月別アーカイブ: 2018年9月

[小郡]年間第26主日ミサ説教(2018.9.30.)

《年間第26主日》小郡教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[13分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。…(マルコ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第26主日前晩ミサ説教(2018.9.29.)

《年間第26主日前晩》小郡教会聖堂で19時30分から行われたミサの説教[11分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。…(マルコ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2018.9.29.〜2018.10.14.)

★鳥栖教会の新しい駐車場は使用できるようになりました。駐車場の利用方法については鳥栖教会のホームページをご覧ください。幼稚園駐車場利用の際は警備員に教会利用の旨を伝え駐車カードを運転席の見える所に置いてください。

★10月〜12月の主日(日曜日)のミサは鳥栖教会8時30分〜、小郡教会11時からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分からです。

★[鳥栖]10月7日(日)は幼稚園の運動会のため、教会、幼稚園とも駐車場は使えません。

★10月14日(日)の幼稚園駐車場の利用は8時〜12時利用できます。

★10月〜12月の主日(日曜日)のミサは鳥栖教会8時30分〜、小郡教会11時からになります。前晩(土曜日)のミサは毎週小郡教会で19時30分からです。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

第二、第四土曜日は朝7時から基山教会で平日のミサが行われています。清々しい空気と早朝の光りの中でのミサは心が洗われるようです。一度参加してみてください。

 

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[クララ]保護の聖人[2018.9.29.オミリア]

《[祝]聖ミカエル 聖ガブリエル 聖ラファエル大天使》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】いつくしみ深い神よ、あなたは限りない英知をもって天使と人間にそれぞれ使命をお与えになりました。あなたに仕える天使の助けによって、わたしたちもゆだねられた使命を果たすことができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音】[そのとき、]イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ福音書1章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「信仰は歴史を変える」教皇、中国のカトリック信者に

2018年9月26日バチカン放送日本語課の記事より。

「信仰は歴史を変える」教皇、中国のカトリック信者に

「中国のカトリック信者と普遍の教会へのメッセージ」の中で、教皇フランシスコは、中華人民共和国との司教の任命をめぐる暫定合意への署名の理由を、福音宣教を促進し、カトリック共同体の一致を達成するため、と説明している。

セルジョ・チェントファンティ(バチカン市国)

教皇フランシスコが、9月26日、一般謁見の中で言及したそのメッセージは、教皇が祈りの中で「毎日心に留めている」中国のカトリック信者への励ましから始まる。教皇フランシスコは、ベネディクト16世が2007年5月27日付で発表した「中華人民共和国におけるカトリック教会の司教、司祭、奉献生活者、信徒への手紙」と同様、「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12,32)というイエスの言葉を思い出している。

混乱と疑念を生んだ意見の渦

教皇はすぐに問題の核心に入り、次のように述べている。「最近になり、中国のカトリック共同体の現況と、特にその将来について、対立する多くの意見が広がりました。こうした意見や考察の渦が、少なからぬ混乱を生み、多くの人の心に反対の感情を起こしたであろうことを、わたしは十分知っています。ある人々は疑念や当惑を抱き、ある人々は教皇庁から見捨てられたように感じ、同時に、ペトロの後継者に対する忠誠を生きるために苦しむことの価値について、苦悩に満ちた問いを投げかけました。これに対して、他の多くの人々の中では、中国において豊かに信仰を証しするための、より落ち着いた未来への希望に励まされ、前向きな期待と考えが勝りました。」先日北京で署名された「教皇庁と中華人民共和国間の司教の任命をめぐる暫定合意」と共に、この状況がより目立つものになったと、教皇は強調している。

中国のカトリック信者に対する称賛、命を捧げるまでの福音の証し

教皇フランシスコは、中国のカトリック信者の忠実の賜物に対し、「心からの称賛」を表し、それは「カトリック教会全体の称賛」であると述べている。非常に不利で困難な出来事に見舞われた時でも、試練の中の強固さと、神の御摂理への堅い信頼を持つ、中国の信者たちを称えている。教皇は「このような苦しい経験は、中国の教会と、地上を旅するすべての神の民に属する宝です」と述べ、主は「まさに試練の場を通して、必ずや慰めでわたしたちを満たし、より大きな喜びを準備してくださいます」と記している。そして、「福音に対する『立派な宣言』(参照1テモテ6,13)を厭わず、自らの命を捧げるまでに至った、多くの信者や司牧者の模範に眼差しを据える」よう呼びかけ、「彼らこそ神の真の友と言えましょう」と述べている。

ヨハネ・パウロ2世に始まり、ベネディクト16世により継続された対話

教皇は、暫定合意について、「教皇庁と中国政府当局の長く複雑な対話の成果であり、それは聖ヨハネ・パウロ2世に始まり、ベネディクト16世により継続されたもの」と説明。「このプロセスを通し、教皇庁は、教会に対する霊的・司牧的目的の実現以外の何ものをも意図することなく、今も意図していません。その目的とは、すなわち、福音宣教を支援・推進し、中国のカトリック共同体の完全で目に見える一致を獲得・維持することです」と明らかにしている。

道を知らなくても、信仰をもって出発する

この後「わたしたちが進むべく召された、この新しい段階における歩みのため」の指針が続く。教皇は、ベネディクト16世の中国のカトリック信者への手紙を再び引用しつつ、この歩みは「時間を要し、双方の善意を前提とするもの」と述べている。教皇フランシスコは、アブラム(アブラハム)の例を挙げ、「アブラムは神の呼びかけに従い、受け継ぐべき、まだ知らぬ土地へ向けて、その歩みの先に何があるかを知ることなく、旅立ちました。もしアブラムが自分の土地を離れる前に、社会的、政治的、思想的条件にこだわったならば、彼は決して旅立たなかったでしょう。しかし、彼は神と御言葉に信頼し、自らの家と安全を捨てたのです。歴史の変化が、彼を神に頼らせたのではなく、彼の純粋な信仰が、歴史の中に変化を生み出したのです」と書いている。教皇は「ペトロの後継者として、皆さんのこの信仰を固め、(…) 歴史の中で働かれる神と、教会による神の御旨の識別に、より確信をもって信頼するよう招きます」と強調している。

司教の任命の問題

「何よりもまず、司教の任命問題への取り組みは、本質的なことでした。残念なことに、皆さんもご存じのとおり、中国のカトリック教会の最近の歴史は、深い緊張と、傷と、分裂によって、痛ましい形で刻まれました。特に信仰の正統を守り、教会的交わりを保証する立場である、司教のあり方をめぐって、分極が生じました。過去において、国家の正当な権限以上の、直接の管理を押し付け、カトリック共同体内部の生活までを取り仕切ろうとした時から、中国の教会の中に非合法な現象が生じました」と教皇は説明する。

「和解した」司教らに、再び得た一致を目に見える態度で示すよう願う

教皇フランシスコは、「普遍の教会との完全な交わりの中で自らの信仰を生きたいという、中国のカトリック信者たちの願いを確かめる中で、大きな慰めを得ました」と明かす。こうした中には「弱さや過ち、またしばしば強い不当な外部の圧力を理由として、教会における一致を傷つけた」司教らもいた。「それゆえ、すべての個々の状況を注意深く吟味し、様々な意見を聞いた後、わたしは中国の教会の真の善を求めながら、よく考え、祈りました」、「主の御前で、落ち着いて判断をし、わたしの直接の前任教皇らの方針を継続する中で、わたしは残り7人の、教皇から委任されていない、”公認”司教たちに和解を授け、対応するすべての教会法上の制裁を取り除くことで、教会の完全な交わりに彼らが再び入れるよう認めることを決意しました。同時に、彼らが再び得た教皇庁と世界に広がる教会との一致を、具体的な目に見える態度をもって表し、困難にもかかわらずそれに忠実であることを願います」と教皇は述べている。

過ちを認めた人を再び抱擁する

「過ちを認め、一からやり直すことを決意して帰ってきた子を、神が再び抱擁することを阻む法も掟もない」という自覚のもとに、「和解を作り出す人」となるよう、教皇は中国のすべてのカトリック信者を招いている。そして、この精神においてこそ、「過去の傷を癒し、中国のすべてのカトリック信者の完全な一致の回復を期待する、今までにないプロセス」を開始することができると強調している。

司教の選択:イエスのみこころにかなう司牧者

「暫定合意は、教会の活動のいくつかの側面に限定され、今後より完全なものになる必要を持ちながらも、中国のカトリック教会の新しいページをしるすために役立つことができるでしょう。この合意は、カトリック共同体によい司牧者を保証する希望と共に、初めて、中国当局と教皇庁間の協力に安定した要素をもたらすものです。この意味で、教皇庁はその権能の及ぶ役割を徹底的に果たすつもりですが、司教、司祭、奉献生活者、信徒の皆さんもまた、重要な役割を負っています。それは難しく重要な司教の任務を引き受けることのできる、よい候補者を一緒に探すことです。それは宗教的問題の管理のための役人を任命することではありません。最も貧しく弱い人々をはじめ、神の民に奉仕するために寛大に働くことに努める、イエスのみこころにかなう、真の司牧者を得ることです」と、このように教皇は記している。

社会における中国のカトリック信者の役割

「中国のカトリック信者が、社会と政治の面において、良き市民として、彼らの祖国を深く愛し、それぞれの能力に応じて、責任と誠実をもって自らの国に奉仕することができますように。また道徳の面において、共通善と社会全体の調和ある発展に対する、より高いレベルの奉仕を、多くの同国民が彼らに期待していることを自覚できますように。中でも、カトリック信者が、神の御国における信仰から生まれる、預言的で建設的な貢献を与えることができますように。彼らに願いたいことは、無用な対立のためではなく、より正義に満ち、人間的な、すべての人の尊厳を尊重する社会の構築のために、批判的な言葉も言えるようにということです」と、教皇は述べている。

福音宣教のため、司教と司祭は対立を克服するように

教皇は司教、司祭、奉献生活者らに向けて、「過去の対立、個人利益の是認の追求」を克服するよう願っている。これに対して、「和解と一致のために、謙遜に」取り組みながら、信徒の世話に努め、「エネルギーと熱心さをもって、第2バチカン公会議によって示された福音宣教の歩みを」取り戻すように励ましている。

中国の若いカトリック信者への呼びかけ:福音の喜びを皆に伝える

教皇は、中国の若いカトリック信者に対しても、国の未来の構築に協力し、情熱をもって、すべての人々に福音の喜びを伝えると共に、「真の出会いの文化の光のもとに、勇気ある、兄弟的な歩みを始めるために、個人的な先入観や、グループや共同体間の対立」を超えるよう呼びかけている。

全世界の信者は、中国のカトリック信者を孤立させないように

全世界のカトリック信者に向けて、教皇は「中国のわたしたちの兄弟姉妹を、熱心な祈りと兄弟愛的な友情をもって、見守る」ように願い、「実際、今、彼らの前に始まろうとする歩みにおいて、彼らは孤独ではないと感じる必要があるのです」と述べている。

中国の当局との対話を信頼をもって継続

こうして、教皇は「中華人民共和国の指導者に、尊重をもって」呼びかけ、「過去、そして最近の対立」を克服し、「『無理解は、中国当局にも、中国のカトリック教会にも有益でない』(ベネディクト16世、中国のカトリック信者への手紙、2007年5月27日、4)という共通の確信のもと、より落ち着いた、具体的な協力の1ページをしるすために」「以前から始めた対話を、信頼と、勇気、先見性をもって、継続するよう」改めて招いている。「こうすることで、中国と教皇庁は」、「宗教の領域においても、人間への最大の尊重を保証しつつ、社会の統合的発展を」推進できるだろうと述べている。また教皇は、「信者の正当な期待と、当局が関わる決定との間に調和を保ち、司牧活動の秩序だった実現を保証できるような、地元当局と地元教会-司教・司祭・共同体の長老-との、率直で日常的な協力の新しいスタイルを学ぶ必要がある」とも指摘。そして「中国の教会は、中国の歴史に属さないものでもなければ、いかなる特権を求めるものでもありません」と強調している。

福音を一致して告げるために、マリアへの祈り

最後に、教皇は主に平和の賜物を祈ると共に、すべての信者に、おとめマリアの母なる保護を、次のように祈り求めるよう招いている。「(…) 希望の聖母よ、気高い中国の地の信者らの歩みをあなたに託します。(…) 苦しむ者たちを慰める方、わたしたちはあなたに頼ります。あなたは、試練の中で泣く人々の拠りどころだからです。あなたの名を称える子らを見守ってください。彼らが共に福音をもたらすことができますように。兄弟愛により満ちた世界のために、彼らの歩みをお守りください。皆が赦しの喜びを与えることができますように。天の元后よ!キリスト信者の助けなるマリア、中国のために、祝福と平和の日々をあなたに願います。アーメン!」

26 9月 2018, 18:35
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[クララ]わたしは何者?[2018.9.28.オミリア]

《年間第25金曜日:[記]聖トマス西と十五殉教者》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。/生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時/殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時/泣く時、笑う時/嘆くとき、踊る時/石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時/求める時、失う時/保つ時、放つ時/裂く時、縫う時/黙する時、語る時/愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。/人が労苦してみたところで何になろう。/わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。(コヘレト3章)

【答唱詩編】神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。

 神よ、あなたはわたしを心にかけ、わたしのすべてを知っておられる。わたしがすわるのも、立つのも知り、遠くからわたしの思いを見通される。/神よ、あなたの思いはきわめがたく、そのすべてを知ることはできない。あなたのはからいは限りなく、生涯、わたしはその中に生きる。(詩編130)

【福音】イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]「空」を充たすイエス[2018.9.27.オミリア]

《年間第25木曜日:[記]聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。/太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。/何もかも、もの憂(う)い。語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしまい。(コヘレト1章)

【答唱詩編】神のはからいは限りなく、生涯わたしはその中に生きる。

 主よ、あなたは代々にわたって、わたしたちの住まい。世界が造られる前から、永遠にあなたは神。朝ごとにあなたのいつくしみをそそぎ、日々わたしたちに、喜びの歌をうたわせてください。/あなたの目には、千年も過ぎ去った一日のよう、夜回りのひと時にすぎない。人のいのちはくさのよう、あしたには花を開くが、夕べにはしおれて枯れる。(詩編90)

【福音】[そのとき、]領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主(ぬし)は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。(ルカ福音書9章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「勇気をもって外へと羽ばたこう」教皇、エストニアの教会の福音宣教を励ます

2018年9月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「勇気をもって外へと羽ばたこう」教皇、エストニアの教会の福音宣教を励ます

教皇フランシスコは、9月25日午後、エストニア首都タリンでミサを捧げ、これによってバルト3国訪問を終了された。

教皇フランシスコは、バルト3国訪問の最終日、9月25日午後、エストニアの首都タリンでミサを司式された。

エストニアのカトリック共同体は小さいものであるが、タリン市内の自由の広場で行われた教皇ミサには、各地からおよそ1万人の信者らが駆け付けた。

教皇はミサの説教で、聖書朗読された創世記19章の、エジプトから脱出したイスラエルの人々がシナイ山に到着した場面に、エストニアをはじめ、すべてのバルト諸国の姿を重ね、「歌う革命」やヴィリニュスからタリンまでつながれた「人間の鎖」など、人々の自由のための闘争を思い起こされた。

神はわたしたちの必要を知っておられる、と述べた教皇は、イエスはわたしたちとの出会いを通して、わたしたち一人ひとりの心の渇きを、イエスの清い、豊かな、力ある水でいっぱいに満たし、克服させてくださると話された。

信仰は、イエスはわたしたちの間に生きておられ、わたしたちを愛し、わたしたちの歴史にいつくしみをもって入って来られることを悟らせる、と教皇は述べ、神はその力と無限の創造をもって、悪から善を引出すお方であると語られた。

教皇は、雛を強く育てる鷲の親の姿を描きながら、神もわたしたちを見守りながら強く育て、わたしたちが怖れに打ち勝ち、勇気をもって外へと羽ばたくことを願われていると話し、無宗教者が多いエストニアにおける福音宣教を促された。

教皇は、神がエストニアと国民を見守り、聖なる国、司祭的な民として育ててくださるように祈られた。

このミサにより、4日間にわたるバルト3国訪問を終えた教皇は、同日夜、タリン国際空港から特別機でローマに向けて発たれた。

25 9月 2018, 19:15
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エストニア:教皇「皆は一つの大きな家族」教会の支援を受ける人々に

2018年9月25日バチカン放送日本語課の記事より。

エストニア:教皇「皆は一つの大きな家族」教会の支援を受ける人々に

教皇フランシスコは、エストニア首都タリンで、カトリック教会の支援を受ける人々とお会いになった。

エストニアを訪問された教皇フランシスコは、9月25日、首都タリンのカトリックのカテドラル、聖ペトロ・聖パウロ教会に赴かれた。

聖堂内には、マザー・テレサが創立した、神の愛の宣教者会の支援を受けている、生活困窮者や、アルコール依存者、シングル・マザーなど、およそ100名が集い、同宣教者会の会員や地元カリタス関係者らと共に、教皇の訪問を歓迎した。

教皇は、夫が刑務所に入っている間、一人でたくさんの子どもを抱え、絶望的な状況の中、修道女らに助けられたという女性や、アルコール中毒との闘いの中、信仰を取り戻すことで、光が見えてきたという男性らの話に耳を傾けられた。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)というイエスの言葉を教皇は引用。

愛はわたしたちを分け隔てる鎖を断ち切り、橋を架けながら、わたしたち皆が「家」だと感じることができ、理解と尊厳を与えてくれる、一つの大きな家族づくりを可能とする、と話された。

教皇は、絆を育て、外に出て、皆にこの家族の一員となるよう呼びかけ、神の御国を伝え続けて欲しいと、教会関係者や支援を受けている人たちを励まされた。

25 9月 2018, 16:45
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エストニア:教皇、若者たちとエキュメニカルな集い「巡礼者のように共に歩こう」

2018年9月25日バチカン放送日本語課の記事より。

エストニア:教皇、若者たちとエキュメニカルな集い「巡礼者のように共に歩こう」

教皇フランシスコは、エストニアの若いキリスト教信者らとの集いを持たれた。

教皇フランシスコは、9月25日、訪問先のエストニアで、同国の若者たちとのエキュメニカルな集いを行われた。

バルト3国において、エストニアは最もカトリック人口が少なく、カトリック共同体は少数派に属する国である。

エストニアでは、無宗教の人が国民の半数以上を占め、正教会が約16%、ルーテル派が10%、カトリックは0.5%。

教皇と若者たちとの出会いは、首都タリンのカールリ・ルーテル教会で行われた。

この集いには、ルーテル教会、正教会、カトリック教会から、それぞれ若者たちが参加し、エキュメニカルな性格を持つものとなった。

教皇は若者たちへの言葉で、イエスがおられる場所では、常に刷新と回心のチャンスがあり、聖霊に味付られた生活があると語られた。

若いキリスト者たちに、教皇は「共にいることは、素晴らしいこと」と話し、巡礼者同士のように一緒に歩みながら、旅の友に信頼をもって心を開き、わたしたちが本当に求めているもの、唯一の神の御顔を前にした平和を目指し、共に進んで行こうと呼びかけられた。

そして、この道を信者同士だけでなく、すべての人たちとも対話しながら、歩んでいくようにと励まされた。

25 9月 2018, 16:19
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