月別アーカイブ: 2020年3月

バチカンで半旗、イタリアと共にパンデミック犠牲者に弔意

バチカン放送日本語課[2020.3.31.]より

イタリア全土でパンデミックの犠牲者に弔意を表す半旗が掲げられた日、これに連帯し教皇庁でも半旗が掲げられた。
新型コロナウイルスの犠牲者を悼み、3月31日、イタリア全土で半旗が掲げられた。
これは、新型コロナウイルスの犠牲者たちを心に留めると共に、医療関係者らの犠牲と努力に敬意を表するために、イタリアの市長たちによって行われた。
教皇庁も、同日、イタリアと連帯し、「イタリアと世界におけるパンデミックの犠牲者とその家族たち、そして、感染症収束のために寛大な献身をもって闘うすべての人々に寄り添うために(バチカン広報局)」、半旗を掲げた。
31 3月 2020, 13:17

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新型コロナウイルス:教皇「世界の武力紛争の停止を」

バチカン放送日本語課[2020.3.29.]より

教皇フランシスコは、パンデミックの危機にある世界に、武力紛争の即時停止をアピールされた。

教皇フランシスコは、3月29日(日)正午、「お告げの祈り」をバチカン宮殿からビデオを通して行われた。
この席で教皇は、パンデミックの危機にある世界に、武力紛争の即時停止と人道支援の回廊構築の促進を、次のように呼びかけられた。


「親愛なる兄弟姉妹の皆さん
数日前、国連事務総長は、現在の新型コロナウイルスによるとどまることを知らない危機的状況の観点から、「世界各地の紛争のグローバルかつ速やかな停戦」を訴えました。これは、完全な停戦へのアピールです。
わたしはこのアピールを受け入れる人々と心を合わせると共に、あらゆる形の武力的対立を止め、人道支援回廊の構築を促し、外交に開き、最も弱い立場にある人々に配慮するようよう呼びかけたいと思います。
パンデミックに対抗するための共通の取り組みを通して、唯一の家族の一員として兄弟愛に基づく絆を強める必要に、皆が気づくことができますように。特に、当事国や関係国の指導者に、敵対関係を克服するための新たな努力を呼び覚ますことができますように。
対立は戦争では解決しません。敵対や反目を超え、対話を通し、建設的に平和を追求することが必要です。」
29 3月 2020, 16:30

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教皇「刑務所における感染リスクへの対応を」

バチカン放送日本語課[2020.3.29.]より

教皇フランシスコは、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、集団生活の場、特に刑務所における感染リスク問題への関心を呼びかけた。
教皇フランシスコは、3月29日(日)の「お告げの祈り」で、新型コロナウイルスの感染拡大の情勢の中、集団生活の場、特に刑務所における感染リスクへの対応を呼びかけられた。
教皇は、高齢者施設や、兵舎など、特に集団生活を通し感染リスクにさらされやすい状況にあるすべての人々に思いを向ける中で、特に刑務所にいる人々に言及された。
収容人数を超えた刑務所で感染による悲劇が起きかねないことを指摘する、国連人権理事会の報告を読んだ、と述べた教皇は、関係者にこの重大な問題への関心を呼びかけると共に、悲劇を未然に防ぐ対応をアピールされた。
29 3月 2020, 17:00

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オミリア:四旬節第5火曜日[2020.3.31.]7分44秒

[クララ会]2018年のオミリア 四旬節第5火曜日(3月20日:叙階記念日:1980年)の聖クララ会修道院でのオミリアを紹介します。

第一朗読:民数記21・4-9/福音:ヨハネ8・21-30

【第一朗読】[その日、イスラエルの民は]ホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回(うかい)し、葦(あし)の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐(た)えきれなくなって、神とモーセに逆(さか)らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末(そまつ)な食物では、気力もうせてしまいます。」主は炎の蛇(へび)を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿(はたざお)の先に掲(かか)げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅(せいどう)で一つの蛇を造り、旗竿(はたざお)の先に掲(かか)げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰(あお)ぐと、命を得た。

【福音朗読】[そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。]「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜(さが)すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣(つか)わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心(みこころ)に適(かな)うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

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[クララ会]四旬節第5主日説教[2020.3.29.]録音21分46秒

4月いっぱい公開ミサは行われません。

第一朗読:エゼキエル37・12-14/第二朗読:ローマ8・8-11/福音:ヨハネ11・3−7、17、20-27、33b-45

集会祈願 いつくしみに満ちた神よ、あなたは人類を深く愛され、キリストによって世界を死から救ってくださいました。四旬節をとおして洗礼の準備を進める人々とともに、教会が新しいいのちの喜びで満たされますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

第一朗読 主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

答唱詩編[詩編130]              主は豊かなあがないに満ち いつくしみ深い[答唱句]神よ、深いふちから、あなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を、聞いてください。/神はわたしの希望、心の望み、わたしはみことばを待ち望む。夜明けを待ちわびる人にもまして、わたしの心は主を待ち望む。/イスラエルよ、イスラエルよ、主を待ち望め。主はすべての罪から、イスラエルを救われる。

第二朗読 [皆さん、]肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

詠唱[ヨハネ11・25a+26]わたしは復活であり いのちである。わたしを信じる人は永遠に死ぬことはない。

福音朗読 [そのとき、ラザロの]姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」さて、イエスが言って御覧になると、ラザロは墓に葬(ほうむ)られて既(すで)に四日もたっていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたがたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知(しょうち)しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」[イエスは]心に憤(いきどお)りを覚え、興奮(こうふん)して、言われた。「どこに葬(ほうむ)ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。しかし、中には、「盲人(もうじん)の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤(いきどお)りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴(ほらあな)で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周(まわ)りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣(つか)わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆(おお)いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

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思い出した[2020.3.29.]

ローマ教皇に就任して間もない頃、日曜日のお告げの祈りの時に、聖ペトロ広場のたくさんの人々に向かって「この広場に一人も集まらないようになっても、わたしはここから祝福を送ります」と言われたことを思い出した。  そして…前から思っていたことだが、この方、雨が降っても、傘をささなくても濡れてない…ということに気づいていたのですが…。この時も…。

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教皇、バチカンで祈りと聖体降福式

バチカン放送日本語課[2020.3.27.]より

教皇フランシスコは、パンデミックの収束と信仰による励ましを願い、バチカンで祈りと聖体降福式をとり行われた。
教皇フランシスコは、現地時間3月27日(金)18時、バチカンで特別な祈りをとり行われ、聖体降福式をもって、教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。
この祈りは、現在世界に脅威を与えているパンデミックの収束を神に祈り求めると共に、神における信仰によって人々を励ますために行われた。
この日の夕方、ローマは冷たい雨に見舞われた。教皇は雨に濡れた無人の聖ペトロ広場の
スロープを大聖堂に向けて上られた。
教皇の導入の祈りに続き、マルコ福音書のイエスが突風を静めるエピソード(4,35-41)が朗誦された。
これに続き、教皇は説教の中で、嵐の中で舟が水浸しになり、おぼれそうだと訴える弟子たちに、イエスが向けた「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(同4,40)という言葉を黙想された。
そして、主に信頼し、嵐のさなかに語りかける主の声、連帯の精神と希望を持ち、すべてが挫折に見えるこの時に意味を見出すよう呼びかけるその声に、耳を傾けるよう招かれた。
この後、教皇は大聖堂正面の左右に掲げられた、ローマの聖マリア大聖堂の古い聖母子画「サルス・ポプリ・ロマーニ(ローマ人の救い)」と、聖マルチェロ教会のキリストの磔刑像を前に、長い沈黙の祈りを捧げられた。聖マルチェロ教会の磔刑像は、1522年、ローマにペスト感染が拡大した際、その鎮静を祈る宗教行列で用いられた。
最後に、教皇は大聖堂のアトリウムで聖体降福式をとり行われた。
教皇は、聖体礼拝と祈りに続き、聖体顕示台を掲げ、ローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。
27 3月 2020, 20:00

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「主よ、嵐の中にわたしたちを見捨てないでください」教皇による黙想

バチカン放送日本語課[2020.3.27.]より

教皇フランシスコは、パンデミックの収束を祈ると共に、怖れから解放し希望を与える信仰の力を強調された。
教皇フランシスコは、3月27日(金)夕、バチカンでパンデミックの収束を祈り、聖体降福式をもってローマと世界に向けた教皇祝福「ウルビ・エト・オルビ」を与えられた。
この祈りにおいて教皇は、朗読されたマルコ福音書(4,35-41)から、イエスが突風を静めるエピソードを、以下のように黙想された。


「その日の夕方になって」(マルコ4,35)、わたしたちが耳を傾けた福音はこのように始まります。この数週間は夕闇が降りてきたかのようです。深い闇がわたしたちの広場や道や町に満ちていきました。闇はわたしたちの生活を奪い、すべてを沈黙と虚無で覆いました。闇はそれが触れるすべてのものを麻痺させました。空気が、人々の態度や眼差しが、それを語っています。わたしたちは怖れ、おびえています。福音書のエピソードにある、突然の激しい突風に襲われた時のイエスの弟子たちのように。わたしたちは皆、同じ船に乗り合わせているということに気づきました。皆、弱く混乱し、しかし同時に、一人ひとりが大切でかけがえのない存在であり、皆が一つになるよう招かれ、互いの慰めを必要としています。この船の上に…わたしたちは皆一緒にいるのです。「わたしたちは溺れそうです」(参照:同4,38)と不安の中で声を合わせるあの弟子たちのように、わたしたちも、一人ひとりがもう勝手にふるまうことはできず、皆が一つになってこそ乗り越えられると気づいています。
この福音のエピソードに自分たちを重ねることは簡単です。しかし、難しいのはイエスの態度を理解することです。弟子たちが嵐の中で、当然のことながら、おびえ絶望している時、イエスは今にも沈みそうな船のへさきで、騒ぎにも関わらず、御父に信頼して眠っておられました。イエスが眠っておられるのを福音書の中で見るのはこの時だけです。イエスは起き上がって、風と水を静めた後、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(同4,40)と弟子たちに向かって言われました。
イエスが持つ信頼とは対照的な、弟子たちの信仰の欠如は何によるものでしょうか。弟子たちはイエスに対する信頼を捨てたわけではありません。それゆえ、彼らはイエスに訴えます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。「かまわないのですか」という言葉に見られるように、弟子たちはイエスが彼らに対し無関心で、彼らを放置していると思っています。わたしたちの家庭において、一番つらいことの一つは、「あなたにとって、わたしのことなど、どうでもいいのだ」という言葉を聞くことです。これは心を傷つけ、動揺させる言葉です。この言葉はイエスにとっても心を動かすものだったでしょう。なぜならば、イエスほどわたしたちを思ってくださる方はいないからです。実際、イエスはその言葉を聞き、落胆した弟子たちを救われました。
嵐は、わたしたちの弱さをあばき出し、わたしたちが計画的、習慣的に築き上げた安心は、偽物で表面的なものであったことを明るみに出します。わたしたちは眠り込み、社会や共同体を支え、力を与えていたものを、放棄してしまったことを悟らせます。嵐は、皆の魂をはぐくんでいたもの、わたしたちがしまい込み、忘れかけたものを発見させます。
嵐によって、わたしたちのエゴを隠し、自分の外面だけをつくろっていた、ステレオタイプの仮面ははずれました。そして、再び、兄弟としての所属、祝福された共通の所属を再発見しました。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主よ、あなたの言葉は、今夜わたしたちの胸を打ち、わたしたちすべてに向けられています。この世界、わたしたちが愛する以上にあなたが愛しておられるこの世界を、わたしたちは強く万能だという自信に満ちて、全力で駆けていました。利益を追求し、物事に没頭し、多忙の中で何も考えられなくなっていました。わたしたちはあなたの呼びかけに止まることも、戦争や世界的な不正義を前に目を覚ますことも、貧しい人の叫びや深く病んだ地球の声に耳を傾けることもありませんでした。病んだ世界の中で自分たちは常に病まずにいられると、無関心のまま突き進んでいきました。そして今、わたしたちは荒れた海にいて、あなたに哀願しています「主よ、目をお覚ましください」と。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。主は、わたしたちに呼びかけます。それは信仰への呼びかけです。それは主をただ信じるだけでなく、主のもとに行き、主により頼めとの招きです。この四旬節、主の差し迫った呼びかけが響きます。「悔い改めよ」「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル2,12)。主はこの試練の時を「選びの時」とするよう呼びかけます。それは、主の裁きの時ではなく、わたしたちの裁きの時です。何が重要で、何が過ぎ去るものか、必要なものとそうでないものを区別する時です。人生の指針を、主と、他の人々に向けて定めなおす時です。
わたしたちはこの旅において、怖れに対し、自らの命を捧げるという行為をもって反応した、多くの模範的な仲間たちを目にしました。その勇気ある寛大な献身は、人々の中で働く聖霊の力の注ぎによって形作られたものです。聖霊のいのちは、わたしたちの生活が普通の人々、普段は目立たない人々によって織りなされ、支えられていることを見せてくれます。こうした人たちは、新聞や雑誌のタイトルを飾ったり、目立つ舞台に立つことはなくとも、わたしたちの歴史上の重大な出来事を今刻んでいる人たちです。それは医師や、看護師、スーパーマーケットの職員、清掃員、介護職の人々、交通関係者、公安関係者、ボランティア、司祭、修道者、そして、自分の力だけでは救われないことを知っている他の多くの人々のことです。
この苦しみを前に、わたしたちは「すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17,21)という、イエスの祭司的祈りを見出し、体験します。毎日どれだけ多くの人たちが、パニックを広めることなく、共同責任を自覚し、忍耐を示しながら、希望を皆に伝えっていることでしょう。どれだけ多くの両親や、祖父母、教師たちが、子どもたちに日常の小さな行為を通して、習慣を変え、眼差しを上げ、祈るよう招きながら、この危機に対応し、過ごす方法を教えていることでしょう。どれだけ多くの人々が、皆のために犠牲を捧げ、取りなしを祈っていることでしょう。祈りと沈黙の奉仕、それはわたしたちを勝利に導く武器です。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。信仰の一歩は、自分が救いを必要とする者であると知ることです。わたしたちは自分だけでは何もできません、一人では沈んでしまいます。星を見つめたいにしえの航海者のように、わたしたちは主を必要としています。イエスをわたしたちのいのちの船の中に招きましょう。わたしたちの怖れをイエスに託しましょう。イエスがそれを打ち負かしてくださるようにと。弟子たちのように、船の上のイエスと共に、わたしたちは遭難することはないでしょう。なぜなら、これは神の力、起きるすべてのこと、たとえ良くない出来事をも善へと変える、神の力だからです。イエスは、わたしたちの嵐を鎮めてくださいます。神と共にいるならば、いのちは死すことがないからです。
主は、この嵐のさなか、わたしたちに話しかけます。目覚め、連帯の精神と希望を持ち、連帯と支援を与え、すべてが挫折に見えるこの時に意味を見出すようにと呼びかけます。主はわたしたちの信仰を目覚めさせ、生かすために、復活されます。わたしたちには、錨(いかり)があります。十字架においてわたしたちは救われました。わたしたちには舵(かじ)があります。十字架においてわたしたちは贖われました。わたしたちには希望があります。十字架においてわたしたちは贖われました。わたしたちには希望があります。十字架においてわたしたちは再び癒され、抱擁されました。何ものも誰もわたしたちを贖い主の愛から引き離すことはできません。
愛情や出会いの欠如に苦しみ、多くの物の不足を経験しつつある、この隔離された生活の中で、わたしたちは再び救いのメッセージを聞きます。主は復活され、わたしたちの近くにおられます。主は十字架上からわたしたちに呼びかけます。未来に待つ生活を見出し、わたしたちを必要とする人々に向き直り、わたしたちが持つ恵みを知り、強め、活かすようにと招きます。「暗くなっていく灯心を消すことなく」(参照:イザヤ42,3)、希望の灯を再びともしましょう。
イエスの十字架を抱きしめることは、今の災難を抱きしめる勇気を得ることです。全能であろうとする喘ぎ、所有への焦りを捨て、聖霊だけが促すことのできる創造性に開くことです。それは、すべての人が新しい形の受け入れと兄弟愛と連帯に招かれていると感じられる社会を築く勇気を見出すことを意味します。
イエスの十字架においてわたしたちは救われました。それは希望を受け入れ、その希望によってわたしたちを守るための可能な限りの手段を強め支えるためでした。希望を抱きしめるために、主を抱きしめること。これが、怖れから解放し、希望を与える信仰の力です。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、聖ペトロの岩のごとき信仰を物語るこの場所から、今夜、わたしは、民の救いであり、嵐の海の星である聖母の取り次ぎをもって、すべての皆さまを主に託したいと思います。ローマと世界を抱きしめるこの広場から、慰めの抱擁としての神の祝福が皆さまの上に降りますように。
主よ、世界を祝福し、体に健康を、心に慰めを与えてください。わたしたちに恐れぬよう命じてください。しかし、わたしたちの信仰は弱く、わたしたちは慄いています。それでも、主よ、わたしたちを吹き荒れる嵐の中に見捨てないでください。「恐れることはない」と繰り返してください。そして、わたしたちはペトロと共に「思い煩いを何もかもあなたにお任せします。あなたがわたしたちのことを心にかけていてくださるからです」(参照1ペトロ5,7)
27 3月 2020, 19:50

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オミリア:四旬節第4土曜日[2020.3.28.]13分47秒

[クララ会]2015年のオミリア 2015年の四旬節第4土曜日(3月21日)の聖クララ会聖堂でのオミリアを紹介します。

第一朗読:エレミヤ11・18-20/福音:ヨハネ7・40-53

【第一朗読】主が知らせてくださったので わたしは知った。彼らが何をしているのか見せてくださった。わたしは、飼いならされた小羊が 屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して悪だくみをしていた。「木をその実の盛りに滅ぼし 生ける者の地から絶とう。彼の名が再び口にされることはない。」万軍の主よ 人のはらわたと心を究(きわ)め 正義をもって裁(さば)かれる主よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐(すくしゅう)されるのを。わたしは訴(うった)えをあなたに打ち明け お任せします。

【福音朗読】[そのとき、イエスの]この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書かれてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕(とら)らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役(したやく)たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑(まど)わされたのか。議員やファイリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪(のろ)われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを訪(たず)ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」人々はおのおの家へ帰って行った。

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