月別アーカイブ: 2020年8月

【鳥栖】年間第22主日 説教【2020.8.30.】

鳥栖教会の皆さんとの公開ミサ。年間第22主日11時からのミサ。50人でミサをしました。

第一朗読:エレミヤ20・7-9/第二朗読:ローマ12・1-2/福音:マタイ16・21-27

【第二朗読】兄弟たち、神の憐(あわ)れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心(みこころ)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

【福音朗読】音声

【福音】 [そのとき、]イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔(じゃま)をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったなら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報(むく)いるのである。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《受難と復活の予告—世間の思わくを気にして保身を考えるな》 このときから、イエスは、自分がエルサレムへ行かねばならないこと、長老、大祭司、律法学者たちからひどい苦しみをうけ、殺されること、そして三日目に復活することを、弟子たちにうち明けるようになった。すると、ペトロがイエスをわきへ引きよせて、「主よ、あなたにあわれみを。そんなことがあってはならないのです」と、いさめだした。イエスはふり返ってペトロに行った。「サタン、わたしの前から立ち去れ。おまえはわたしをつまずかせる。神の思いではなく、人の思いで判断している」。    《自分に死ね、そのとき解放される》そのとき、イエスは弟子たちに言った。「わたしのあとからついて来たいと思う人は、自分のことはかえりみず、自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。自分自身を救おうとばかり思う人は、自分をほろぼし、わたしのために自分自身を使いほろぼす人は、自分を得る。人は、たとえ世界ぜんぶを味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。人には、自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて神の使いたちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じてむくいるのである」。

【説教】8分17秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

【小郡】年間第22主日 説教【2020.8.30.】

小郡教会の皆さんとの公開ミサ。年間第22主日8時30分からのミサ。43人でミサをしました。

第一朗読:エレミヤ20・7-9/第二朗読:ローマ12・1-2/福音:マタイ16・21-27

【第二朗読】兄弟たち、神の憐(あわ)れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心(みこころ)であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

【福音朗読】音声

【福音】 [そのとき、]イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔(じゃま)をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったなら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報(むく)いるのである。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《受難と復活の予告—世間の思わくを気にして保身を考えるな》 このときから、イエスは、自分がエルサレムへ行かねばならないこと、長老、大祭司、律法学者たちからひどい苦しみをうけ、殺されること、そして三日目に復活することを、弟子たちにうち明けるようになった。すると、ペトロがイエスをわきへ引きよせて、「主よ、あなたにあわれみを。そんなことがあってはならないのです」と、いさめだした。イエスはふり返ってペトロに行った。「サタン、わたしの前から立ち去れ。おまえはわたしをつまずかせる。神の思いではなく、人の思いで判断している」。    《自分に死ね、そのとき解放される》そのとき、イエスは弟子たちに言った。「わたしのあとからついて来たいと思う人は、自分のことはかえりみず、自分の十字架を背負って、わたしについて来なさい。自分自身を救おうとばかり思う人は、自分をほろぼし、わたしのために自分自身を使いほろぼす人は、自分を得る。人は、たとえ世界ぜんぶを味方にひき入れても、自分自身をだめにしてしまったら、何の意味があろうか。人には、自分自身に代わる値打ちのものが、何かあるのか。人の子は、やがて父の栄光を帯びて神の使いたちとともに来るが、そのとき、それぞれの行いに応じてむくいるのである」。

【説教】7分56秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

【クララ】聖アウグスチヌス オミリア【2020.8.28.】

三五四年、アフリカのタガステに生まれる。若いときに放蕩(ほうとう)生活を送り、マニ教に入ったが、ついに回心してカトリック信仰を受け入れ、三八七年にミラノでアンブロジオ司教から洗礼を授けられた。祖国に帰った後、修道生活を送り、やがてヒッポの司教に選ばれた。以後三十四年間、模範的司牧者として説教と多くの著作によって教区民を教え導き、当時の誤謬(ごびゅう)に対しては勇敢(ゆうかん)に争い、深遠な学識をもってキリスト教を解説した。四三〇年に死去。(『毎日の読書』より)

第一朗読:1コリント1・17-25/福音朗読:マタイ25・1-13

【第一朗読】 [皆さん、]キリストがわたしを遣(つか)わされたのは、洗礼を授(さず)けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅(ほろ)んでいく者にとっては愚(おろ)かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客(ろんきゃく)はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣(の)べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神の力は、「沈めの式」(洗礼)にではなく、低みから立つ「十字架」に働く》 キリストがわたしを派遣(はけん)したのは、沈めの式をするためではなく、福音を告げ知らせるためでした。しかも、キリストの十字架が無意味とならないよう、話術によらずに告げ知らせるのです。十字架のあの出来事は、滅(ほろ)びに向かう人々にはおろかなことですが、救いをめざすわたしたちにとっては、「神の力」です。じつに聖書にはこう書いてあります。「わたしは知恵者の知恵を無力にし、賢者(けんじゃ)のかしこさを無意味にする」(イザヤ29・14)。知恵者がなんですか。学者がなんですか。当世(とうせい)の論客がなんですか。神はこの世の知恵をおろかなこととされたではありませんか。これは「神の知恵」によることです。世は、いわゆる知恵によっては、神を知ることはありませんでした。神は、信仰宣言というおろかさによって、それに信頼してあゆみを起こす人を救うのがよいとされたのです。じつにユダヤ人たちは奇跡を願い求め、ギリシア人たちは知恵を追求しますが、そのかれらに向かってわたしたちは十字架につけられたキリストを信仰宣言するわけです。これは、ユダヤ人たちにとってはつまずきのもと、世俗の民にとってはおろかさにほかなりません。けれども、ユダヤ人であれギリシア人であれ、呼びかける応える者にとっては、キリストこそ「神の力」、「神の知恵」です。神がおろかだとはいっても、人間より知恵に富み、神が弱々しいとはいっても、人間より力強いのです。

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。]「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚(おろ)かで、五人は賢(かしこ)かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺(つぼ)に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気(ねむけ)がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整(ととの)えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《感性あるおとめたち、感性のにぶいおとめたち》 「天の国は、ともし火をもって花婿を迎えに出た、十人のおとめたちにたとえられる。そのうち、五人は感性のにぶいおとめたちで、五人は感性あるおとめたちだった。感性のにぶいおとめたちは、ともし火はもったが油を用意しなかった。感性あるおとめたちは、ともし火といっしょに油のつぼを用意した。さて、花婿がおそくなって、みな眠気(ねむけ)をもよおし、眠りこんでしまった。真夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』という呼び声があがった。おとめたちはみな起きて、それぞれ自分のともし火をととのえた。そのときになって、感性のにぶいおとめたちは感性あるおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火が消えてしまいます』。感性あるおとめたちは、『わたしたちみんなのためには、どうしても足りません。それより、商(あきな)いしている人たちのところへ行って、お買いなさい』と答えた。おとめたちが買いに行っているあいだに、花婿は到着した。そして、用意のできていたおとめたちは、花婿といっしょに婚宴の会場に入り、戸が閉められた。あとになって、ほかのおとめたちも来て、『主よ、主よ、開けてください』と言った。すると、主人は言った。『はっきり言うが、わたしはおまえたちを知らない』。だから、目を覚ましていなさい。あなたたちは、その日、その時を知らないからだ」。

【オミリア】3分31秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

より健全で平等な社会・経済のために、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.8.26.]より

教皇フランシスコは、一般謁見で、不平等な経済発展がもたらす現実を見つめ、より健全で平等な社会・経済のあり方について考察された。

教皇フランシスコは、8月26日(水)、一般謁見をバチカン宮殿よりビデオを通して行われた。

教皇は、謁見中のカテケーシス(キリスト教生活に導くための、キリスト教要理の教え)で、パンデミック危機における「世界のいやし」をテーマに、不平等な経済発展がもたらす現実を見つめ、より健全で平等な社会・経済のあり方について考察された。

教皇のカテケーシスは以下の通り。

**********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

パンデミックとその社会的影響を前にして、多くの人が希望を失いそうになっています。不確実で苦悩に満ちたこの時、キリストから来る希望の賜物を受け入れるよう、すべての人に呼びかけたく思います。キリストこそが、この感染症や、死、不正義によって荒れた波を航海し、これらに打ち勝つことを助けてくださるのです。

パンデミックは、特に不平等という社会問題を浮かび上がらせ、それを大きくしました。ある人々は家から仕事ができる一方で、他の多くの人にはそれができません。ある子どもたちは、困難にも関わらず、学校教育を受け続けることができますが、他の非常に多くの子どもたちにとっては、その教育はいきなり中断されました。一部の力のある国々は、この危機のために貨幣を発行できますが、他の国々にとって、それは未来を抵当に入れることを意味します。

この不平等の症状は、社会における一つの病、不健全な経済から来るウィルスともいえるものを示しています。わたしたちは、単純に言うべきでしょう、すなわち経済が病んでいると。それは、人間の基本的価値を考慮しない不平等な経済発展がもたらすものです。今日の世界では、少数の非常に富んだ人々が、残りの人類全体よりも多くを所有しています。もう一度言いましょう。これは考えるべきことです。ほんの一握りの人々が、残りの人類全体よりも多くを持っています。これは純粋な統計です。その不平等は天に向かって声を上げています。同時に、この経済モデルは、「共通の家」である地球を苦しめる被害には無関心です。共通の家を大切にしようとしません。わたしたちの素晴らしい地球は、多くの限界に達しつつあります。生物の多様性の減退や、気候変動から、海面の上昇、熱帯雨林の破壊に至る、その影響は深刻で後戻りできないものです。社会的不平等と環境破壊は進行を共にし、同じ根源を持っています(参照:回勅 ラウダート・シ101)。それは、兄弟姉妹たちと、自然、神ご自身に対する所有と支配を望む罪です。しかし、これは創造をめぐる神のご計画とは異なるものです。

「初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理にゆだね、それを世話するようにとはかられました」(参照:カトリック教会のカテキズム2402)。神はわたしたちにご自分の御名において地を支配し(参照:創世記1,28)、一つの園、皆の園として、耕し、守るようにと命じられました(参照:創世記2,15)。「一方、『耕す』とは、育てる、働く、『守る』とは、保護する、保存することを意味します」(ラウダート・シ67)。しかし、これを、地を自分の好き勝手にしてよい、という風に解釈してはいけません。そうではなく、わたしたちと自然の間には、「責任ある相互関係」が存在します(同上)。わたしたちは自然から受け取り、そして、今度はわたしたちから自然に返します。「すべての共同体は、生きていくために必要な、地の恵みを受け取ることができます。しかし、同時にそれを守る義務があります」(同上)。

実際、地はわたしたちに先立ち(同上)、神から「全人類のために」(カトリック教会のカテキズム2402)与えられました。したがって、その実りを、一部の人だけでなく、すべての人に届くようにすることは、わたしたちの義務です。これはわたしたちと地上の財との関係について鍵となる要素です。それは、第二バチカン公会議の教父たちがこのように思い出させているとおりです。「人はこの豊かさを用いながら、合法的に所有する外部の物を、彼だけでなく、他の人たちもそれを享受できるように、自分の所有としてだけでなく、共有の物とみなさなければなりません」(現代世界憲章69)。実際、「ある財産を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理人にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と分かち合うべきなのです」(参照:カトリック教会のカテキズム2404)。わたしたちは、財の所有者ではなく、管理者です。「でも、財産はわたしのものです」。そうです、あなたのものです。しかし、それは管理するためのものであり、利己主義的にあなたが独占するためのものではありません。

わたしたちが所有する物が共同体に価値をもたらすことを保証するために、「政治をつかさどる者は、所有権の正しい行使を、共通善のために管理する権利や義務を持っています」(同上2406)。「個人の所有を、財の普遍的な目的に従属させることは、社会的態度の『黄金律』であり、倫理的社会制度全体の第一の原則です(ラウダート・シ93)。

所有物やお金は、使命のために用いることができる道具です。しかし、わたしたちはその目的を、簡単に個人なりグループのために変えてしまいます。こうしたことが生じる時、本質的な人間の価値が侵害されます。ホモ・サピエンスはゆがめられ、一種のホモ・エコノミクスとなります。低下的な意味で、個人主義者、計算家、支配者となるのです。わたしたちは、神の似姿に創造された者であること、社会的存在であること、無限の愛する力を持った、創造的で連帯にあふれた存在であることを、しばしば忘れてしまうのです。実際、わたしたちはあらゆる種の中でも最も協力的な存在であり、聖人たちの体験に見るように、共同体において花開く存在です。スペインのある格言がわたしにインスピレーションを与え、このような言葉が浮かびました。「共同体で花開こう、聖人たちの生き方に見るように」。

所有と支配への強迫観念が、非常に多くの人々を生活に不可欠な物からも締め出す時、経済的・技術的不平等が、社会構造をも引き裂く時、そして、物質的で際限のない発展への依存が、「共通の家」を脅かす時、わたしたちはただ眺めているわけにはいきません。これは悲惨です。見過ごすわけにはいきません。イエスを見つめながら(参照:ヘブライ人への手紙12,2)、そして、イエスの愛は弟子たちの共同体を通して働くという確信と共に、何か違うもの、新しいものを生むという希望のもとに、皆で行動しなくてはなりません。神に基づく、キリスト教的希望は、わたしたちの錨(いかり)です。それは、わたしたちとすべてを分かち合われたキリストの弟子としての、分かち合いの意志を支え、わたしたちの使命を強めます。

このことを最初のキリスト教共同体は理解していました。彼らもわたしたちと同様に、困難な時代を生きていました。彼らは自覚していました。心も思いも一つにし、すべてを共有し、彼らの上に豊かに注がれたキリストの恵みを証ししていました(参照:使徒言行録4,32-35)。わたしたちは今一つの危機を生きています。パンデミックはわたしたち皆を危機に陥れました。思い出してください。危機から前と同じような形で脱することはできません。危機から脱した後、前より良くなるか、悪くなるかです。これがわたしたちの選択です。危機の後も、社会的不正義と、環境・自然・共通の家の保護軽視の、この経済システムを続けますか。考えてみようではありませんか。21世紀のキリスト教共同体が、自然保護と社会正義の現実を回復し、こうすることで、主の復活を証しすることができますように。もし、創造主がわたしたちに与えられる豊かさを大切に管理し、誰にも不足がないように、わたしたちが持つものを皆のものとするならば、より健全で平等な世界を再生するための、希望の息吹を本当に感じることができるでしょう。

最後に、子どもたちのことを考えましょう。統計を読んでください。今日の時代、富の不当な分配のために、先に述べたような経済システムのために、いったい何人の子どもたちがお腹をすかせて亡くなっていることでしょうか。この時代、何人の子どもたちが、同様の理由で、学校に行く権利を持てないでいるでしょうか。食べ物にこと欠き、教育を受けられない子どもたちの姿が、この危機からわたしたちがより良い形で脱する必要を理解させてくれることを願います。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために26 8月 2020, 18:42

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

【クララ】聖モニカ オミリア【2020.8.27.】

三三一年、アフリカのタガステでキリスト信者の家庭に生まれる。若くしてパトリキウスに嫁いで子をもうけた。そのうちの一人がアウグスチヌスである。モニカは涙を流して、アウグスチヌスの回心を神に祈った。よき母の模範として、彼女は祈りによって信仰をはぐくみ、徳に満ちた行いを通して信仰を証しした。三八七年にオスチアで死去。(『毎日の読書』より)

第一朗読:1コリント1・1-9/福音朗読:マタイ24・42-51

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「目を覚(さ)ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒(どろぼう)が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢(かしこ)い僕(しもべ)は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕(しもべ)は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕(しもべ)で、主人は遅(おそ)いと思い、仲間を殴(なぐ)り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳(きび)しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭(あ)わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《いつも目を覚ましていなさい》 だから、目を覚ましていなさい。あなたたちの主が、いつ来られるか、あなたたちは知らないからである。このことをわきまえていなさい。一家の主(あるじ)は、泥棒(どろぼう)が夜の何時に来るか知っていたなら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないものだ。だから、あなたたちも用意していなさい。人の子は思わぬ時に来るからである」。   《感性ある忠実なしもべ、威圧的なしもべ》「主人が家の使用人たちの上に立てて、定期に食料をわたすようにした忠実で感性あるしもべは、いったいだれであろうか。主人が来たとき、そのとおりに実行しているのを見られるしもべは、神からの力を得ているのだ。はっきり言っておくが、これは主人がそのしもべを全財産の管理に立てるほどのことである。しかし、それが威圧的なしもべで、腹の中で『主人はおそくなる』と言って、仲間のしもべたちをたたいたり、酔(よ)っぱらいどもと飲み食いしているなら、主人は予想もしない日、思いがけない時に帰ってきて、そのしもべをきびしく罰(ばっ)し、偽善者と同じ目にあわせる。そこでしもべは泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。

【オミリア】5分16秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

ペトロの信仰告白を観想、教皇、日曜正午の集い

バチカン放送日本語課[2020.8.23.]より

教皇フランシスコは、日曜正午の集いで、ペトロの信仰告白を観想された。

教皇フランシスコは、8月23日(日)、バチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

教皇は祈りに先立つ説教で、この日の福音朗読箇所、ペトロが信仰を言い表す場面(マタイ16,13-20)を取り上げ、次のように話された。

**********

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

この主日の福音では、ペトロが、イエスはメシアであり神の子である、という、イエスにおける信仰を告白する場面(参照:マタイ16,13-20)が示されます。使徒ペトロのこの信仰宣言は、イエスご自身によって誘発されたものです。イエスは弟子たちに、ご自身との関係をより決定的にするための一歩を踏み出して欲しいとを望んでおられました。実際、十二使徒をはじめ、ご自分に従う者たちと共にするイエスの歩みは、彼らの信仰教育の歩みでした。最初にイエスは問います。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(同16,13)。弟子たちも、わたしたちのようにうわさに耳を傾けるのが好きだったでしょう。他者について話すことはさほど難しくはありません。だからこそ、わたしたちは他者のうわさができるのです。しかし、このイエスの問いは、単なるうわさ話を越えた、信仰を視野にした問いでした。イエスは問います。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。弟子たちは、人々の様々な意見を口々に報告しました。おそらく弟子たちの多くも、その見方を共有していたかもしれません。つまるところ、ナザレのイエスは預言者である、という考えです(参照:同16,14)。

イエスは、第二の問いかけによって、本質に迫ります。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(同16,15)。この時、わたしたちは一瞬の沈黙を感じることでしょう。なぜなら、そこにいるすべての人は、イエスに従う理由を表し、自らを賭けるようにと招かれているからです。ですから、ある種の躊躇は当然でしょう。もし、わたしもここで皆さんに「あなたにとって、イエスとは何者ですか」と尋ねたならば、そこで皆さんも一瞬考え込むでしょう。この気まずい沈黙をやぶって、シモンは思い切って答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(同16,16)。この完全で、照らされた答えは、彼が寛大だからといって、衝動的に口をついたものではありません。それは、天の御父の特別な恵みの実りでした。実際、イエスもペトロにこう言われました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(同16,17)。イエスにおける信仰を表すことができるのは、御父の恵みです。イエスが生ける神の子である、贖い主である、と言えることは、わたしたちが願うべき恵みです。わたしたちは、「御父よ、イエスにおける信仰を表す恵みをください」と願わなくてはなりません。

同時に、主は、恵みに促されたシモンのとっさの答えを認められ、厳かな口調でこのように続けられました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(同16,18)。この明言をもって、イエスはシモンに、彼に与えた、「ペトロ」という新しい名前の意味を理解させようとしました。彼が言い表したばかりの信仰は、壊れることのない「岩」であり、神の御子はその上にご自身の教会、共同体を築くことを望まれます。教会は常に、イエスが認め、教会の頭とした、ペトロの信仰の上を歩みます。

今日、わたしたちは、一人ひとりに向けられたイエスの問いに接します。「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」。わたしたち一人ひとりが、理論上ではない、信仰、すなわち人生に深く関わる答えを出さなくてはなりません。なぜなら、信仰とは人生だからです。「わたしにとってあなたは…です」、とイエスに告白しましょう。その答えには、イエスの最初の弟子たちにとってそうであったように、御父の声と、ペトロのまわりに集められ、調和する、教会の宣言し続ける声を、心の奥で聞くことを必要とします。それは、わたしたちにとって、キリストとは何者なのか、という問いです。もし、キリストがわたしたちの生活の中心であるならば、それはわたしたちの教会や社会におけるあらゆる取り組みの目的となるはずです。わたしにとって、イエス・キリストとは誰でしょうか。あなたたち、一人ひとりにとって、イエス・キリストとは誰でしょうか。それはわたしたちが毎日答えていくべきものなのです。

わたしたちの共同体の司牧が、いたる所に見られる多くの貧困や緊急事態に対して開いていることは、不可欠であると同時に称賛すべきことです。愛(カリタス)は、常に信仰の歩みとその完成のための一番の道です。わたしたちが行う連帯の業、慈愛の業が、主イエスとの出会いを歪めないことが必要です。キリスト教的な慈愛は、単なる博愛主義ではなく、イエスと同じ眼差しで他者を見つめると同時に、貧しい人の顔にイエスを見つめることです。これが、常にイエスを中心に据えた、真のキリスト教的な愛の道です。

信じたゆえに幸いである方、至聖なるマリアが、キリストにおける信仰の歩みの導き手、模範となってくださいますように。そして、キリストへの信頼が、わたしたちの慈愛の業と全人生に豊かな意味を与えるということを自覚させてくださいますように。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために23 8月 2020, 19:12

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

【クララ】年間第21水曜日 オミリア【2020.8.26.】

第一朗読:2テサロニケ3・6-10、16-18/福音朗読:マタイ23・27-32

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは言われた。]「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者(ぎぜんしゃ)は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚(けが)れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善(ぎぜん)と不法で満ちている。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾(かざ)ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《宗教者に対する七つの警告》 律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者(ぎぜんしゃ)はなげかわしいことだ。あなたたちは白くぬった墓のようなものだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨とあらゆるけがれでみちている。このように、あなたたちも、外側は正しい道をあゆむ人のように見えるが、内側は偽善とわがままにみちている。律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは預言者の墓をたて、解放をこころざした人たちの記念碑を建てて、『もし、われわれが父祖(ふそ)の時代に生まれていたら、預言者たちの血で自分をけがす側には立たなかっただろう』と言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを証明している。あなたたちも父祖の升目(ますめ)をみたしていけばいい。

【オミリア】2分53秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

教皇、感染症犠牲者の遺族の苦しみを思う

バチカン放送日本語課[2020.8.23.]より

教皇フランシスコは、新型コロナウィルス感染症の犠牲者を悼み、遺族の苦しみに触れられた。

8月23日(日)の正午の祈りの集いで、教皇はイタリア各地からの巡礼団に挨拶をおくられた。

この中には、新型コロナウィルス感染症で多くの犠牲者を出したイタリア北部ベルガモ県より、亡くなった人々の追悼のためにローマを訪れたグループの姿もあった。

教皇は「新型コロナウィルスの犠牲者を忘れてはなりません」と述べながら、同感染症で亡くなった祖父母に別れを告げることもできなかったという体験を、この朝ある家族から聞いたばかりである、と語られた。

教皇は同感染症で命を失った多くの患者たち、そして奉仕の中で亡くなった、ボランティアや、医師、看護師、修道女、司祭らを悼まれた。そして犠牲者の遺族たちの苦しみを思いつつ、これらすべての人々のために祈られた。

また、この集いで、教皇は、2016年のイタリア中部地震から、翌日8月24日で、4年となることに触れられた。

この地震の犠牲者は299人、アマトリーチェ、アックームリ、アルクアータ・デル・トロントなどを中心に、ラツィオ州、ウンブリア州、マルケ州の、特に山間部にかけて、多大な被害を出した。

教皇は、この地震で大きな被害を受けた家族や共同体が、連帯と希望のうちに前進できるよう祈ると共に、この美しいアペニン山中の地方に人々が戻り、安定した生活をおくれるよう、被災地の早い再興を願われた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために23 8月 2020, 17:19

Facebook にシェア
[`evernote` not found]

【クララ】年間第21火曜日 オミリア【2020.8.25.】

第一朗読:2テサロニケ2・1-3a、14-17/福音朗読:マタイ23・23-26

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは言われた。]「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者(ぎぜんしゃ)は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲(じひ)、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉(こ)して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯(さかずき)や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲(ごうよく)と放縦(ほうじゅう)で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《宗教者に対する七つの警告》 律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者(ぎぜんしゃ)はなげかわしいことだ。あなたたちは、はっか、アニス、ウイキョウの『十分の一奉納』はするが、律法の中で重きをなす、解放のための裁き、痛みを共感すること、信頼をもってあゆみを起こすことはないがしろにしている。これこそ実行すべきことであり、あわせて、『十分の一奉納』もないがしろにしてはならない。ものの見えない案内人、あなたたちはブヨをこし出して、らくだを飲みこんでいるのだ。律法学者とファリサイ派の人たち、あなたたち偽善者はなげかわしいことだ。あなたたちは、さかずきや皿の外側は清めるが、内側は強欲(ごうよく)と放縦(ほうじゅう)でみちている。ものの見えないファリサイ派の人よ、まず、さかずきの内を清めなさい。そうすればさかずきの外も清くなる。

【オミリア】2分55秒

Facebook にシェア
[`evernote` not found]