた。

祭壇手前で最初に十字架を迎えられた教皇は、頭を垂れ、十字架上のイエスに接吻された。

そして、これに枢機卿・司教、そして司祭・修道者・信徒の代表が続いた。

最後に、教皇は祭壇前で十字架を高く掲げ、会衆はひざまずき、沈黙の中に崇敬を表した。

聖金曜日にはミサが捧げられないため、この儀式の中ではパンとぶどう酒の聖別は行なわれないが、前日、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」で聖別された聖体を参加者は拝領した。

聖体拝領の後、人々は静かに解散した。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

聖木曜日:教皇、ローマのレジナ・チェリ刑務所で主の晩餐のミサ

2018年3月29日バチカン放送日本語課の記事より

聖木曜日:教皇、ローマのレジナ・チェリ刑務所で主の晩餐のミサ

教皇フランシスコは、「主の晩餐の夕べのミサ」を、ローマの刑務所で捧げられた。

「聖木曜日」3月29日の午後、「過ぎ越しの聖なる三日間」に入ると共に、教会の典礼は一年間の頂点を迎えた。

教皇は「聖なる三日間」の始まりを告げる「主の晩餐の夕べのミサ」を、ローマ市内トラステベレ地区のレジナ・チェリ刑務所で、受刑者らと共に記念された。

「主の晩餐」のミサは、キリストが受難と死を前に、最後の晩餐において、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定したことを記念する。

ミサの中では、イエスがこの最後の晩餐の前に、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ…たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき」、こうして互いに奉仕し合うように自ら模範を示したこと(ヨハネ13,4-17)を思い起こすものとして、「洗足式」が行なわれる。

夕方、同刑務所に到着された教皇は、病棟の受刑者たちを見舞われた。

続いて、刑務所のホールで、受刑者たちの参列のもと、教皇によって「主の晩餐のミサ」がとり行われた。

教皇は説教で、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13,15)というイエスの言葉を引用しつつ、当時奴隷のものであった足を洗う仕事をイエスは弟子たちに自ら行い、互いに仕え合うことを教えたと話された。

また、「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうでない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(参照:マルコ10,42-43)というイエスの言葉を引用。

歴史上の権力者たちが、その冷酷さや命令、暴力の代わりに、イエスの言葉を理解したならば、多くの戦争は起こらずにすんだであろうと話された。

奉仕ということを、傲慢な人々は理解しないが、それでもわたしたちはよりいっそう奉仕するように招かれていると語られた。

「イエスは社会から疎外された人々のもとを訪れ、これらの人々にあなたは自分にとって大切な人であると伝えました。」

「イエスはわたしたちのもとに奉仕に来られます。今日、この刑務所で行なわれる洗足式は、そのイエスの奉仕のしるしです。」

「わたしは皆さんと同じ罪びとですが、今、イエスの大使としてここにいます。わたしが皆さんの前で身をかがめる時、『イエスは罪びとである自分のために命を捧げ、わたしのところに愛していると伝えに来られたのだ』と思ってください。」

このように話された教皇は、「洗足式」で国籍や宗教の異なる12人の受刑者の足を洗われた。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

聖木曜日:教皇「人々に寄り添う司祭に」聖香油のミサで

2018年3月29日バチカン放送日本語課の記事より

聖木曜日:教皇「人々に寄り添う司祭に」聖香油のミサで

「聖木曜日」の午前、「聖香油のミサ」が、教皇フランシスコとローマ教区の司祭たちによって司式された。

3月29日、カトリック教会の典礼暦は、復活祭を目前にした「聖週間」中の木曜日、「聖木曜日」を迎えた。

「聖木曜日」の午前中にとり行われる「聖香油のミサ」は、各教区の司教座聖堂において、司教と司祭の共同司式で捧げられる。

このミサでは、「司祭叙階時の約束の更新」と、「聖油の祝別」が行なわれる。

「聖油の祝別」では、洗礼志願者用聖油、病者用聖油、堅信等に用いる聖香油の、三種の聖油が司教によって祝別される。そして、祝別された聖油は、教区の各教会に分配される。

この朝、バチカンの聖ペトロ大聖堂には、ローマ司教である教皇を囲み、同教区の司祭たちが一堂に集った。

ミサの説教で、ナザレの会堂で預言者イザヤの巻物を開き朗読する、権威あるイエスの姿(ルカ4,16-21)を観想された教皇は、律法学者のように振舞うこともできたはずのイエスが、巷の人々と近く交わりながら、良き知らせを告げ、教えることを選ばれたことに注目。

ご自分の民に近く寄り添うという、神の偉大な選択を強調された。

「人々の近くにいる」ということは特別な愛徳であるだけでなく、一つの態度、自分自身を保つと同時に他の人々に関心を持つという人間関係の築き方でもあると教皇は指摘。

司祭が人々に寄り添うために努力すべきこととして、「常にいること」、そして「誰とでも話すこと」の二つを助言された。

教皇は、人々といつも共にいて、誰に対しても話す言葉を持っている司祭像を示しつつ、近くにいるというその態度が、いつくしみの鍵となり、また人々を名前で呼ばれたイエスのように、人々を概念で捉えず、実際に知るという意味で、真理と誠実の鍵ともなると話された。

そして、司祭が人々に寄り添う機会として、特に「霊的対話」「告解」「説教」の、3つの場を挙げられた。

教皇は司祭たちに対し、自分が神から離れていると感じる時は、人々に近づくことで、自分の信仰を冷ましていた概念から解放されるように、また自分が人々から離れていると感じる時は、主とその御言葉に近づくことで、イエスが人々をいつくしまれ、そのために十字架上で血を流されたことを思い起こすように勧められた。

説教に続き、司祭たちは、教皇の問いかけに答えながら、叙階の日の思いを新たに、その時の約束を更新した。

参列者は、司祭らがキリストに忠実にその務めを果たせるよう、すべての司祭のために主の賜物を祈った。

さらに、聖油の祝別の儀式で、教皇は祭壇前に運ばれた大きなアンフォラ(壺)に入った3種の聖油をそれぞれ祝別された。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

「過ぎ越しの聖なる三日間」を観想、教皇一般謁見

2018年3月28日バチカン放送日本語課の記事より

「過ぎ越しの聖なる三日間」を観想、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、バチカンで3月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

復活祭の直前の一週間、聖週間に入ってからのローマは、雲りがちとはいえ、穏やかな気温が続いている。

一般謁見の会場となった聖ペトロ広場には、国際フォーラムのためにローマを訪れた大学生らを中心に、多くの巡礼者が集った。

謁見中のカテケーシスで教皇は、翌日から始まる、教会の典礼暦の中で最も重要な、「過ぎ越しの聖なる三日間」の意味を説かれた。

主イエス・キリストの死と復活の唯一偉大な神秘を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」は、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」から始まり、復活の主日の夕べの祈りで閉じる。

教皇はこの聖なる三日間を、キリスト者の信仰とこの世における召命の基礎をなすものと述べ、ユダヤ教の兄弟たちにとっての「出エジプト」の出来事のように、すべてのキリスト者はこの三日間を自分自身と教会共同体の存在の基盤と認識して過ごすよう促された。

復活の主日のミサの続唱(セクエンツィア)で響く、「わたしの希望、キリストは復活し、ガリレアに行き待っておられる」という言葉に、「過ぎ越しの聖なる三日間」の歓喜の極まりを見出しつつ、教皇は喜びと希望を告げるこの言葉が含む、キリスト者の責任と使命への呼びかけを指摘。

この知らせこそがわたしたちの信仰と希望の核心であり、教会はこのケリュグマ(福音の告知とその内容)に福音化されながら、自らも福音宣教へと派遣されていくと語られた。

「キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られた」(1 コリント 5,7)。

「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2 コリント5,17)。

「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4,25)。

教皇はこのように、キリストの死と復活の神秘を説く使徒聖パウロの言葉を引用。

聖なる三日間は、キリスト教信仰の基礎となるこの出来事を記憶し、大きな感謝と共にそれを祝い、同時に自分たちの受けた洗礼の意味を新たにする時でもあると話された。

教皇は、キリスト者はキリストに真に洗われ、新しい命を生きるためにキリストによって古い人間を脱ぎ捨てるならば、わたしたち皆がそうであるように、罪びとであり続けながらも、魂に死を抱えて生きることはもうないと説かれた。

そして、わたしたちはイエスが自分たちに与えてくださった愛を、今度は隣人たち、特に最も小さく苦しむ人々に与えることを知り、こうして世界は、わたしたちの復活した新しい命の生きる場所となると語られた。

教皇は、イエスの受難においてその十字架の下まで従った聖母マリアと共に、この聖なる三日間の霊的過程をたどり、わたしたちのために死に、復活されたキリストの神秘に深く思いをはせるよう信者らに願われた。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

[クララ]イエスを売ってる?[2018.3.28.オミリア]

《受難の水曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[4分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。…。(マタイによる福音書第26章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで

2018年3月25日バチカン放送日本語課の記事より

イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで

教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場で、「受難の主日」のミサを捧げられた。

3月25日、カトリック教会の典礼暦は「受難の主日」を迎えると共に、復活祭直前の一週間、キリストの受難を記念する「聖週間」に入った。

「聖週間」の第一日目「受難の主日」は、「枝の主日」とも呼ばれる。

この日は、イエスのエルサレムに入城した際に、大勢の群集が自分の服や、木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んでイエスを歓迎したという福音書の記述を思い起こし、ミサの前に、オリーブやシュロの枝を掲げて、宗教行列が行なわれる。

また、「受難の主日」には、教区レベルの「世界青年の日(ワールドユースデー)」が記念される。

第33回目となる今年の「世界青年の日」のテーマは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」 (ルカ 1,30)。

このミサには、ローマ教区と周辺教区の青少年、また、ローマで開催された若者をテーマとしたシノドス準備ミーティングや、大学生のフォーラムの参加者たちの姿が見られた。

ミサ開始前、教皇フランシスコは、聖ペトロ広場のオベリスクの前で、人々が手にする枝を祈りと聖水をもって祝別。

続いて、若者たちや、修道者、司祭、司教、枢機卿、そして教皇は、枝を掲げ、賛歌に声を合わせながら、大聖堂前の祭壇まで行列した。

教皇はミサの説教で、イエスのエルサレム入城に響く様々な叫びを観想。

エルサレムに入城したイエスを迎える民衆の歓喜と祝祭、主を賛美する叫びにわたしたちも招かれる一方で、主の十字架の道行と共に、その喜びは苦しみと苦さへと変えられていく。教皇は人々の叫びを通し、こうした主の受難の出来事に交差する喜びと苦悩を見つめられた。

教皇は、主の受難の物語は、多く愛することができる一方でまた憎悪することもでき、立派な犠牲ができる一方ですぐに自分は関係ないと背を向けることもできる、今日のわたしたちの感情や矛盾をも明るみに出すものと話された。

エルサレムでイエスは人々の歓呼に囲まれる。教皇は、それは自分たちの苦しみや惨めさの中でイエスの憐れみに触れ、イエスに従った人々の叫び、赦され、自信と希望を取り戻した罪びとたちの喜びの声であったと述べられた。

しかし、その一方で、人々の歓喜は、律法や宗教上の義務に「忠実」で自らを正しいと考えている人々には迷惑なもの、人々の苦しみや貧しさに対する感受性を失った人々にはいらだたしいものであった、と教皇は指摘。

自分の力を過信し、自らを他人より優れた者と思い込む者たちにとって、人々と喜びを分かち合うのは、いかに難しいことであったかと話された。

「十字架につけろ」というイエスに対する叫びは、こうして生まれたと述べた教皇は、それは自分の立場を守りたい者の声、驕りや傲慢による計略が作り出した叫びであったと語られた。

そして、最後には民衆の祝祭は止められ、希望や夢は壊され、喜びはかき消された。人々は心を閉じ、愛は冷えてしまったと話された。

こうしたすべての叫びを前に、わたしたちがとるべき態度、それは十字架上のキリストを見つめ、キリストの最後の叫びを聞いて、そこから自問することであると教皇は強調。

わたしたち一人ひとりへのご自分の愛を叫びながら亡くなられたイエスを思うよう招かれた。

教皇はこのミサに集った若者たちに、彼らの心にイエスが生む歓喜を消さないようにと願われた。

ここで教皇は、イエスのエルサレム入城の日に響いたもうひとつの声、神を賛美する弟子たちにいらだち、「先生、お弟子たちを叱ってください」(ルカ19,39)とイエスに言った人々の声と、それに対し「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(同19,40)と答えたイエスの言葉を思い起こされた。

教皇は、いろいろな方法で若い人たちの声がかき消されても、また、たとえ世界が沈黙し、喜びが失われても、「石が叫び出す」前に叫ぶことができるか、それは皆さんの決断にかかっていると、若者たちを励まされた。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

若者たちによるシノドス準備ミーティング終了

2018年3月25日バチカン放送日本語課の記事より

若者たちによるシノドス準備ミーティング終了

ローマで開かれていた若者たちによるシノドス準備ミーティングが終了した。

今年10月に「若者たち、信仰そして召命の識別」をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会がバチカンで開催されることに先立ち、同シノドスを準備する目的で青年たち自身が参加するミーティングが、ローマ市内の教皇庁立国際神学院「マリア・マーテル・エクレジエ」で開かれていた。

3月19日から24日まで開催されたこのミーティングには、世界各国から、カトリック信者だけではなく、他のキリスト教教会や、諸宗教、無宗教の若者たちも含む300人以上が会場に集い、この他にインターネットを通して各地から約1万5千人が参加した。

最終日、言語別の20グループと、ソーシャルメディアを通した6グループの会議の成果を基礎に、ミーティングの参加者ら皆の意見を要約したものとして、文書が発表された。

文書は全15ページで、序文以下、次のようにテーマ別にまとめられている。

第一部「現代の若者の挑戦とチャンス」
1.人格の育成
2.他者との関係
3.若者と未来
4.テクノロジーとの関係
5.人生の意味の探求

第二部「信仰と召命、識別と寄り添い」
6.若者たちとイエス
7.信仰と教会
8.人生の召命の意味
9.召命の識別
10.若者と寄り添い

第三部「教会の教育的・司牧的行為」
11.教会のスタイル
12.若い主役たち
13.優先すべき場所
14.強化すべき催し
15.利用すべき手段
 -マルチメディア
 -教会運動等への参加
 -芸術と美
 -礼拝・観想・黙想
 -信仰経験の分かち合い
 -教会会議性

この文書は、21世紀を生きる、出身地も、宗教、文化的背景も異なる青年たちによる、考察の結果であり、また、一つの神学論や教会の新しい教えを構成するものでもないと前置きした上で、若者たちがいまどのような場所に置かれ、どこに向かっているのか、教会は若者たちのために何ができるのかを知るための指針、今日の世界の若者たちの様々な現実や、人間性、信仰のあり方を反映する資料として、シノドス参加司教らに読んで欲しいと、序文で述べている。

資料本文は、最初に、若者たちが置かれた様々な環境や現実を紹介。それぞれの状況から生じる考えや傾向、宗教や信仰への態度・思いを記している。

次に、現代の若者たちがどのように信仰や召命を認識しているか、召命の識別のためにはどうしたらよいのか、そのためにどのような助けが必要かを述べている。

そして、若者が今日の教会に望むもの、このようにあって欲しいと思う「真の教会」、「透明で、正直で、惹きつける、コミュニケーションに富んだ共同体」の姿を描き、彼らの教育と司牧のためにどのような点に留意し、どのような点に力を入れて欲しいかを、具体的に示している。

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

[クララ]わたしたちも裏切ってる[2018.3.27.オミリア]

《受難の火曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、]心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」…その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。…ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(ヨハネによる福音書第13章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

[鳥栖]「受難の主日」ミサ説教(2018.3.25.)

《受難の主日》鳥栖教会聖堂で11時から行われたミサの説教[2分]を聴くことができます。

*受難の朗読後、適当であれば簡単な説教を行う。[儀式書「聖週間の典礼」]

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【マルコによる主イエス・キリストの受難】…そこで、ピラトは言った。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動(せんどう)した。そこで、ピラトは改めて言った。「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか。」群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく叫び立てた。「十字架につけろ。」…。(マルコ福音書15章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

Facebook にシェア
[`evernote` not found]