月別アーカイブ: 2019年9月

[鳥栖]年間第26主日[2019.9.29.]

《年間第26主日》鳥栖教会で11時から行われたミサ典礼における説教[13分]を聴くことができます。

[鳥栖]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしのこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来るこtのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前に兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音16章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第26主日[2019.9.29.]

《年間第26主日》小郡教会で8時30分から行われたミサ典礼における説教[11分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしのこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来るこtのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前に兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音16章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[小郡]年間第26主日前晩[2019.9.28.]

《年間第26主日前晩》小郡教会で19時30分から行われたミサ典礼における説教[16分]を聴くことができます。

[小郡]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府(よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしのこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来るこtのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前に兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」(ルカによる福音16章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[基山]今生きてともにいる主を信頼する[2019.9.28.オミリア]

《年間第25土曜日:聖トマス西と十五殉教者》基山教会聖堂で7時から行われたミサのオミリア[7分]を聴くことができます。

聖トマス西と十五殉教者:きょう記念される聖人は、いずれもキリシタンへの迫害が激しかった一六三三年から一六三七にかけて長崎で殉教した人たちである。十六名はドミニコ会の司祭、修道者、修道女と彼らのために働いた信徒たちで、九名の日本人のほかに、スペイン人、イタリア人、フランス人、フィリピン人が含まれている。彼らは一九八七年に列聖された。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[基山]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]イエスがなさったすべてのことに、皆が驚いていると、イエスは弟子たちに言われた。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには理解できなように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。(ルカ福音書9章)

本田哲郎訳:イエスが行なったその一部始終にみんなが感銘を受けたのを見て、イエスは弟子たちに言った。「あなたたちは、このことを耳にとめておきなさい。人の子はやがて人々の手に引きわたされるのだ」。弟子たちは、言われたことがよく分からなかった。弟子たちには隠されていて、理解できなかったのである。それでも弟子たちは、言われたことについて、イエスにたずねるのをはばかった。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇、「デジタル時代の共通善」を考えるセミナー参加者と

2019年9月27日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、「デジタル時代の共通善」を考えるセミナー参加者と

教皇フランシスコは、「デジタル時代の共通善」をテーマとするセミナーの参加者に挨拶をおくられた。

教皇フランシスコは、9月27日、「デジタル時代の共通善」をテーマとするセミナーの参加者に挨拶をおくられた。

このセミナーは、教皇庁の人間開発省と文化評議会の企画により、9月26日から29日までバチカンで開催されているもので、人工知能をはじめとするデジタル技術分野の目覚ましい発展が、社会・倫理・政治に与える影響を考察している。

教皇は、セミナー参加者への言葉で、これまでにない技術発展がもたらす新しい可能性を、倫理的な方法のもとに利用する必要を強調された。

テクノロジーの活用によるより良い世界は、その発展に共通善のビジョンや、自由・責任・兄弟愛をめぐる倫理を伴ってこそ可能になる、と教皇は話された。

共通善を、あらゆる個人のための善と分離することはできないと述べつつ、教皇は、テクノロジーを日常生活に導入する際、そのポジティブな側面が、人間の尊厳と自由を脅かす危険に変貌する可能性をも考慮するよう招かれた。

そして、その例として、ロボット技術が疲労と危険をもたらすある種の作業から人を解放する一方で、その効率と利益向上だけに注目するならば、多くの人の仕事と尊厳が脅かされることになる、と指摘。

また、人工知能が信頼に足る情報へのアクセスに大きく役立つ反面、偏向した世論や偽のデータを流布することで、何万という人々の意見を操作し、最後には市民の平和的共存を保証する制度自体をも危険に陥れることが可能である、と話された。

教皇は、テクノロジーの進歩が人々の間に不平等を広げるのならば、あるいは共通善の敵となるならば、それを真の発展と呼ぶことはできない、と説かれた。

こうした中、教皇は、あるシステムがいかに発達して効率的であろうとも、それが一人ひとりの人間のかけがえのない尊厳と貢献を価値づけることができない限り、皆さんの仕事は続くでしょうと、セミナー参加者らを励まされた。

27 9月 2019, 16:23
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[クララ]生きておられる主を伝える[2019.9.27.オミリア]

《年間第25金曜日:聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭:一五八一年、フランス南西部のアキテーヌ州に生まれる。学業を終えると司祭に叙階され、パリに行って小教区の主任司祭として働いた。聖職者の養成と貧しい人々を助けるために「布教宣教会」を設立し、また聖ルイーズ・ド・マリヤックの協力を得て、「愛徳姉妹会」も設立した。一六六〇年、パリで死去。(『毎日の読書』より)

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ福音書9章)

本田哲郎訳:イエスがひとりで祈っていると、弟子たちが寄ってきた。イエスはかれらに、「民衆はわたしのことを何者だと言っているのか」とたずねた。弟子たちは、「みな、『沈めの式を行うヨハネ』だと言ってます。ほかに、『エリヤ』とか、『昔の預言者のだれかが生きかえったのだ』とか言う人もいます」とこたえた。イエスが弟子たちに、「それで、あなたたちはわたしを、何者だと言うのか」と言うと、ペトロは、「神の『キリスト』です」とこたえた。すると、イエスは弟子たちをいましめて、このことはだれにも話さないようにと言いわたした。そして、イエスはこう言った。「人の子は、ひどい苦しみを受け、長老たちと大祭司および律法学者たちの取り調べを受け、殺され、そして、三日目に復活することになっている」。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[クララ]イエスにはここで会える[2019.9.26.オミリア]

《年間第25木曜日》聖クララ会修道院聖堂で6時30分から行われたミサのオミリア[8分]を聴くことができます。

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[クララ]ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、]領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現われたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主(ぬし)は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。(ルカ福音書9章)

本田哲郎訳:領主ヘロデは、起こっていることの子細(しさい)を聞いて、不安にからえた。ある人は、「ヨハネが死者の中から復活した」と言い、ある人は、「エリヤが現われた」と言い、また、ほかの人は「大むかしの預言者のだれかが再来した」と言っていたからである。ヘロデは、「ヨハネなら、わたしが首をはねた。しかし、このように聞こえてくるこの人は、いったい何者か」と言い、イエスを見てみたいものだと思っていた。

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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「使徒言行録」のステファノの殉教を考察、教皇一般謁見

2019年9月25日バチカン放送日本語課の記事より。

「使徒言行録」のステファノの殉教を考察、教皇一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で「使徒言行録」をテキストにカテケーシスを行われた。

教皇フランシスコは、バチカンで9月25日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この日、教皇は「使徒言行録」をテキストとしたカテケーシスで、同6章に記される、ステファノたちの選出と、ステファノの殉教を取り上げられた。

初期のキリスト教共同体に弟子が増えてくると、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対し、仲間のやもめたちに対する配慮が足りないと苦情が出た。

教皇は、ここでは文化や感受性の異なる人々の共存が、共同体の未熟さや脆さを明らかにすることになった、と述べられた。

使徒たちはこれに対し、皆を集め、共に問題の解決を模索した。その結果、自分たちの召命は「祈りと御言葉の奉仕に専念すること」と確認する一方で、「霊と知恵に満ちた評判の良い人七人」を選び、祈って彼らの上に手を置き、食事の世話を任せることになった。

教皇は、これは助祭の誕生であったと説明。七人の中でも特にステファノは、「恵みと力に満ち」宣教していたが、彼が話す素晴らしい言葉のために、議論する者たちの激しい反発に会い、讒言によって捕えられ、最高法院に引いていかれた、その始終を語られた。

ステファノは最高法院で、キリストを中心に聖なる歴史を再読し、預言者たちとキリストに対する彼らの扱いとその偽善を、勇気をもって訴えた。

怒った人々は、ステファノに襲いかかり、石打の刑にした。

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」というステファノの殉教時の言葉の中に、教皇は同聖人のキリストの真の弟子としての本質を見つめられた。

そして、神の子としてのキリスト者のアイデンティティーを示すために必要なのは、多くの言葉ではなく、自らの命を神の手に委ね、自分を迫害する者を赦す態度であると、ステファノの言葉はわたしたちに教えている、と述べられた。

今日、初期の教会の時代より、さらに多くの殉教者が世界中にいることを指摘された教皇は、わたしたちが過去と現代の殉教者から、日常的な福音への忠実と、キリストと似た者になる生き方を学ぶことができるようにと祈られた。

25 9月 2019, 16:41
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教皇、国連の「気候行動サミット」にメッセージ

2019年9月23日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇、国連の「気候行動サミット」にメッセージ

教皇フランシスコは、国連の「気候行動サミット2019」にビデオメッセージをおくられた。

教皇フランシスコは、9月23日、ニューヨークの国連本部で開かれた「気候行動サミット2019」にメッセージをおくられた。

教皇はビデオを通したメッセージで、次のように述べられた。

**********

国連気候行動サミット2019の参加者の皆さんに挨拶をおおくります。この会合を招集してくださったアントニオ・グテーレス国連事務総長に感謝を申し上げたく思います。これによって、気候変動という、今日、最も重大で憂慮される現象について、国家元首や政府、全国際共同体と国際世論の関心を改めて呼びかけてくれました。

気候変動は、わたしたちが取り組むべき主要な課題の一つです。そのために人類は、三つの大きな倫理的クオリティーを育むように招かれています。それは、正直さ、責任、勇気です。

2015年12月12日のパリ協定によって、国際社会は、わたしたちの「共通の家」の構築に協力するための、足並みをそろえた回答の急務と必要を自覚しました。しかしながら、この歴史的協定から4年の経過にも関わらず、国々の取り組みはまだ非常に弱く、掲げられた目標への到達には遠い状態にあります。

政府側はもとより市民社会全体の多くのイニシアチブを前に、そこには、気候変動のネガティブな影響を軽減するために、またそれによって一番苦しんでいる最も貧しく弱い立場にある人々を助けるために、人的、財政的、技術的資源の多くを差し向ける本当の政治的意志があるのか、自問する必要があります。

たとえ状況は良くなく、地球はそのために苦しんでいるとしても、チャンスのための窓はまだ開いています。今のところは。まだわたしたちは間に合います。そのチャンスの窓を閉ざすがままにしてはいけません。未来の世代により良い生活を保証するために、統合的な人間の発達を育てる努力をもって、その窓を開けようではありませんか。未来はわたしたちのものではなく、彼らのものです。

ポスト工業化時代の人類がおそらく史上最も無責任であったと思い出されるかもしれないのに対し、21世紀初めの人類は寛大さをもって自分たちの重大な責任を引き受けたと思い起こされることを願いたいものです。(参考:回勅「ラウダート・シ」165)

正直さ、責任、勇気をもって、わたしたちは自らの知性を「より健康的で、より人間的、より社会的、より統合的な、別のタイプの発展」(参考:回勅「ラウダート・シ」112)への奉仕に費やさなければなりません。そして、その発展は、経済を人間への奉仕、平和の構築、環境保護に用いることができなくてはなりません。気候変動の問題は、倫理、平等、社会正義の問題と結びつくものです。

現在の環境悪化の状況は、わたしたちが毎日体験する、人間的、倫理的、社会的な荒廃と関連しています。これは、わたしたちの消費、生産、教育プロセス、世論喚起のモデルが人間の尊厳にふさわしいものとなるよう、見直すことを義務付けます。

わたしたちは、共通善のための一つの「文明の挑戦」を前にしています。それは明らかです。それは、もし、わたしたちが個人や社会レベルで、正直さと、勇気と、責任を体現した生活スタイルを選択するならば、皆に適した多様な解決があることと同様に明らかなことなのです。

正直さ、責任、勇気、というこの3つの言葉が、今日と明日の皆さんの会議の中心を占めることを願います。皆さんの仕事を、ここからわたしの希望と祈りをもって見守りたいと思います。どうもありがとうございました。

23 9月 2019, 19:55
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教皇「真理を伝えるには、証しが必要」広報省関係者に

2019年9月23日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「真理を伝えるには、証しが必要」広報省関係者に

教皇フランシスコは、バチカンの広報省の関係者とお会いになった。

教皇フランシスコは、9月23日、教皇庁広報省の関係者とお会いになった。

この出会いは、同日から25日までバチカンで開催される、同省の定例総会を機会に行われた。

謁見会場のバチカン宮殿の王宮の間には、新聞、放送、インターネット、出版などを通し、教皇庁の広報に携わるおよそ500名の関係者が集った。

会場の前列には、同省のパオロ・ルッフィーニ長官をはじめ、顧問枢機卿の一人である大阪教区大司教、前田万葉枢機卿や、共にローマを訪れた同教区補佐司教、ホセ・アベイヤ司教の姿も見られた。

教皇はこの集いで、原稿を用いずに、教会のコミュニケーションのあり方について考えを述べられた。

教皇は、神はあらゆるコミュニケーションの源であると強調。わたしたちは一人に留まることなく、神が人々に働きかける態度に学びながら、真理や正義、善や美であるものを伝えていかなければならない、と話された。

そして、真の伝達者は、伝えるために自分自身のすべてをかけるが、中でも最も偉大なコミュニケーションは「愛」である、と説かれた。

教皇は、教会のコミュニケーションであってはならないことは、「宣伝」だけをすること、と語り、教会は常にそれ自体の魅力と、証しによって成長しなくてはならない、と話された。

したがって、善や美を伴わずに真理を伝えることはあってはならず、わたしたちのすべての行いは証しを伴うべき、と述べた教皇は、キリスト者の証し人、殉教者としての召命を指摘された。

また、教皇は、世界の非キリスト教性、世俗性は、今日始まったことではなく、これまでも常に教会の脅威であったこと、と述べ、「諦め」という誘惑に陥らず、パン種や塩のように、小さくわずかな存在でありながらも、皆に福音を伝えるという姿勢を励まされた。

さらに、教皇は、教会のコミュニケーションで大切なのは「形容詞」ではなく「主語」であると話し、装飾にこだわることなく本質に根差した、簡素で、美しく、力強い広報のあり方を示された。

23 9月 2019, 16:55
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