月別アーカイブ: 2018年11月

[クララ]声を聞く[2018.11.30.オミリア]

《聖アンデレ使徒》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

聖アンデレ使徒:ガリラヤのベトサイダの出身。初め洗礼者ヨハネの弟子であったが、後にキリストに従い、ペトロをキリストのもとに連れて行った(ヨハネ1・40-42)。イエスにお目にかかりたいと申し出たギリシャ人の願いを、フィリポとともにイエスに取り次ぎ(同12・22)、また、イエスが五千人に食べ物を与えた奇跡の前には、わずかなパンと魚を持っている少年がそこにいることをイエスに告げた(同6・8-9)。聖霊降臨の後、多くの地方に福音を宣教し、ギリシャ南部のアカイアで十字架につけられたと伝えられたいる。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(マタイ福音書4章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「神がわたしたちの心に蒔く、新しい、聖なる願望」教皇一般謁見

2018年11月28日バチカン放送日本語課の記事より。

「神がわたしたちの心に蒔く、新しい、聖なる願望」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、モーセの「十戒」の考察のまとめを行われた。

教皇フランシスコは、バチカンで11月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この日、教皇は、モーセの「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を締めくくられた。

まとめにあたり、教皇は、キリストにおける啓示の光のもとに、「十戒」のテキストを人間の「願望」というテーマを鍵に再読しつつ、これまでの考察を振り返られた。

教皇は、わたしたちに何かを求める前に、初めにご自分から非常に多くを与えてくださる神への感謝、信頼と従順の関係の基礎にあるその感謝から、「十戒」の考察は始まる、と述べられた。

神は、わたしたちに力を及ぼす偶像崇拝の欺瞞から、わたしたちを解放するために、ご自分への従順を呼びかけられる、と教皇は話された。

実際、この世の偶像の中に人生の実現を追い求めることが、わたしたちを虚しくさせ、隷属させるのに対し、神との関係は、キリストにおいて、わたしたちを神の子としてくれる、と説かれた。

「神によって解放された人は、人生の様々な出来事を受け入れ、自分自身と和解することができる。こうして、わたしたちは、イエス・キリストによって表された神の愛から出立して、隣人との関係に入ることができる。それは忠実、寛大、正真に生きることの素晴らしさへの招きである」と教皇は語られた。

ただし、このように生きるためには「新しい心」が必要である。その「新しい心」はどのように植え付けることができるのだろうか。

教皇はこの問いに対し、神によってわたしたちの心に蒔かれた「新しい願望」の芽生えによってそれが可能となると話された。

教皇は、「十戒」はイエスによって完成させられるものと強調。

十戒」に表される人生、すなわち、感謝に満ちた、自由で、偽りのない、祝福され、成熟し、命を愛する、忠実で、寛大な人生を観想するうちに、わたしたちは気づかぬ間に、キリストの御前に立っている、と指摘された。

そして、「『十戒』とは、いわばキリストのX線写真であり、聖骸布のようにキリストの御顔を映し出すもの」、「キリストを見つめることで、わたしたちは真・善・美を見ることになる」と話された。

キリストは律法を廃するためでなく、完成するために来られたという意味がここにあると述べた教皇は、肉による律法が一連の規定や禁止であるのに対し、霊による掟は命となる、と語られた。

なぜなら、それはすでに掟ではなく、わたしたちを愛し、探し、赦し、慰めるキリストご自身の肉であり、キリストの体において、罪によって失われた御父との交わりが再び取り戻されるからである、と説明された。

こうして「十戒」の「殺してはならない」「盗んではならない」といった、「…してはならない」という否定は、「愛する」「隣人のために心を割く」といったポジティブな態度、前向きな願望へと変容することになる、と教皇は話された。

「キリストにおいてのみ、『十戒』は罪への定め(参照:ローマ8,1)となることをやめ、人間の命の正真の真理、すなわち、愛すること、喜び、平和、高潔、寛容、優しさ、誠実、温和、自制への願望となる」

「よこしまな欲望が人を破壊するのに対し、聖霊はわたしたちの心に聖なる願望を置き、それは新しい命の芽となる」

教皇はこのように説かれた。

キリスト者にとっての「十戒」とは何か。それは、わたしたちの心を開き、キリストの心、御旨、聖霊を受けるために、キリストを観想することであると、教皇は話された。

28 11月 2018, 17:12
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[クララ]不正義が裁かれる[2018.11.29.オミリア]

《年間第34木曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜(ほりょ)となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。それから、太陽と月と星に徴(しるし)が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥(おちい)る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」(ルカ福音書21章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「神の私たちへの望みを聴く勇気を持て」1月の世界青年の日へメッセージ

「カトリック・あい」のホームページより

「神の私たちへの望みを聴く勇気を持て」1月の世界青年の日へメッセージ (2018.11.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、来年1月パナマで開催される「世界青年の日大会」に向け、若者たちにビデオメッセージを発表された。

 カトリックの若者たちの祭典「世界青年の日(ワールドユースデー=WYD)大会」が来年1月、パナマで開催され、教皇フランシスコも、1月23日から27日までパナマを訪問、若者たちと共に大会行事に参加される。

 ビデオメッセージの内容以下の通り。

「親愛なる若者の皆さん

 来年1月、パナマで開催の「世界青年の日大会」が近づいています。今大会は、神の呼びかけに答えたマリアの言葉、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ福音書1章38節)をテーマにしています。

 それは、勇気ある、寛大な「はい」という言葉です。それは、自分自身から抜け出し、他の人のために奉仕するという、召命の秘密を理解した人の返事です。私たちの人生は、神と隣人への奉仕においてのみ、意味を見出すのです。

 信仰を持つ人、持たない人も、多くの若者たちが、勉強が一段落ついた時、他の人々を助けたい、苦しむ人々に何かをしてあげたいという望みを表します。これは若い人たちの力、皆さんたちの力、世界を変えることのできる力です。これはこの世の『強い権力』に打ち勝つことのできる革命、『奉仕』という革命です。

 隣人に奉仕するとは、行動への準備ができているというだけでなく、神との対話、マリアがそうであったように、耳を傾ける態度が必要です。マリアは天使の言葉に耳を傾け、それから答えました。

 心の沈黙における、神とのこの関係によって、私たちは自分のアイデンティティーと主から呼ばれた召命を知ることができます。その召命には、結婚や、奉献生活、司祭職など、様々な形があります。これらのすべてが、イエスに従う方法なのです。大切なことは、主が私たちに何を望んでおられるかを発見し、それに対して「はい」と言う勇気を持つことです。

 マリアは幸福な女性でした。なぜなら、神の御前で寛大であり、神がマリアのために用意されたご計画を受け入れたからです。神の私たちに対する提案は、マリアに対するそれと同様、夢を消すものではなく、私たちの人生が実りをもたらし、人々に微笑を与え、多くの心を明るくすることができるようにとの望みに火を灯すものです。神に対し、肯定的に答えることは、自分が幸福でいるための、そして多くの人を幸福にするための第一歩なのです。

 親愛なる若い皆さん、一人ひとりが自分の心の奥深くに分け入り、「私に何をお望みですか」と神に尋ねる勇気を持っているでしょうか。主が皆さんに語りかけるままにしてください。皆さんは自分の人生が変容し、喜びに満たされるのを見るでしょう。

 近く開催される世界青年の日・パナマ大会を前に、すべての準備行事に従い、それに参加しながら、心の備えをしてください。これらの行事は大会に向かう皆さんの歩みを助けることでしょう。おとめマリアが皆さんのこの巡礼に寄り添い、その模範が皆さんの勇気ある寛大な答えを促しますように。

 パナマに向けて、良き歩みを!そして、どうか私のために祈ることを忘れないでください。近いうちにお会いしましょう」

(編集「カトリック・あい」)

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「神のみ前に出る日を考えるのは、賢明なこと」教皇、ミサの説教で

2018年11月27日バチカン放送日本語課の記事より。

「神のみ前に出る日を考えるのは、賢明なこと」教皇、ミサの説教で

教皇フランシスコは、朝のミサで、終末について考える賢明さを祈り求めるよう招かれた。

教皇フランシスコは、11月27日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを捧げられた。

ミサの説教で、この日の第一朗読「ヨハネの黙示録」(14,14-19)を取り上げた教皇は、自分のこの世での人生の終わりと、神のみ前に出る日を考えることは賢明であり、神との出会いまでの道のりを助けてくれるもの、と話された。

「黙示録」のこの箇所で、ヨハネは世の終わりを、キリストと鋭い鎌を手にした天使による「刈り入れ」の様子として描いている、と教皇は説明。

この「刈り入れ」は、わたしたち一人ひとりが主と出会う場所であり、その時、わたしたちは、「これがわたしの人生です。これがわたしの麦です。これがわたしの人生の質です」と主に言わなければならない、と説かれた。

「もし、今日、主から呼ばれるならば、自分は何を言うだろうか、どんな麦を見せるだろうか」と、終わりについて考えることは有意義なことと教皇は強調。

その考えはわたしたちを立ち止まらせず、むしろ前進させ、愛徳や希望を育ませるだろう、と話された。

「人生には終わりがあるが、そこには一つの出会い、主との出会いがある。それは、いつくしみと、喜び、幸福との出会いである」と述べた教皇は、自分の人生の終わりを考える賢明さを聖霊に祈り求めるよう招かれた。

27 11月 2018, 17:13
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「愛の上に築かれる神の王国」教皇、日曜の集いで

2018年11月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「愛の上に築かれる神の王国」教皇、日曜の集いで

カトリック教会は、この一年の典礼暦における最後の日曜日、「王であるキリスト」を祝った。

教皇フランシスコは、11月25日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

この日、ローマは朝から雨が降り続いたが、バチカンの聖ペトロ広場には、教皇の言葉に耳を傾け、祝福を受けようとする巡礼者たちの傘が広がった。

同日、カトリック教会の典礼暦は、一年の周期における最後の日曜日、「王であるキリスト」を祝った。

こうして、典礼暦は、来週の日曜日から、降誕祭を準備する期間「待降節」を迎えると共に、新たな一年に入る。

集いの説教で、教皇は、典礼暦の終わりに置かれた「王であるキリスト」の祭日は、被造物の命は偶然にまかせて生きているのではなく、歴史とすべての被造物の主である、キリストの再臨という終着点に向かって進んでいることを思い出させる、と話された。

教皇はこの日の福音朗読箇所、ヨハネ福音書(18,33b-37)の、ゲツセマネで逮捕されたイエスが、大祭司の尋問の後、ローマ総督ピラトの前に連れて行かれ、そこで尋問される場面を観想された。

この場面で、イエスは、ピラトから、おまえはユダヤ人の「王」なのか(参照:ヨハネ 18,33b.37)と二度にわたり尋ねられる。これに対しイエスは、「わたしの国は、この世には属していない」(同18,36)と最初に言い、そして「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(同18,37)と答えられた。

教皇は、イエスがその生涯を通して政治的野心を持っていなかったことは明らかであると指摘。

たとえばパンを増やす奇跡の後、人々が奇跡に熱狂している時に、イエスはローマの支配を覆し、イスラエルの王国を再興する「王」と名乗ることもできたが、イエスにとっての王国は別のものであるがために、祈るためにひとり山に退かれたことを思い起こされた。

イエスは、政治権力以上に、人間の力ではたどり着けない、より偉大な力があることを理解させようとしておられる、と教皇は話された。

「イエスは、真理を証ししながら、この愛という力を行使するためにこの世に来られた」と述べた教皇は、神のその真理とは、すなわち、「神は愛であり、この世に愛と正義と平和のご自身の王国を築きたいと願われている」という福音の本質的メッセージである、と説明された。

「イエスが王であるこの王国は、時の果てまで広がる。これに対し、武力や不正の上に築かれた王国は儚く、いつかは崩れる。しかし、愛の上に築かれ、心に根差した神の王国は、それを受け入れる人に平和と自由、満ち満てる命を与える」と、教皇は述べられた。

そして、「今日、イエスはご自分をわたしたちの王にするようにと招いておられる。御言葉と模範、十字架上で捧げたご自身の命をもって、わたしたちを死から救われたその王は、迷える人間に道を示し、疑念や、恐れ、日々の試練に苦しむわたしたちの人生に新しい光をもたらしてくださる」と語られた。

また、教皇は、イエスの王国はこの世に属していないことを忘れてはならないとも述べ、わたしたちがこの世とその権力者たちの論理に加わることがないならば、イエスはわたしたちの人生に新しい意味を与えてくれるだろう、と説かれた。

教皇は、わたしたちがイエスを自分たちの人生の王として迎え、愛という真理を証ししながら、その御国を広めることができるようにと、聖母の助けを祈られた。

25 11月 2018, 17:38
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[クララ]神の言葉への信頼[2018.11.28.オミリア]

《年間第34水曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[2分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切らせる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ福音書21章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]世の終わり[2018.11.27.オミリア]

《年間第34火曜日》聖クララ修道会聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことが先ず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現われる。」(ルカ福音書21章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]「王であるキリスト」(年間最終主日)ミサ説教(2018.11.25.)

《「王であるキリスト」(年間最終主日)》小郡教会聖堂で11時から行われたミサの説教[18分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】全能永遠の神よ、あなたはキリストを死者の中から復活させ、いつくしみ深く万物を治める王としてくださいました。招きにこたえて一つに集まるわたしたちを導き、神の国のために働く力を授けてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【答唱詩編】神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。

神は王。栄光に満ち、偉大な力を身に帯びておられる。神は世界をゆるぎなく建て、とこしえに王座をすえ、永遠に座しておられる。/潮の流れは声をあげる。潮の流れはどよめきの声をあげる。とどろく海、さかまく波にまさり、すべてを越える神は力強い。/神よ、あなたのことばは変わることなく、あなたの家はとこしえにとうとい。栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。(詩編93)

【福音】[そのとき、ピラトはイエスに、]「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトとは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。一体何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[鳥栖]「王であるキリスト」(年間最終主日)ミサ説教(2018.11.25.)

《「王であるキリスト」(年間最終主日)》鳥栖教会聖堂で8時30分から行われたミサの説教[10分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【集会祈願】全能永遠の神よ、あなたはキリストを死者の中から復活させ、いつくしみ深く万物を治める王としてくださいました。招きにこたえて一つに集まるわたしたちを導き、神の国のために働く力を授けてください。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【答唱詩編】神のいつくしみをとこしえに歌い、主のまことを代々に告げよう。

神は王。栄光に満ち、偉大な力を身に帯びておられる。神は世界をゆるぎなく建て、とこしえに王座をすえ、永遠に座しておられる。/潮の流れは声をあげる。潮の流れはどよめきの声をあげる。とどろく海、さかまく波にまさり、すべてを越える神は力強い。/神よ、あなたのことばは変わることなく、あなたの家はとこしえにとうとい。栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン。(詩編93)

【福音】[そのとき、ピラトはイエスに、]「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトとは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。一体何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ福音書18章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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