月別アーカイブ: 2019年10月

シノドス:閉会ミサ、教皇「貧しい人たちの叫びは、教会の希望の叫び」[バチカン放送日本語課2019.10.27.]

「アマゾン周辺地域のための特別シノドス」は、教皇フランシスコと参加司教らによる閉会ミサによって終了した。
「アマゾン、教会と統合的エコロジーのための新たな歩み」をテーマに、バチカンで10月6日から開催されていた「アマゾン周辺地域のための特別シノドス(世界代表司教会議)」は、10月27日、聖ペトロ大聖堂での閉会ミサをもって終了した。
教皇フランシスコと184人のシノドス司教たちの共同司式で捧げられたこのミサには、専門家や、多くは先住民族代表からなる傍聴者らも参列。
入祭では、アマゾンの植物の苗を手にした先住民族の女性を先頭に、3週間にわたる会議を共にしたシノドス関係者たちの長い行列が続いた。
閉会ミサの説教で教皇は、この日の福音朗読、「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(ルカ18,9-14)を取り上げ、「わたし(自分)の宗教」ではなく、「神の宗教」を実践するためには、自分の内面の貧しさを自覚することが必要と話した。
イエスが語ったこのたとえ話には、祈るために神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人が登場する。
ファリサイ派の人は立って心の中で祈り、「神様、感謝します」と言うが、その理由とは、自分は他の人たちとは違い、奪ったり、不正をしたり、姦通を犯さない者であり、「この徴税人のような者でもないこと」であると言う。
教皇は、「この人の悲劇は、愛がないことである」と指摘。愛がない結果、彼は自分自身を賛美し、神の神殿で別の宗教、すなわち「自分教」を信じている、と述べた。
また、このファリサイ派の人は、神のみならず、隣人までをも忘れ、徴税人を価値のない者と見なし、軽蔑している、と話した。
教皇は、歴史や生活において、いったい何度目の前にいる人に対し距離を置き、壁を作り、排除する態度が繰り返され、いったいどれだけの思い上がりが今日も人々を圧迫し、搾取していることか、と問われた。
「自分教」は自分よがりの儀式と祈りをもって偽善を続け、隣人への愛を通して表される、神への真の信仰を忘れている、と話された。
これに対し、徴税人の祈りは、神が何を喜ばれるのかをわたしたちに教えてくれる、と教皇は述べた。
徴税人の祈りは、自分の手柄を挙げず、自身の怠り、貧しさを自覚し、神に憐みを乞うものである。徴税人が感じている貧しさは、経済的貧しさではなく、精神的貧しさ、同胞たちから取り立てたお金で自分は富んでいるという罪の意識である、と説明された。
教皇はまた、徴税人の祈る態度にも注目。天の偉大さと、自分の小ささの自覚ゆえに、「天に上げようともしない」その眼差し、遠くに立って、心臓のある場所、すなわち自分の胸を打ちながら、心からほとばしらせるその祈りの偽りの無さをを見つめるよう招いた。
「今日、この徴税人を見つめながら、わたしたちはどこから再出発すべきかを改めて知ることができる。それは、皆が、自分こそは救いを必要とする者だと自覚することからである」と説いた。
これに対し、あらゆる霊的な過ちは、自分を正しい者だと思い込むことから起こり、そうすることで、唯一正しい方である神を外に追い出してしまう、と教皇は注意された。
教皇は、このシノドスを、貧しい人たちの声に耳を傾け、搾取的な発展モデルによって苦しむその生活の困難を考察する一方で、被造物を搾取の対象としてではなく、守るべき家として受け入れ、神への信頼のもとに生きる人々の証しを見る機会でもあった、と振り返った。
「貧しい人たちの叫びは、教会の希望の叫び」と述べた教皇は、「これらの人々の叫びを自分たちの叫びとすることで、わたしたちの祈りも雲を通過することができるだろう」と話された。
27 10月 2019, 20:08

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「岸を離れて、沖に出よう」教皇、シノドス閉会後のお告げの祈りで[バチカン放送日本語課2019.10.27.]

教皇フランシスコは、「アマゾン周辺地域のための特別シノドス」閉会ミサの後、正午の祈りを唱えられた。
バチカンで10月6日から3週間にわたり開催された「アマゾン周辺地域のための特別シノドス(世界代表司教会議)」は、10月27日、教皇と参加司教らの共同司式による閉会ミサによって幕を閉じた。
ミサ後、教皇は日曜恒例の正午のお告げの祈りの集いを行われた。
集いの説教で教皇は、終了したシノドスを振り返り、「貧しい人々の叫びは、大地の叫びと共にアマゾンから届きました。この3週間の会議の後、わたしたちはそれを聞かなかったふりをすることはできません」と述べた。
教皇はまた、「貧しい人々の声は、シノドスの内外の声と共に、わたしたちに無関心に陥らないようにと促しました。」「会議でわたしたちは『もう後まわしにはできない』という言葉を何度も耳にしました。この言葉が単なるスローガンに留まってはなりません」とも話された。
「共に歩む」という意味のとおり、シノドスでは互いに目を見て誠実に耳を傾け合い、奉仕のために一致して前進する素晴らしさを体験した、と教皇は語った。
このシノドスにおいて、参加者らは福音宣教の新しい道を開くことを望んだ、と述べた教皇は、「イエスを生き、福音を生きるためには、閉じた自分自身から外に出なければなりません」と説かれた。
シノドスを経て、教皇は「わたしたちは、安全な港のある岸を離れて、沖に出るようにとの励ましを感じました」と話し、わたしたちが向かうその場所は「イデオロギーの沼ではなく、網を打つようにと聖霊が招く、広々とした海なのです」と語られた。
27 10月 2019, 20:48

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[黙想の家]「時のしるし」を読み取る[2019.10.25.オミリア]

《年間第29金曜日》福岡黙想の家聖堂で7時から行われたミサのオミリア[3分]を聴くことができます。 *聖アウグスチノ修道会黙想

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[黙想の家ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは群衆に言われた。]「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(ルカ福音書12章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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[黙想の家]分裂はいつくしみで解決を[2019.10.24.オミリア]

《年間第29木曜日》福岡黙想の家聖堂で11時から行われたミサのオミリア[4分]を聴くことができます。 *聖アウグスチノ修道会黙想

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[黙想の家ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「わたしが来たのは、地上に火を投(とう)ずるためである。その火が既(すで)に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ福音書12章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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教皇「天幕のように皆を受け入れる教会」一般謁見で

10月23日バチカン放送日本語課の記事より。

教皇「天幕のように皆を受け入れる教会」一般謁見で

教皇フランシスコは、一般謁見中の「使徒言行録」をめぐるカテケーシスで、パウロとバルナバの宣教旅行と、エルサレムの使徒会議をテーマに話された。

教皇フランシスコは、バチカンで10月23日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇は謁見中、「使徒言行録」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、パウロとバルナバの宣教旅行と、「エルサレムの使徒会議」をテーマに講話された。

サウロ(パウロ)はダマスコ途上での回心の後、バルナバの仲介のおかげでエルサレムの教会に受け入れられた。しかし、ギリシャ語を話すユダヤ人たちの敵意に会い、故郷タルソスに戻っていた。

一方、エルサレムの教会からアンティオキアに派遣されたバルナバは、タルソスに行き、サウロを探し出し、アンティオキアに連れ帰った。このシリアのアンティオキアに二人は一年間滞在し、教会が根付くように助けた。

教皇は、こうしてアンティオキアが宣教の中心地となり、まさにこの地で弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったことを振り返られた。

宣教旅行に出かけたパウロとバルナバは、再びシリアのアンティオキアに戻った時、神が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」(使徒言行録14,27)ことを兄弟たちに報告した。

教皇は、「使徒言行録」からは、教会は「城塞」ではなく、「場所を広くとった天幕」(参照:イザヤ54,2)のように皆を受け入れ、「常に扉が開いている御父の家」のようであるべきことが浮かび上がってくる、と述べられた。

一方で、教会の扉が異邦人に開かれたことで論争が起こったが、それは「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」(同15,1)という、ある人々の教えをめぐるものであった、と教皇は説明された。

この問題を明らかにしようと、パウロとバルナバは使徒や長老たちと話し合うためエルサレムに上ったが、このエルサレムの使徒会議は、教会の歴史上行われた最初の公会議といえるもの、と話された。

教皇は、この使徒会議で話し合われたことは、キリストにおける信仰とモーセの律法の遵守という、神学、霊性、規律の面からいっても大変デリケートなテーマであった、と指摘。

この話し合いで決定的であったのは、初代教会の柱であるペトロとヤコブの意見であり、それは、異邦人に割礼を強制する必要はなく、偶像崇拝的なあらゆる行為を捨てるように命ずるだけでよい、というものであった、と語られた。

教皇は、エルサレムの使徒会議は、意見の相違と向き合い、「愛に根差した真理」(参照:エフェソ4,15)を探求するための重要な光をわたしたちにもたらしてくれる、と話された。

そして、論争の教会的な解決方法の基礎は、注意深さと忍耐をもって耳を傾ける姿勢と、聖霊の光に照らされた識別にある、と強調された。

教皇は、実際、聖霊こそが、わたしたちが真理と善のうちに一致に到達できるよう、閉鎖性と緊張を克服させ、心の中で働きかけるのである、と説かれた。

23 10月 2019, 17:47
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[黙想の家]今、主とともに歩んでいる[2019.10.23.オミリア]

《年間第29水曜日》福岡黙想の家聖堂で11時から行われたミサのオミリア[6分]を聴くことができます。 *聖アウグスチノ修道会黙想

当日の聖書朗読箇所をぜひお読みになってください。あなたへのメッセージに気づかれると思います。少しずつ慣れて来られると「み言葉」があなたの中で生きていることを感じられるでしょう

[黙想の家ここをクリックして聴くことができます。

【福音】[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕(しもべ)は幸いである。確かに言ったおくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕(しもべ)が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳(きび)しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭(あ)わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任(まか)された者は、更に多く要求される。」(ルカ福音書12章)

***ミサで読まれる聖書の言葉は「イエスのカリタス修道女会」のホームページを参照してください。主日のミサに参加される方はぜひ「聖書と典礼」を持ち帰り、もう一度読み返すと、自分に響く言葉に触れることができるでしょう。聖書をお持ちであれば、ご自分の聖書を開いて読むことをお勧めします。さらにできれば、新共同訳だけでなく、他の訳(本田哲郎訳、山浦玄嗣訳など)を参照すると内容がより深まると思います***

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世界宣教の日:教皇「良き知らせをあらゆる場所に」

10月20日バチカン放送日本語課の記事より。

世界宣教の日:教皇「良き知らせをあらゆる場所に」

カトリック教会は「世界宣教の日」を記念した。

教皇フランシスコは、バチカンで10月20日(日)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

10月の終わりから数えて2番目の日曜日であるこの日、カトリック教会は「世界宣教の日」を記念した。

教皇は祈りの前の説教で、同日の聖書朗読箇所、「テモテへの手紙二」(3,14-4,2)から、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(同4,2)という使徒聖パウロの言葉を掲げられた。

そして、この「世界宣教の日」にあたり、すべての信者に、新たな努力をもって、神の御国を告げるために力を合わせるよう、自覚を呼びかけられた。

教皇は、今年その発表から100年を迎えた、ベネディクト15世の使徒的書簡「マキシムム・イッルド」に言及。

全教会の宣教的責任を促す同文書の中で、ベネディクト15世は、あらゆる植民地主義の影響から清められ、政治的制約から解放された、世界における宣教のあり方を、福音に照らして再考する必要を説いていることを紹介された。

教皇は、今日もベネディクト15世のメッセージは、自己本位な閉鎖性や司牧上の悲観主義の誘惑を超え、福音の喜びに自らを開くよう招いている、と話された。

グローバル化が著しい現代、民族間の連帯や互いの違いの尊重が育つべきであるところ、未だにそれが得られず、古い権力闘争が戦争を引き起こし、地球を破壊している、と述べた教皇は、イエスにおいていつくしみは罪に勝利し、希望は恐れに打ち勝つという良き知らせをあらゆる場所にもたらすようにと、信者らを励まされた。

教皇は、充実した宣教を生きるためには、一つの条件、すなわち熱心で絶えることのない祈りが必要、とも述べられた。

教皇は、すべての人々の母、マリアが福音の宣教者たちを毎日見守ってくださるようにと祈られた。          

また、この集いで教皇は、前日10月19日、イタリア北部クレーマで、ミラノ外国宣教会のアルフレド・クレモネージ神父の列福式が行われたことを報告。1953年、ビルマで殉教した同神父の、平和の使徒、福音の証し人としての生涯を思い起こされた。

福者クレモネージ神父の模範によって、わたしたちもあらゆる状況下で、兄弟愛のために働く者、勇気ある宣教者となれるようにと、教皇は祈られた。

20 10月 2019, 16:42
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アマゾン特別シノドス:2週目の全体会議続く

10月16日バチカン放送日本語課の記事より。

アマゾン特別シノドス:2週目の全体会議続く

「アマゾン周辺地域のための特別シノドス」の全体会議が続いている。

10月15日(火)、「アマゾン周辺地域のための特別シノドス」は、会議開始後、2週目の全体会議が続いている。

15日午前に行われた第11回全体会議の発表・討議では、「アマゾン地域司教網」によって調整される代表・常任組織の創設が提案され、これによりアマゾンの教会が目に見える形で認識され、より効果ある共通の司牧が行えるようになることが期待された。

また、一部の人々の利益追求のために、先住民族が住み慣れた土地を追われ、自然が破壊されるなど、アマゾンで起きている様々な搾取から住民と環境を守るために、常駐の監視組織の必要も意見として上がった。

同日午後の第12回全体会議では、気候変動や人間の手によるアマゾンの破壊は、全人類の問題であるという認識から、これらの問題に貢献するために、教皇庁立科学アカデミーをはじめ、科学者や専門家たちによる国際レベルのグループの結成なども提案された。

司祭不足問題については、アマゾン地域の70%の共同体が、年に1回か2回しか司祭による訪問を受けられず、復活祭や降誕祭などの重要な祭日にもミサに与れないという現実がクローズアップされた。

こうしたことから、司牧者を求めて他のキリスト教教会に移る人々もおり、カトリック教会はこの状態に無関心でいることはできない、と意見された。

召命問題に対する祈りの重要性も強調された。福音の世話は神に属することであり、神に解決を祈り求める姿勢が大切とも述べられた。

16 10月 2019, 19:35
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