月別アーカイブ: 2020年10月

【クララ】年間第29金曜日 オミリア 2020.10.23.

第一朗読:エフェソ4・1-6/福音朗読:ルカ12・54-59

【第一朗読】 [皆さん、]主に結ばれて囚人(しゅうじん)となっているわたしはあなたがたに勧(すす)めます。神から招(まね)かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和(にゅうわ)で、寛容(かんよう)の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐(にんたい)し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは群衆に言われた。]「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様(もよう)を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴(うった)える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守(かんしゅ)に引き渡し、看守は牢(ろう)に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 「今」が見直しのチャンス《「時」を見分け、抑圧(よくあつ)からの解放(正義)を実践(じっせん)せよ》 イエスはまた民衆にも言った。「あなたたちは、西の空に雲が出るのを見れば、『ひと雨くるぞ』とすぐに言えるし、また、南風が吹くのを見れば、『あつくなる』と言い、そのとおりになる。偽善者(ぎぜんしゃ)よ、あなたたちは地と空のもようを見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」。「なぜ、あなたたちは解放を求める訴(うった)えを、すすんで取り上げないのか。あなたを訴える人といっしょに役人のところに行くはめになったときには、途中でその人のこだわりを取りのぞくよう、手を尽(つ)くしなさい。さもないと、役人はあなたを裁判官の前に引きたて、裁判官は看守(かんしゅ)に引きわたし、看守は懲役牢(ちょうえきろう)に放りこむ。言っておくが、最後の一円を返すまで、そこから出ることはできない」。

【オミリア】7分44秒

*み言葉を自分で読み、黙想し、味わう自己訓練をしてみませんか。Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=霊的読書)の方法を参考にしてみ言葉の味わい方を紹介します。 ***参考 レナト・フィリピーニ「聖なる読書によってみことばを祈る」教友社 シリーズ参照***

まずは、み言葉を味わうために、20分ほど時間をとってみましょう。

祈りへの招き  始める前に、まずわたしたちがいまここに「いる」ということを意識しましょう。いすに座っている体を感じましょう。呼吸を整え、心臓の鼓動に耳を傾けましょう。これからわたしたちが体験していくことは、『祈り』です。祈りとは、神との対話であり、わたしたちに語りかけておられる神のみことばに耳を傾けることです。

聖霊の助けを求める祈り  ゆっくり唱えます。

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。優しい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、うれいの時の慰め。恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない、汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。

みことばを朗読しましょう  本日の聖書箇所をゆっくりと声を出して読みましょう。(聞きましょう)

みことばに耳を傾けましょう  みことばは、一度目を通すだけでなく、何回も繰り返し読みましょう。さらに参考となる箇所も読みましょう。みことばは互いに説明し合っていますから。「聖書による聖書の解釈」、これが聖書奉読についての揺るぎない基準です。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを味わいましょう   みことばは、いつも完全に、またすぐに、理解できるとは限りません。みことばはしばしば、自分にはほとんどわからない、もしくは全くわからないと認めるだけの、謙虚さを身につけたいものです。たとえ、今わからないことであっても、ずっと後になってわかることがあります。今、何かがわかったら、それを心の中でしっかりと噛みしめて味わいましょう。そうした後で、それを自分自身に、それぞれのおかれている状態に当てはめてみましょう。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを生きましょう   みことばを通して、あなたに語りかけている神の招きに応えましょう。友が友に語るように、神と語り合いましょう。みことばに表されているイエスの顔を仰ぎみましょう。その顔を見つめ、憧れ、とらえられましょう。あなたに贈られたみことばのゆえに神に感謝しましょう。みことばを読む中で、あなたが目にし、耳にし、味わったことを大切にしましょう。それらをあなたの心、あなたの記憶に留めていきましょう。それから、人々のところに行って、友達になり、あなたが受けたその平和、その祝福を分かち合いましょう。

——— しばらく沈黙してから、「結び」に移りましょう ———

結び   「主の祈り」あるいは別の祈り、または賛美歌

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ローマのカンピドリオで諸宗教指導者らによる平和の集い

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 ローマのカンピドリオで、10月20日、諸宗教指導者らによる平和の集いが行われた。

 この集いは、1986年、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が招集したアッシジでの平和祈祷集会の精神にのっとり、平和のために祈り、諸宗教間の対話を促進するために、聖エジディオ共同体が毎年開催地を変えながら行っているもの。

 今年の集会は、「誰も一人では救われない‐平和と兄弟愛」をテーマに、ローマの中心地、市庁舎のあるカンピドリオの広場で開催された。

 この集いには、教皇フランシスコをはじめ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など、諸宗教の指導者が参加した。

 教皇は、同日午後、このカンピドリオ広場での集いに先立ち、隣接するサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会で、キリスト教諸教会の関係者と、エキュメニカルな祈りをとり行われた。

 この後、広場で行われた平和の集いでは、主催者・聖エジディオ共同体の創立者アンドレア・リカルディ氏や、イタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領の挨拶に次いで、バルトロメオス総主教のスピーチや、アル=アズハルのグランド・イマーム、アフマド・アル・タイーブ師からのメッセージの朗読など、諸宗教代表者らの言葉が続いた。

 日本から参加した曹洞宗の峯岸正典師は、死刑囚であった歌人、島秋人の短歌を引用しながら、善悪の両面を持ちうる人間存在を見つめ、人間が戦いを起こすのだとすれば、平和を築くこともまた人間にできるはずである、とスピーチの中で話した。

 諸宗教代表らによるスピーチの最後に言葉を述べられた教皇は、「平和は一人では築けない」と、人類の兄弟愛の必要を説かれた。

 平和の展望における預言的な種は、様々な出会いや平和的行為、兄弟愛的な新しい思考と共に、一歩一歩、成長を続けてきた、と教皇は述べ、時には宗教の名のもとに起こされた、紛争・テロ・原理主義など、ここ数年の痛ましい出来事を思い起こす一方で、諸宗教間対話がもたらしてきた実り多き歩みをも認めるべき、と話された。

 教皇は、こうした対話の進展を、諸宗教関係者らが兄弟として共に働くことを励ますしるしとして受け取る中で、2019年、共同文書「世界平和と共存のための人類の兄弟愛」に、アフマド・アル・タイーブ師と一緒に署名したことを、重要な出来事として振り返った。

 「平和の掟は、宗教の伝統の根底に記されている」と話す教皇は、宗教の違いは、無関心や敵対を正当化するものではなく、むしろ、「宗教的信仰を源として平和の築き手となることができる」「宗教とは平和と兄弟愛に奉仕するもの」と強調された。

 教皇は「平和はすべての政策の優先課題」であり、平和を求めず、人々を傷つける緊張や争いを生んだ者たちに、神は償いを求めるだろう、と話された。

 そして、イエスが、その受難の前に人々がご自身を捕らえに来た時、剣で打ちかかった弟子に、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われた言葉を教皇は示しながら、そのイエスの言葉は、剣や、武器を手放し、暴力、戦争をやめるようにと、今日も響いている、と語られた。

 「いかなる人民も、いかなる社会集団も、自分たちだけで平和や善、安全や幸福を得ることはできない」と教皇は述べ、現在のパンデミックが教えたのは「世界共同体は共に乗り合わせた一つの船であるという自覚」であり、「誰も一人では救われず、ただ皆が一緒でのみ救われる」ということ、と説かれた。

 教皇は「兄弟愛はただ一つの人類という意識からわき出でる」ことを念頭に、皆が共にあってこそ救われるという認識を、出会いや和平、停戦や和解を通して育みながら、平和のための具体的な道のりを切り開いていこう、と呼びかけられた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:56

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平和の集い:キリスト教諸教会関係者によるエキュメニカルな祈り

バチカン放送日本語課[2020.10.20.]より

 10月20日、ローマのカンピドリオで開催された平和の集いの一環として、キリスト教諸教会の関係者によるエキュメニカルな祈りが、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会でとり行われた。

 この祈りには、教皇フランシスコ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ドイツ福音主義教会常議員会議長ハインリヒ・ストローム師らをはじめ、カトリックや、プロテスタント、正教会の関係者が参列した。

 このエキュメニカルな祈りの集いで説教を行われた教皇は、先に朗読されたマルコ福音書の一節、十字架につけられたイエスに向かって、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15,30)と、通りがかりの人々がののしる場面を観想された。

 自分、あるいは自分が属する集団だけを救おうとする思いは、誰の中にも潜む決定的な誘惑であり、それは非常に人間的な本能であると同時に、十字架につけられた神に対する挑戦でもある、と教皇は話した。

 「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉は、憐みを欠きながら、しかしイエスが十字架から降りる奇跡だけを見たい心を表すものと、教皇は指摘。

 おそらく、時にはわたしたちも、憐み深い神よりも、人々が目を見張るような業を世界に見せつける、力ある神の方を好むことがあるかもしれないが、それは神ではなく、わたしたちの自我が望むものに過ぎない、と語られた。

 「自分を救ってみろ」と、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱したが、彼らがイエスを非難したのは、イエスの存在が彼らの立場を危うくしたからである、と教皇は話した。

 わたしたちも自分を救うために他者を十字架につけることがある、と教皇は述べつつ、これに対し、自ら十字架にかかり、他者に悪をなすりつけることがない、イエスの姿を示された。

 教皇は、祭司長や律法学者たちのような宗教に関わる人々が、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15,31)と、イエスを「他人を救った」という理由であざけっている矛盾に注目。

 「しかし、自分を救う福音は、救いの福音ではなく、これに対し、真の福音は、他者の十字架を自らに背負うものである」と説かれた。

 また、カルワリオで起きたことは、わたしたちを救うために来られた神と自分だけを救いたい人間との対決、神における信仰と「自分教」との対決であった、と話された。

 「十字架から赦しがわき出で、そこに兄弟愛が再び生まれた」と述べた教皇は、「十字架は、わたしたちを兄弟とする」というベネディクト16世の言葉(2008年の十字架の道行)を引用された。

 わたしたちがより一致し、より兄弟愛に満ちた者となれるよう、十字架にかかられた神に願い、わたしたちの救いのためにご自身を無にされた(参照:フィリピ2,7)主に学ぼう、と教皇は招かれた。

 そして、わたしたちが生ける神の信じうる証し人となるために、兄弟愛の道を共に歩いて行けるようにと、主の助けを祈られた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために20 10月 2020, 19:38

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世界宣教の日:教皇、拉致から解放された宣教者のために神に感謝

バチカン放送日本語課[2020.10.18.]より

10月18日、カトリック教会の「世界宣教の日」が記念された。

 「世界宣教の日」は、10月の最後から2番目の主日に全世界の教会によって記念されるもので、世界の福音化のために、すべての人の宣教心を呼び起こすと共に、宣教地の教会の必要に配慮し、霊的・物的支援や、宣教者や教会間の交流を促進することを目的としている。

 教皇フランシスコは、この日バチカンで行われた日曜正午の集いで、「世界宣教の日」に触れられた。

 今年のテーマ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください(イザヤ6,8)- 兄弟愛を織り出す人々」を示された教皇は、「すべてのキリスト者は、兄弟愛を織り出す者となるように召されている」と話された。

 教皇は、特に世界という大きな畑で福音の種を蒔く司祭・修道者・信徒ら、宣教者たちに思いを向け、これらの宣教者のために祈り、彼らのためにわたしたちの具体的な支援が欠けることのないように、と呼びかけられた。

 こうした中、教皇は、2年前、ニジェールで拉致され、先日、他の3人の人質と共に解放された、イタリア人宣教師、ピエル・ルイージ・マッカッリ神父のために喜びを表され、神に感謝を捧げられた。

 そして、教皇は、宣教者やカテキスタのため、また世界の各地で迫害されたり、拉致されている人々のために祈り続けるよう、信者らを招かれた。

**********

 先日、拉致後2年ぶりに解放された、アフリカ宣教会のピエル・ルイージ・マッカッリ神父(59)は、イタリア北部クレーマの出身。

 マッカッリ神父は、コートジボワールでの宣教の後、ニジェールのニアメ教区のボモアンガで小教区の司牧に携わっていた。

 同神父は、ニジェールのブルキナファソとの国境近くで、2018年9月17日から18日にかけての夜、イスラム過激派によって拉致された。

 拉致後、マッカッリ神父の消息が最後に確認されたのは、今年3月に公開されたビデオ映像の中であった。

 そして、今年10月8日、マッカッリ神父は、共に人質となっていたイタリア人エンジニアのニコラ・キャッキオ氏、フランス人の支援活動家ソフィー・ペトロナン氏、そして、マリの政治家スマイラ・シセ氏の3人と共に、マリで解放された。

 解放後、マッカッリ神父は、福音宣教省のFIDES通信のインタビューに答えて、長い監禁の日々を「生きるために、耐える」生活であったと振り返った。

 インタビューによれば、マッカッリ神父を過酷な状況の中で支えたものは、母から教わった朝と晩の祈りと、祖母から学んだ観想的なロザリオの祈りであった。

 また、ミサを捧げることはできなくても、毎日、特に主日に、自己奉献の祈りを唱え、自身を裂かれたパンとして、世界とアフリカのために捧げていた。

 毎日曜日、また待降節と降誕節、四旬節と復活節など特別な時期に、自身に福音の一節を与え、それを黙想していた、とマッカリ神父は述べた。

 長い人質生活は、マッカッリ師にとって、「沈黙と、清め、本質への回帰」の時であった一方、「神はどこにいるのか?なぜ、わたしを見捨てたのか?いつまでこの状況が続くのか?」と、多くの問いに満ちた時でもあった、と語った。

 しかし、「神がおられることは知っていた。神は後ろに立っておられると知っていた。今、解放され、帰国して、それを理解し始めた」と、同師は話した。

 マッカッリ師は、監禁中の今年5月にラジオを手に入れることができ、それでバチカン放送を聞くことができた、と述べた。

 ラジオで、主日の福音の解説を聞いたほか、特に聖霊降臨の祭日には、教皇司式のミサを聞くことができ、その時、ミッションでアフリカにいるという自覚と、ローマの聖ペトロ大聖堂にいる気持ちを同時に味わったという。

 マッカッリ師は、自身は砂漠の中に監禁されていても、祈りの中で、精神は宣教する村々を歩き回り、協力者や多くの人々、若者たちや子どもたちの名を呼び、彼らは自分の傷ついた心の中の生き生きとした存在であった、と話した。

 マッカッリ神父は、「ミッションとは『する』ものだけではなく、沈黙でもあること、そして、本質的にミッシオ・デイとは、主の御業であることがわかった」と語った。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために18 10月 2020, 15:45

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【クララ】年間第29火曜日 福音朗読 2020.10.20.

小郡カトリック教会 聖フランシスコ・ザビエル像 2020.10.20.

第一朗読:エフェソ2・12-22/福音朗読:ルカ12・35-38

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「腰に帯を締(し)め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴(こんえん)から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。」

*み言葉を自分で読み、黙想し、味わう自己訓練をしてみませんか。Lectio Divina(レクティオ・ディヴィナ=霊的読書)の方法を参考にしてみ言葉の味わい方を紹介します。 ***参考 レナト・フィリピーニ「聖なる読書によってみことばを祈る」教友社 シリーズ参照***

まずは、み言葉を味わうために、20分ほど時間をとってみましょう。

祈りへの招き  始める前に、まずわたしたちがいまここに「いる」ということを意識しましょう。いすに座っている体を感じましょう。呼吸を整え、心臓の鼓動に耳を傾けましょう。これからわたしたちが体験していくことは、『祈り』です。祈りとは、神との対話であり、わたしたちに語りかけておられる神のみことばに耳を傾けることです。

聖霊の助けを求める祈り  ゆっくり唱えます。

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。貧しい人の父、心の光、証しの力を注ぐ方。優しい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。苦しむ時の励まし、暑さの安らい、うれいの時の慰め。恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない、汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。アーメン。

みことばを朗読しましょう  本日の聖書箇所をゆっくりと声を出して読みましょう。(聞きましょう)

みことばに耳を傾けましょう  みことばは、一度目を通すだけでなく、何回も繰り返し読みましょう。さらに参考となる箇所も読みましょう。みことばは互いに説明し合っていますから。「聖書による聖書の解釈」、これが聖書奉読についての揺るぎない基準です。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを味わいましょう   みことばは、いつも完全に、またすぐに、理解できるとは限りません。みことばはしばしば、自分にはほとんどわからない、もしくは全くわからないと認めるだけの、謙虚さを身につけたいものです。たとえ、今わからないことであっても、ずっと後になってわかることがあります。今、何かがわかったら、それを心の中でしっかりと噛みしめて味わいましょう。そうした後で、それを自分自身に、それぞれのおかれている状態に当てはめてみましょう。

——— しばらく沈黙しましょう ———

みことばを生きましょう   みことばを通して、あなたに語りかけている神の招きに応えましょう。友が友に語るように、神と語り合いましょう。みことばに表されているイエスの顔を仰ぎみましょう。その顔を見つめ、憧れ、とらえられましょう。あなたに贈られたみことばのゆえに神に感謝しましょう。みことばを読む中で、あなたが目にし、耳にし、味わったことを大切にしましょう。それらをあなたの心、あなたの記憶に留めていきましょう。それから、人々のところに行って、友達になり、あなたが受けたその平和、その祝福を分かち合いましょう。

——— しばらく沈黙してから、「結び」に移りましょう ———

結び   「主の祈り」あるいは別の祈り、または賛美歌

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【小郡】「世界宣教の日」年間第29主日 説教 2020.10.18.

小郡教会の公開ミサ。48人の皆さんと年間第29主日のミサを11時から行いました。

第一朗読:イザヤ45・1、4-6/第二朗読:1テサロニケ1・1-5b/福音朗読:マタイ22・15-21

【第一朗読】 主が油注がれた人キュロスについて 主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。わたしの僕(しもべ)ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

【第二朗読】 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちは、祈りの度(たび)に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦(ろうく)し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前(みまえ)で心に留(と)めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

【福音朗読】 本日から助祭が福音朗読をします。録音はありません。

【福音】 [そのとき、]ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠(わな)にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣(つか)わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔(へだ)てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像(しょうぞう)と銘(めい)か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神のものは神に返せ——貧しい人たちの生活を奪うな》 このとき、ファリサイ派の人たちはそこを立ち去り、会議をひらいて、どう、事実をおさえてイエスをわなにはめるか、相談した。そして、自分らの弟子たちをヘロデ派の人たちといっしょに、イエスのもとにつかわして言わせた。「導師(どうし)、わたしどもは、あなたが真実な方で、真理にもとづいて神の道をときあかしておられ、だれをもはばからない方であると知っております。あなたは人を分けへだてなさいません。ところで、あなたはどう思われますか、おっしゃってください。皇帝に人頭税をおさめることは、律法に適っていますか、いませんか」。イエスはかれらの悪意を知って、言った。「偽善者たち、なぜ、わたしを試すのか。人頭税のコインを見せなさい」。かれらは五千円銀貨を差し出した。イエスはかれらに、「この肖像(しょうぞう)と銘(めい)は、だれのか」と言うと、かれらは、「皇帝のです」と言った。そこで、イエスはかれらに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言った。これを聞いてかれらは感銘(かんめい)を受け、イエスをそこにのこして、行ってしまった。

【説教】15分32秒

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【鳥栖】「世界宣教の日」年間第29主日 説教 2020.10.18.

ロンダニー二のピエタ ミケランジェロ (ミラノ)

第一朗読:イザヤ45・1、4-6/第二朗読:1テサロニケ1・1-5b/福音朗読:マタイ22・15-21

【第一朗読】 主が油注がれた人キュロスについて 主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。わたしの僕(しもべ)ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる わたしのほかは、むなしいものだ、と。わたしが主、ほかにはいない。

【第二朗読】 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしたちは、祈りの度(たび)に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦(ろうく)し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前(みまえ)で心に留(と)めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。

【福音朗読】 本日から助祭が福音朗読をします。録音はありません。

【福音】 [そのとき、]ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠(わな)にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣(つか)わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔(へだ)てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像(しょうぞう)と銘(めい)か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神のものは神に返せ——貧しい人たちの生活を奪うな》 このとき、ファリサイ派の人たちはそこを立ち去り、会議をひらいて、どう、事実をおさえてイエスをわなにはめるか、相談した。そして、自分らの弟子たちをヘロデ派の人たちといっしょに、イエスのもとにつかわして言わせた。「導師(どうし)、わたしどもは、あなたが真実な方で、真理にもとづいて神の道をときあかしておられ、だれをもはばからない方であると知っております。あなたは人を分けへだてなさいません。ところで、あなたはどう思われますか、おっしゃってください。皇帝に人頭税をおさめることは、律法に適っていますか、いませんか」。イエスはかれらの悪意を知って、言った。「偽善者たち、なぜ、わたしを試すのか。人頭税のコインを見せなさい」。かれらは五千円銀貨を差し出した。イエスはかれらに、「この肖像(しょうぞう)と銘(めい)は、だれのか」と言うと、かれらは、「皇帝のです」と言った。そこで、イエスはかれらに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言った。これを聞いてかれらは感銘(かんめい)を受け、イエスをそこにのこして、行ってしまった。

【説教】10分01秒

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「祈る人は、希望を失うことがない」詩編を考察、教皇一般謁見

バチカン放送日本語課[2020.10.14.]より

教皇フランシスコは、10月14日(水)の一般謁見で、「詩編の祈り」をテーマに講話を行われた。

 教皇フランシスコは、10月14日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 謁見中、教皇は「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、この日は「詩編の祈り」をテーマに話された。

 教皇のカテケーシスは次のとおり。

**********

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 聖書を読む時、わたしたちはいろいろな種類の祈りに出会います。聖書の中には、祈りだけを取り扱う箇所もあります。いわゆる旧約聖書の詩編です。ここには、なんと150篇もの祈りが収められています。聖書の中で、詩編は、神との対話を通して祈ることを教えてくれる特別な書物です。

 詩編には、喜びや悲しみ、疑いや希望、苦しみなど、人間生活を彩るあらゆる人間感情が表現されています。教会の教えは、それぞれの詩編が、あらゆる時代のあらゆる状況における、人間の心からほとばしる祈りを表すものと教えます。何回も詩編を読むことで、わたしたちはどのように祈るべきかを学びます。どのように神に感謝し、懇願し、喜びや苦しみにおいて祈り、神の不思議な働きやその掟をいかに物語ればよいかを人々に教えるために、神なる御父は、ダビド王や他の預言者たちに、聖霊を通して霊感を授けたのです。 言うならば、詩編は、神と語らうために人間が用いることのできる、神の言葉そのものです。

 この詩編の書には、単なる美辞麗句や、抽象的な思いなどはありません。詩編は、机上で作られたものではないのです。生きた人間の現実の体験から生まれ出た叫びです。詩編を祈るためには、わたしたちはあるがままの自分であれば十分です。 これを忘れないようにしましょう。よく祈るために、わたしたちは小細工をせず、あるがままでよいのです。祈るために、気取る必要はないのです。「主よ、これがあるままのわたしです」。良いことも、自分しか知らない悪いことも含めて、すべてをたずさえ、あるがままの姿で主のみ前に出ることです。詩編の中に、わたしたちは生身の人間の声を聞くことができます。多くの問題を抱え、苦労や疑いを抱き、不確かな感情に覆われた、すべての人々の生の声を聞きます。詩編の中で、多くの苦しみは、疑問に変わっていきます。苦しむことから、様々な「なぜ、なぜなのだ」が生じるのです。

 多くの疑問の中で、詩編の書全体を通し絶えず繰り返される問いがあります。わたしたち自身も、何回も繰り返す問いです。「主よ、いつまで」。苦しみは解放を、涙は慰めを、傷は回復を希求します。「主よ、いつまでこの苦しみを耐え忍ばなければならないのでしょうか。主よ、わたしの祈りに耳を傾けてください」。一体、何回、わたしたちはこのような祈りを捧げたことでしょう。「主よ、いつまで、もう十分です」。

 詩編は、この種の問いを絶えず提示することによって、苦しみに無感覚になることなく、救われるためには、まずいやされる必要があることを思い起させます。

 詩編の祈りは、まさしくこのような人間の心の底からの叫びの証しです。この叫びには、様々な形があります。なぜなら、人の苦しみも一様ではなく、千差万別だからです。病気の時も、憎しみや戦争、迫害や不信の時もあります。そして、最も大きなつまずきは、死です。詩編において、人の死は、人間にとって最大の敵として解されています。すべてを終わらせ、無にしてしまう、これほどにも残酷な罰に、一体どんな罪が値したのだろうか。詩編の中で、人はすべての努力がまったく無であるゆえに、神に何とかしてくださいと願います。これこそが、祈りそのものがすでに救いへの道であり、救いの始まりである所以なのです。

 この世では、神を信じる人も、そうでない人も、誰もが苦しんでいます。しかし、詩編において、苦しみは、一つの関係・関わりとなります。救いを求める叫びは、聞く者の耳に届くことを期待しているのです。 無意味でも、無目的でもあり得ません。わたしたちの苦しみも、一般的な苦しみではなく、いつもわたし個人の苦しみです。わたしが流す涙も、誰のものでもない、わたし自身の涙です。それぞれが、それぞれの苦しみや涙を持ち、それらがわたしたちを祈りへと導くのです。わたし以前に誰も流すことがなかった、わたしだけの涙です。そうです、多くの人が泣きました、でもわたしの涙は、わたし自身の涙です。わたしの苦しみ、悲しみも、皆、わたしの苦しみ、わたしの悲しみです。

わたしはこの謁見会場に入る前に、先日、イタリアのコモ教区で、まさしく人々の支援をしているさなかに殺害された司祭のご両親に会いました。このご両親の流す涙は、彼ら自身の涙です。貧しい人々を助けるために命を捧げたご子息の、その死のために、ご両親がいかに苦しまれたかは、ご両親だけが知っています。誰かを慰めようとするとき、わたしたちは適当な言葉を見出すことができません。なぜでしょう。彼らの苦しみにまで到達することができないからです。なぜなら、その苦しみは、彼らだけのものであり、その涙も彼らの涙だからです。

 人間のすべての苦しみは、神にとって聖なるものです。詩編第56番は、こう祈っています。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。」 (詩編56,9)。神の御前で、わたしたちは知られざる者でも、単なる数字でもありません。わたしたちは皆、神から名前で知られ、顔も心も持つ存在です。

 信じる者は、詩編の中に答えを見出します。彼は、人間の門がすべて閉ざされても、神の門は常に開かれていると知っています。たとえ全世界が断罪しても、神の中には救いがあることを知っています。

 「神は聞いてくださいます」。時に、祈りにおいては、これを知るだけで充分です。いつでも問題が解決されるわけではありません。しかし、祈る人は、希望を失うことがありません。もちろん、この世では、多くの問題は出口を見つけられず、未解決のままに残り、また苦しみもなくならないでしょう。困難を一つ乗り越えても、新たに別の困難がやって来ることも知っています。しかし、わたしたちに耳を傾けてくださる方がおいでならば、すべてはもっと耐えやすくなります。

 一番悲しいことは、誰からも顧みられずに苦しむこと、誰からも気にもされずに苦しむことです。このような状況から、祈りはわたしたちを救ってくれます。わたしたちは神のご計画を完全に理解できるわけではありません。しかし、わたしたちの叫びは、この世に留まるわけではありません。それは父の心をお持ちの神の御元まで昇っていきます。苦しみ、死にゆくすべての息子、娘たちのために、神ご自身がお泣きになります。イエスの涙とその苦しみを思い起こすことは有益です。回心しないエルサレムを見て、イエスは泣かれました。最愛の友人ラザロの墓前で、イエスは泣かれました。神はわたしのために泣かれたのです。神はわたしたちの苦しみのために泣かれます。神は泣くことができるように、生身の人間となられたのです。

 苦しみにあるわたしと共に泣かれるイエスを思うことは、大きな慰めとなるのではないでしょうか。それは、わたしたちが前に進むための助けとなるでしょう。キリストと一致しているならば、たとえ人生が苦しみに欠けることがなくても、より大きな善に向けて、視界が開かれていきます。そして、わたしたちは完成へと歩み続けるのです。

 ですから、皆さん、元気を出して、祈りつつ前進しましょう。イエスはいつもわたしたちと共においでです。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために14 10月 2020, 16:49

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【クララ】年間第28金曜日 オミリア2020.10.16.

第一朗読:エフェソ1・11-14/福音朗読:ルカ12・1-7

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種(だね)に注意しなさい。それは偽善(ぎぜん)である。覆(おお)われているもので現されないものはなく、隠(かく)されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

【オミリア】3分01秒

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【クララ】聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士:年間第28木曜日 オミリア2020.10.15.

一五一五年、スペインのアビラに生まれる。カルメル会に入会して優れた完徳の道を歩み、多くの神秘体験を得た。同会の改革に着手し、多くの苦難を味わったが、不屈の精神でそれを克服した。自らの霊的体験にもとづく優れた教えを収めた書物を著した。一五八七年にアルバで死去。(『毎日の読書』より)

第一朗読:エフェソ1・1-10/福音朗読:ルカ11・47-54

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは言われた。]「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業(しわざ)の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣(つか)わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所(せいじょ)の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨(さまた)げてきたからだ。」イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱(いだ)き、いろいろの問題でイエスに質問を浴(あ)びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

【オミリア】2分37秒

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