月別アーカイブ: 2019年6月

教皇「聖ペトロ・聖パウロのように、キリストの生きた証人となろう」

2019年6月29日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「聖ペトロ・聖パウロのように、キリストの生きた証人となろう」

教皇フランシスコは、使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日のミサを捧げられた。

カトリック教会の典礼暦は、6月29日(土)「使徒聖ペトロ・聖パウロ」の祭日を迎えた。

教会を支える2本の柱であると同時に、ローマの保護者である、使徒聖ペトロと聖パウロを祝うこの日、教皇フランシスコは最近任命された31人の首都大司教らと共にバチカンの聖ペトロ大聖堂でミサを捧げられた。

教皇はミサの前半、これらの首都大司教たちに託すパリウムを祝別された。

パリウムは、白い毛織物で作られた細長い肩掛けで、6箇所に黒い絹糸で十字架が刺繍されている。中心部が輪状になっており、その部分に首を通し、祭服の上に垂らす。パリウムを肩にかけることは、迷った子羊を背負う「善い羊飼い」の姿を象徴している。

このミサには、正教会のエキュメニカル総主教庁の使節が参列した。エキュメニカル総主教庁は使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日にバチカンに使節を派遣、これに対し、バチカンは聖アンデレの祭日に同総主教庁に使節を送るのが毎年の慣わしとなっている。

ミサの説教で教皇は、聖ペトロと聖パウロの、聖地からローマまでの歩み、疲れを知らぬその宣教生活を思い起こされた。

そして、ここローマで殉教するまで、キリスト者としての証しを続けた両聖人を、「人生の証人」、「赦しの証人」、「イエスの証人」として示された。

イエスの最初の弟子となったペトロ、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心だった」(ガラテヤ1,14)パウロは、その宗教的熱意にも関わらず、ペトロはイエスを否定するに至り、パウロは神の教会を迫害するという大きな過ちを犯すことになった、と教皇は振り返った。

「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21,15)というイエスの問いに苦しみ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9,4)というイエスの声によって目が見えなくなったパウロは、回心の人生の証人であったと共に、主の赦しによってその弱さから立ち直った「赦しの証人」でもあった、と話された。

また、ペトロとパウロは、何よりも「イエスの証人」であった、と教皇は強調。

「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねたイエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16,16)と答えたペトロ、「わたしにとって、生きるとはキリストである」(フィリピ1,21)と記したパウロの、キリストにおける信仰の証しを見つめられた。

イエスがペトロに向けた「わたしを何者だと言うのか」「わたしを愛しているか」という問いを、自分自身の心に響かせるよう教皇は招きながら、イエスと出会い、赦しを体験し、自分をくまなく捧げた両聖人のように、わたしたちもイエスの生きた証人となれるようにと祈られた。

29 6月 2019, 16:17
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使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日:教皇、イエスの教会に対する大きな愛を強調

2019年6月29日バチカン放送日本語課の記事より。

使徒聖ペトロ・聖パウロ祭日:教皇、イエスの教会に対する大きな愛を強調

使徒聖ペトロ・聖パウロの祭日、教皇フランシスコは、正午の祈りを信者と共に唱えられた。

教皇フランシスコは、6月29日(土)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

このところヨーロッパ各地で厳しい暑さが続いているが、ローマの保護聖人、使徒聖ペトロ・聖パウロを祝ったこの日、バチカンには多くの巡礼者が訪れた。聖ペトロ広場の前には、この日のために、花びらを絨毯状に敷き詰める「インフィオラータ」が作られ、人々の目を楽しませた。

祈りの前の説教で、教皇は、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16,18)という、イエスがペトロに向けた言葉を観想された。

ここではイエスが初めて「教会」という言葉を使っているのみならず、「わたしの教会」と、表現していることに注目。ここにイエスが教会に対して育む大きな愛を読み取られた。

また、「キリストは教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(エフェソ5,25)というパウロの言葉を引用した教皇は、イエスは教会をご自分の花嫁として愛される、と話された。

教皇は、イエスは優しい眼差しで教会を見つめ、今日もわたしたちに「あなたがたは、わたしの教会」であると呼びかけておられる、と語られた。

29 6月 2019, 19:42
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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.6.29.〜2019.7.14.)

★7月から9月までの主日ミサ時間は以下のとおりです。前晩(土曜日の夜)の主日ミサは毎週、小郡教会19時30分からです。

★小郡教会8時30分〜  ★鳥栖教会11時〜

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

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[クララ]ペトロの後継者[2019.6.29.オミリア]

《聖ペトロ 聖パウロ使徒》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

*聖ペトロ 聖パウロ使徒:初代教会の中心的な指導者である二人の使徒を祝うこの祭日についての最古の記録は、二五七年に書かれたものである。使徒の頭であるペトロは、エルサレムをはじめ広く宣教活動を行った。また、初めはイエスの弟子たちを迫害していたパウロは復活したキリストと出会って回心し、異邦人の使徒としてキリストの教えを宣べ伝えた。二人は異なる使命を与えられていたが、「キリストのもとに人々を一つに集め、信仰のあかしのためにともにいのちをささげ」(きょうのミサの叙唱)、ネロ皇帝による迫害の時代(六〇年代半ば)にローマで殉教した。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授(さず)ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ福音書16章)

本田哲郎訳: イエスは、フィリポ・カイサリア地方にやって来たとき、弟子たちにたずねた。「人々は、人の子のことを何と言っているのか」。弟子たちは言った。「沈めの式を行なうヨハネだと言う人もいれば、エリアだと言う人もいます。また、エレミヤだとか預言者の一人だと言う人もいます」。イエスが弟子たちに、「あなたたちは、わたしをだれだと言うのか」とたずねると、シモン・ペトロがこたえて、「あなたは『キリスト』、生きておられる神の子です」と言った。すると、イエスはペトロに言った。「ヨナの子シモン、あなたには神からの力がある。あなたにこのことをあらわしたのは、血肉(ちにく)ではなく、天におられるわたしの父だからだ」。「わたしもあなたに言っておく。あなたはペトロ(岩)だ。この岩盤まで掘り下げてわたしの民の集い(教会)をきずく。そうすれば、地獄の力もこの民の集いには対抗できない。あなたに天の国の鍵をわたそう。あなたが地上でしばることは天においてもしばられることになり、あなたが地上で解くことは天においても解かれることになる」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「貧困と飢餓の撲滅のために努力の継続を」教皇、FAO総会参加者に

2019年6月27日バチカン放送日本語課の記事より。

「貧困と飢餓の撲滅のために努力の継続を」教皇、FAO総会参加者に

教皇フランシスコは、国連食糧農業機関(FAO)の総会参加者に挨拶をおくられた。

教皇フランシスコは、バチカンで6月27日、国連食糧農業機関(FAO、本部:ローマ)の第41回総会の参加者らとお会いになった。

この集いで教皇は、間もなく任期を満了するジョゼ・グラツィアーノ・ダ・シルバFAO事務局長と、8月1日より次期事務局長に就任する屈冬玉氏をはじめとする関係者らに挨拶をおくられた。        

教皇は、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の目標1と2にある、貧困と飢餓の撲滅のために、皆の一致した努力の継続を願われた。

世界の「飢餓ゼロ」の目標は、ここ数十年の進歩はあるものの、未だに大きな挑戦である、と教皇は話された。

食料や水の不足と闘うには、その原因に対して行動しなくてはならないと述べつつ、教皇はこの悲劇の根源として、多くの人々の憐みの心の欠如や無関心、国際的義務に応える政治・社会における意志の希薄さを指摘された。

教皇は、食料と水の不足は貧しい国々の国内問題に留まらず、わたしたち一人ひとりの態度にもかかっており、それによって兄弟たちの苦しみを和らげるか、増すかを左右することになる、と強調。

わたしたちは皆、兄弟たちの悲痛な叫びに耳を傾け、彼らが基本的権利の保証のもとに生活できるよう、あらゆる対策を講じなくてはならない、と呼びかけられた。

そして、教皇は、わたしたちが実践できることの一つとして、食べ物や水の無駄を減らすことを挙げられた。

また、環境破壊と食糧不安が移民現象に与える影響を見つめられた教皇は、貧しい地域の農業の発達を、技術改良だけでなく、連帯精神に満ちた新たな政治理念をもって支援していく必要をアピールされた。

27 6月 2019, 17:02
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[クララ]イエスの心、イエスの想い[2019.6.28.オミリア]

《イエスのみ心》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

*明日29日は《聖ペトロ 聖パウロ使徒》の祭日です。朝6時30分から修道院でミサがあります。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自(みずか)ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちじぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲(みつうん)の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場(まきば)となる。彼らはイスラエルの山々で憩(いこ)い、良い牧場(まきば)と肥沃(ひよく)な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩(いこ)わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋(たず)ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥(こ)えたものと強いものを滅(ほろ)ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。(エゼキエル34章)

【答唱詩編】主はわれらの牧者、わたしは乏しいことがない。

神はわたしを緑のまきばに伏させ、いこいの水辺に伴われる。神はわたしを生き返らせ、いつくしみによって 正しい道にみちびかれる。/たとえ死の陰の谷を歩んでも、わたしはわざわいを恐れない。あなたがわたしとともにおられ、そのむちとつえはわたしをまもる。

【第二朗読】[皆さん、]わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれてい[ます。]実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心(ふしんじん)な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人にために命を惜(お)しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子(おんこ)の死によって神と和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらのことです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇(ほこ)りにしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(ローマ5章)

【アレルヤ唱】アレルヤ、アレルヤ。わたしはよい牧者。わたしは羊を知り、羊はわたしを知っている。アレルヤ、アレルヤ。(ヨハネ10章)

【福音】[そのとき、イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちにに]次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担(かつ)いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ福音書15章)

本田哲郎訳: さて、収税人(しゅうぜいにん)や道をふみはずした者たちはみな、イエスの話を聞こうとそばにやって来た。すると、ファリサイ派の人たちと律法学者たちはぶつぶつ言いだし、「こいつは道をふみはずした連中を迎え入れて、食事をいっしょにしている」と言った。するとイエスは、その人たちにつぎのたとえを話した。「あなたがたの中で、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹がいなくなったら、その人は九十九匹を荒れ野にのこして、いなくなった羊のあとを、見つけるまで追っていかないだろうか。見つけたら、喜んでその羊を肩にのせ、家にかえると友だちや近所の人たちを呼んで、『喜んでくれ、いなくなった羊を見つけた』と言うだろう。言っておくが、ちょうどそのように、天においては、低みに立って見直している一人の道をふみはずした者のことを、低みからの見直しの必要を感じていない九十九人のまっとうな人たちのことよりも、喜ぶのだ」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「使徒言行録」に見るキリスト教共同体の原型、教皇一般謁見

2019年6月26日バチカン放送日本語課の記事より。

「使徒言行録」に見るキリスト教共同体の原型、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、「使徒言行録」に記される初期のキリスト教共同体の姿を考察された。

教皇フランシスコは、バチカンで6月26日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

ローマはここ数日猛暑に見舞われている。このため一般謁見は、主会場である聖ペトロ広場と、病者やお年寄りのためのパウロ6世ホールの、2か所に分かれて行われた。

6月最後となったこの一般謁見の後、7月の一か月間は謁見は行われず、8月から再び開催される。

この謁見で、教皇は「使徒言行録」をテキストとするカテケーシス(教会の教えの解説)を進めながら、神への愛と兄弟愛を生きる初期キリスト教共同体の姿を考察された。

福音記者ルカは、「使徒言行録」において、エルサレムの教会をあらゆるキリスト教共同体の原型として示し、わたしたちを惹きつけてやまない兄弟愛に基づくその生活を語っている、と教皇は強調。

実際、「使徒言行録」からは、初期のキリスト者たちの「神の家族」としての生活、すなわち、キリストにおける兄弟姉妹たちの愛のもとに一致した生き方が垣間見えてくる、と話された。

それは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心」(使徒言行録2,42)な生き方であり、使徒の教えに真剣に耳を傾け、霊的・物的に持っているものを分かち合い、パンを裂くことで主の記念を行い、祈りにおいて神と対話することであったと教皇は振り返った。

自分の利害を優先させる人間社会と異なり、信者たちの共同体は、分かち合いと連帯を育むために個人中心主義を排除していたと教皇は述べ、キリスト者の魂にはエゴイズムが入る余地があってはならない、と話された。

教皇は、福音記者ルカが、信者たちが共に生活していたことに触れている点(同2,44)を挙げ、助け合うために、寄り添い、一致し、互いを思いやる生き方を、キリスト者のあるべき姿として示された。

また、洗礼の恵みは、分かち合い、他人の立場になって考え、「おのおのの必要に応じて」(同2,45)与えるよう招く、キリストにおける兄弟としての絆を目に見えるものにする、と教皇は述べたほか、「使徒言行録」は「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(2,47)と記しているように、主が共同体の成長を保証されていることを指摘された。

教皇は、わたしたちの共同体が、新たな生き方、連帯、分かち合いを受け入れ、実践し、典礼が神との出会いとなり、天上のエルサレムへの扉が開く場所となるようにと、聖霊に祈られた。

26 6月 2019, 16:54
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[クララ]全然知らない[2019.6.27.オミリア]

《年間第12木曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働くものども、わたしから離れ去れ。』そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢(かしこ)い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲(おそ)っても、倒(たお)れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚(おろ)かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲(おそ)いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威(けんい)ある者としてお教えになったからである。」(マタイ福音書7章)

本田哲郎訳: 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国にはいるわけではない。天におられるわたしの父の思いを行う者が、入るのである。かの日には、おおぜいの者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名をつかって預言し、あなたの名をつかって悪霊を追い出し、あなたの名をつかって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき、わたしはきっぱりと言おう。『わたしは、おまえたちをまったく知らない。したいほうだいにふるまう者、わたしからはなれて行け』」。「だから、わたしが身をもって語るできごとを耳にして、それを実行する人はみな、岩盤(がんばん)まで掘り下げて自分の家を建てた感性のある人のようだ。雨が降って川がおしよせ、風が吹きあれてその家に打ちあたったが、たおれることはなかった。岩盤まで掘り下げて土台をすえていたからである。わたしが身をもって示すこういうことを耳にしても、それを実行しない人はみな、砂地(すなじ)に自分の家を建てた感性のにぶい人のようだ。雨がふって川がおしよせ、風が吹きあれてその家に打ちあたると、たおれてしまった。しかも、そのたおれかたはひどかった」。イエスがこれらのことを身をもって示しおえたとき、民衆はそのときあかしにすっかり打たれた。イエスが、律法学者のようにではなく、権威(けんい)をもって真実をときあかしたからである。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]実で見分ける[2019.6.26.オミリア]

《年間第12水曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[2分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ福音書7章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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コルプス・ドミニ:教皇、ローマ郊外の小教区でミサと聖体行列

2019年6月24日バチカン放送日本語課の記事より。

コルプス・ドミニ:教皇、ローマ郊外の小教区でミサと聖体行列

教皇フランシスコは、キリストの聖体の祭日のミサと聖体行列を、ローマ郊外の小教区でとり行われた。

教皇フランシスコは、6月23日(日)午後、ローマ市東部カサル・ベルトーネ地区の小教区を訪問し、キリストの聖体の祭日のミサと聖体行列、聖体降福式をとり行われた。

この日、イタリアのカトリック教会は「キリストの聖体(コルプス・ドミニ)」の祭日を祝った。

「キリストの聖体」の祭日は、三位一体の主日の直後の木曜日に祝われるが、イタリアや日本をはじめ、多くの国のカトリック教会では、信者らのミサへの参加に配慮して、三位一体の主日の次の日曜日に記念する。

コルプス・ドミニの宗教行事のために教皇が訪問したカサル・ベルトーネ地区は、いくつかの幹線道路や鉄道駅に近く、かつて多くの工場が周囲に進出したことから、1920年代に開発が進められた。

同地区の小教区が置かれるサンタ・マリア・コンソラトリーチェ(慰めの聖母)教会は、1945年に完成した。

カサル・ベルトーネに到着し、住民たちの熱心な歓迎を受けられた教皇は、同教会前の広場でミサを司式された。

説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、イエスのパンと魚の奇跡(ルカ9,11b-17)を観想された。

「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9,16)。

教皇はここに、「祝福し」「与える」という、キリスト者が持つべき2つの態度を見出された。

イエスは5つのパンを祝福することで、それらを増やし、滝のような善を湧き出させた、と述べた教皇は、祝福とは言葉を贈り物に変えることであり、祝福をする時、それは自分のためでなく、人のために愛をもって何かをするのである、と話された。

また、イエスは賛美の祈りを唱えた後、パンを与えるが、ここでは「裂いて」「渡して」「配らせた」とあることに教皇は注目。ここで強調されているのは、「増やす」ことではなく、「分かち合う」ことである、と説かれた。

教皇は、イエスは魔法で5つのパンを5千に増やして、それを配るように命じたのではなく、賛美の祈りを唱え、御父とその御摂理に信頼してパンを裂き始めると、そのパンは尽きることがなかった、ということであると強調された。

世の中は常に儲けを増やすことを求めているが、その目的は与えることにあるのか、所有することにあるのか、と教皇は問い、「福音の経済」は、分かち合いながら増やし、配りながら満腹するものである、と話された。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9,13)と、イエスが弟子たちに命じた言葉は、自分たちが持っているものを人に与えることで、実りがもたらされると教えている、と述べた教皇は、それが多いか少ないかは重要ではなく、主は、5つのパンのような、わたしたちの小ささから、偉大な業を行われる、と語られた。

聖体が教えることは、一片の小さなパンの中に神がおられ、そのパンは裂かれ、分かち合われるということ、そして、聖体を受け取るとは、神の考え方がわたしたちに伝わるということ、教皇は話し、それは、「わたしは関係ない」「時間がない」といって顔をそむける態度への特効薬になるだろう、と説かれた。

ミサの後、地区の家々の間を聖体行列が練り歩いた。

教皇は最後に、聖体顕示台を掲げて、人々に祝福を与えられた。

24 6月 2019, 17:24
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