月別アーカイブ: 2019年8月

[小郡]年間第22主日前晩:被造物を大切にする世界祈願日[2019.8.31.]

《年間第22主日前晩:被造物を大切にする世界祈願日》小郡教会で19時30分から行われたミサ典礼における説教[12分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

 

 

 

【福音】安息日(あんそくび)のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴(こんえん)に招待(しょうたい)されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招(まね)かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲(ゆず)ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥(はじ)をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目(めんぼく)を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催(もよお)すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカによる福音14章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡][鳥栖]ミサ時間と場所(2019.8.31.〜2019.9.15.)

9月までの主日ミサ時間は以下のとおりです。前晩(土曜日の夜)の主日ミサは毎週、小郡教会19時30分からです。

★小郡教会8時30分〜  ★鳥栖教会11時〜

9月1日(日)は《被造物を大切にする世界祈願日》です。今年はこの日から10月4日(金)のアシジの聖フランシスコの記念日まで《被造物の季節》にすると教皇フランシスコは先日発表されました。鳥栖教会の11時からのミサは「子どもとともにささげるミサ」です。《全被造物のためのミサ》です。子どもたちが地球環境を大切にする決意を表明し、具体的な対策を発表します。大人の皆さんもご協力ください。

9月22日(日)の8時30分の小郡教会の主日ミサは幼稚園の運動会のためありません。鳥栖教会の11時のミサは青木悟神父が司式します。前日21日(土)小郡での19時30分の主日前晩のミサはあります。

主日のミサは生活の力になります。月に一度でも参加できるようにスケジュールを調整してください。み言葉とご聖体の食卓に神が呼んでくださってます。

平日のミサは通常、火曜日から金曜日まで聖クララ修道院で6時30分からしています。ゆっくり静かに捧げられるミサです。自由に参加できます。ミサが無い場合も時としてあります。毎週のお知らせを参照してください。

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教皇、モザンビーク訪問前にメッセージ

2019年8月30日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、モザンビーク訪問前にメッセージ

教皇フランシスコは、間もなく行われるモザンビーク訪問を前に、同国の国民に向けビデオメッセージをおくられた。

教皇は、9月4日から10日まで、モザンビーク、マダガスカル、モーリシャスの3国を歴訪される。

このうち、最初の訪問国となるモザンビークでは、首都マプトに現地時間の9月4日(水)午後から、6日(金)正午過ぎまで滞在される。

ビデオを通し、訪問前の挨拶をおくられた教皇は、モザンビーク国民にご自身の祈りを伝えると共に、人々との出会いに期待を述べられた。

教皇は、同国の大統領と司教団からの招きに応えるこの訪問で、「恒久平和のための唯一の希望」である、「モザンビークとアフリカ全土における兄弟的和解」を強めてくださるよう、皆の御父である神に祈りたい、と話した。

同時に、教皇はこの訪問を、「聖ヨハネ・パウロ2世がかつて同国を訪れた際に蒔かれた種の成長を共に確信し、見届け、その喜びを分かち合う」機会として示された。

教皇は、この旅で、カトリック共同体と出会い、その福音の証しを励ますことになるだろうと述べつつ、「福音はすべての人が持っている尊厳を教え、貧しく助けを必要とする人々をはじめ、他者にわたしたちの心を開くようにと招いている」と語られた。

皆の祈りはもとより、ご自身の訪問のための準備に携わる人々に心からの感謝を述べた教皇は、モザンビークに神の祝福と、聖母マリアの保護を祈られた。

30 8月 2019, 11:09
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[クララ]その日、その時[2019.8.30.オミリア]

《年間第21金曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿(はなむこ)を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚(おろ)かで、五人は賢(かしこ)かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷(つぼ)に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気(ねむけ)がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整(ととの)えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたちたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ福音書25章)

*本田哲郎訳:「天の国は、ともし火をもって花婿を迎えに出た、十人のおとめたちにたとえられる。そのうち、五人は感性のにぶいおとめたちで、五人は感性あるおとめたちだった。感性のにぶいおとめたちは、ともし火はもったが油を用意しなかった。感性あるおとめたちは、ともし人といっしょに油のつぼを用意した。さて、花婿がおそくなって、みな眠気(ねむけ)をもよおし、眠りこんでしまった。真夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』という呼び声があがった。おとめたちはみな起きて、それぞれ自分のともし火をととのえた。そのときになって、感性のにぶいおとめたちは感性あるおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火が消えてしまいます』。感性あるおとめたちは、『わたしたちみんなのためには、どうしても足りません。それより、商(あきな)いしている人たちのところへ行って、お買いなさい』と答えた。おとめたちが買いに行っているあいだに、花婿は到着した。そして、用意のできていたおとめたちは、花婿といっしょに婚宴の会場に入り、戸が閉められた。あとになって、ほかのおとめたちも来て、『主よ、主よ、開けて下さい』と言った。すると、主人は言った。『はっきり言うが、わたしはおまえたちを知らない』。だから、目を覚ましていなさい。あなたたちは、その日、その時を知らないからだ」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]人を踏み台にして[2019.8.29.オミリア]

《洗礼者聖ヨハネの殉教》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[5分]を聴くことができます。

*洗礼者聖ヨハネ:洗礼者ヨハネの殉教は、エルサレムではすでに五世紀に記念されていた。サマリアのセバステで、主の先駆者であった彼にささげられた教会堂の記念日がこの日に当たると思われる。洗礼者ヨハネの殉教の記念は、六、七世紀には、「洗礼者聖ヨハネの受難(斬首)」という名称で西方でも東方でも広く祝われていた。その誕生においても死においてもキリストの先駆けとなった(きょうのミサの集会祈願)洗礼者ヨハネの生涯を思い起こす記念日である。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨(うら)み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑(とうわく)しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催(もよお)すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓(ちか)ったのである。少女が座を外(はず)して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速(さっそく)、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐ洗礼者ヨハネの首を盆に載(の)せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退(しりぞ)けたくなかった。そこで、王は衛兵(えいへい)を遣(つか)わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。(マルコ福音書6章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「病者の傷の中に、常にイエスがおられる」教皇、一般謁見で

2019年8月28日バチカン放送日本語課の記事より。

「病者の傷の中に、常にイエスがおられる」教皇、一般謁見で

教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇フランシスコは、バチカンで8月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

ローマでは、まだ暑さが続くものの、9月の訪れを前に、朝夕が次第に過ごしやすくなっている。しばらくパウロ6世ホールで行われていた謁見も、この日は久しぶりに聖ペトロ広場で開催された。

教皇は謁見中、「使徒言行録」をテキストに、カテケーシス(教会の教えの解説)を進められた。

この日、教皇は、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業が民衆の間で行われた。…人々は病人を通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした…一人残らずいやしてもらった。」(使徒言行録5,12.15-16)という箇所を考察された。

教皇は「使徒言行録」の5章で、初期の教会が、最も弱い人々、病者たちを受け入れる「野戦病院」としての姿を見せていることを指摘された。

病者たちの苦しみは使徒たちの心を動かし、あらゆる時代のキリスト者と同じように、彼らの目に、病者たちは神の御国の福音において最も優先される人々と映った、と教皇は話された。

ペトロは担架に近寄り、病人たちの間を歩いたが、その姿は言葉と存在を通して、生き、働くキリストを映し出すものであった。

ペトロは師イエスの業を行う者であり、人々は信仰をもって、その中にキリスト自身を見ていた。ペトロがただ彼らのそばを通るだけで、その影は癒しとなり、病者に向けて身をかがめ、命と救いと尊厳を再び取り戻させたイエスの優しさを伝えていた、と教皇は語った。

教皇は、病者の傷の中には、常にイエスがおられ、わたしたちがこれらの病者たちを支え、癒すようにとわたしたちを呼ばれる、と話された。

ペトロの癒しの行為は、サドカイ派の人々の憎しみと妬みを招き、使徒たちは捕えられ牢に入れられたが、夜中に主の天使によって外に連れ出された。使徒たちの不思議な解放に驚いた彼らは、使徒たちがイエスの名によって教えることを禁じようとした。

最高法院の中に立たせられたペトロが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(同5,29)と言ったその答えを、教皇はキリスト者の生き方の鍵として示された。

そして、教皇は、沈黙を命じる者、誹謗する者を前に、ひるまない剛毅と、キリストの存在をそばに確信する内面の力をわたしたちが持てるよう、聖霊の助けを祈られた。

28 8月 2019, 17:39
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[クララ]回心、環境的回心[2019.8.28.オミリア]

《年間第21水曜日:聖アウグスチヌス》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[12分]を聴くことができます。

*聖アウグスチヌス:三五四年、アフリカのタガステに生まれる。若いときに放蕩生活を送り、マニ教に入ったが、ついに回心しえカトリック信仰を受け入れ、三八七年にミラノでアンブロジオ司教から洗礼を授けられた。祖国に帰った後、修道生活を送り、やがてヒッポの司教に選ばれた。以後三十四年間、模範的司牧者として説教と多くの著作によって教区民を教え導き、当時の誤謬に対しては勇敢に争い、深遠な学識をもってキリスト教を解説した。四三〇年に死去。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】兄弟たち、わたしたちの労苦(ろうく)と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔(けいけん)に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心(みこころ)にそって歩むように励(はげ)まし、慰(なぐさ)め、強く勧(すす)めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。(1テサロニケ2章)

【福音】[そのとき、イエスは言われた。]「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚(けが)れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善(ぎぜん)と不法で満ちている。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑(きねんひ)を飾(かざ)ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側(がわ)にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」(マタイ福音書23章)

*本田哲郎訳:律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは白くぬった墓のようなものだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨とあらゆるけがれでみちている。このように、あなたたちも、外側は正しい道をあゆむ人のように見えるが、内側は偽善とわがままにみちている。律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは預言者の墓をたて、解放をこころざした人たちの記念碑を建てて、『もし、われわれが父祖の時代に生まれていたら、預言者たちの血で自分をけがす側には立たなかっただろう』と言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを証明している。あなたたちも父祖の升目(ますめ)をみたしていけばいい。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、UAEの世界平和のための共同文書めぐる委員会設立に喜び

2019年8月26日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、UAEの世界平和のための共同文書めぐる委員会設立に喜び

教皇フランシスコは、アラブ首長国連邦において、共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」の目標実現のための委員会が設立されたことに喜びを表された。

教皇フランシスコは、今年2月のアラブ首長国連邦訪問の際に署名された共同文書の目標実現をめざす高等委員会が、同国に設立されたことに、喜びを表された。

共同文書「世界平和のための人類の兄弟愛」は、2019年2月4日、アブダビで開催された諸宗教の集いにおいて、教皇フランシスコとアル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師によって署名された。

アラブ首長国連邦は、この共同文書の内容の実現を目指すための高等委員会を設置したことを、先日発表した。

バチカンのマテオ・ブルーニ広報局長は、教皇フランシスコは、この高等委員会設立の知らせを喜びをもって受け取られた、と述べた。

そして、「しばしば悪や憎しみ、分裂がニュースとなることが多い中、隠された、大海のような多くの善があり、それが育っているということは、対話や、相互理解、宗教の異なる人々とすべての善意の人々による兄弟愛と平和の世界の構築に、希望を抱かせるものです」という、教皇の言葉を伝えた。

同広報局長は、教皇はこの文書を普及させるための委員会の仕事を励ますと共に、人類の兄弟愛を実現するためのアラブ首長国連邦の具体的な努力に感謝され、このような率先した取り組みが世界に広がることを望んでおられる、と述べた。

26 8月 2019, 18:28
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教皇「主がご覧になるのは、肩書きではなく、謙遜で善良な人生」

2019年8月25日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「主がご覧になるのは、肩書きではなく、謙遜で善良な人生」

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉を観想された。

教皇フランシスコは、バチカンで8月25日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

この集いで教皇は、イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13,24)という教えをテーマに説教された。

同日の福音朗読箇所(ルカ13,22-30)では、イエスが町や村を巡り教えながら、エルサレムへと向かっていると、ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(同13,23)と尋ねられる場面が描かれる。

この問いに対してイエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(同13,24)と答えられた。

教皇は、ここでイエスは、「救われる者は少ないのか」という数の問題を、どう生きるべきか、という責任の問題のレベルに置き替え、今をよりよく生きるようにわたしたちを招いている、と指摘。

イエスはこの言葉を通し、救われるのは数の問題ではない、すなわち、天国には定員はないが、正しい戸口から入ることが大切であり、それは皆に開かれているが、狭い戸口であると教えている、と説明された。

では、「狭い戸口」とはどういう意味か。それは、救われるためには、神と隣人を愛し、福音に従って生きる覚悟、努力を必要とする、という意味である、と教皇は述べた。

教皇は、イエスがこの後、よりよい理解のために、「戸口」をイメージしたたとえを次のように語っていることに注目。

「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者かしらない』という答えが返ってくるだけである」(同13,25)

教皇は、このたとえの中で、「家の主人」は主を、その「家」とは永遠の命、救いを表している、と述べられた。

たとえでは、主人から閉めだされた人々が、一緒に食べたこと、広場で教えを受けたことを思い出させようとしても、主人は『不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』(同13,27)と厳しい言葉をかける。

これについて教皇は、主がご覧になるのは、わたしたちの肩書きではなく、謙遜で善良な人生、信仰を行いで表した生き方である、と話された。

そして、教皇は、「天国の門」と呼ばれる聖母マリアを観想。マリアが「天国の門」と言われるのは、イエスを心から迎え入れ、理解できない時も、魂を剣で貫かれるような時も、毎日の人生をイエスに従い、イエスという「狭い戸口」を通ったからである、と説かれた。

25 8月 2019, 15:16
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[クララ]福音を伝える者の姿[2019.8.27.オミリア]

《年間第21火曜日:聖モニカ》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[9分]を聴くことができます。

*聖モニカ:三三一年、アフリカのタガステでキリスト信者の家庭に生まれる。若くしてパトリキウスに嫁いで子をもうけた。そのうちの一人がアウグスチヌスである。モニカは涙を流して、アウグスチヌスの回心を神に祈った。よき母の模範として、彼女は祈りによって信仰をはぐくみ、徳に満ちた行いを通して信仰を証しした。三八七年にオスチアで死去。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【第一朗読】兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄(むだ)ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱(はずかし)められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘(くとう)の中であなたがたに神の福音(ふくいん)を語ったのでした。わたしたちの宣教(せんきょう)は、迷(まよ)いや不純な動機に基(もと)づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味(ぎんみ)される神に喜んでいただくためです。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実(こうじつ)を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。また、あなたがたからもはほかの人たちからも、人間の誉(ほま)れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒(しと)としての権威(けんい)を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子(おさなご)のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。(1テサロニケ2章)

【福音】[そのとき、イエスは言われた。]「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉(こ)して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯(さかずき)や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲(ごうよく)と放縦(ほうじゅう)で満ちているからだ。ものの見えないファイリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」(マタイ福音書23章)

*本田哲郎訳:律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは、はっか、アニス、ウイキョウの『十分の一奉納』はするが、律法の中で重きをなす、解放のための裁き、痛みを共感すること、信頼をもってあゆみを起こすことはないがしろにしている。これこそ実行すべきことであり、あわせて、『十分の一奉納』もないがしろにしてはならない。ものの見えない案内人、あなたたちはブヨをこし出して、らくだを飲みこんでいるのだ。律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは、さかずきや皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦でみちている。ものの見えないファイリサイ派の人よ、まず、さかずきの内を清めなさい。そうすればさかずきの外も清くなる。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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