【クララ】年間第24木曜日 オミリア2020.9.17.

第一朗読:1コリント15・1-11/福音朗読:ルカ7・36-50

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、]あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)の壺(つぼ)を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶(あいさつ)もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《宗教者はイエスをさぐり、「道をふみはずした」女性はイエスを受け入れる》 さて、一人のファリサイ派の人がイエスに、いっしょに食事をしてくれとたのんだ。それでイエスは、そのファリサイ派の人の家に入り、食卓についた。そこに、一人の女性がいた。この町の「道をふみはずした女」だった。彼女は、イエスがファリサイ派の人の家で食事の席についていることを知って、香油の壺(つぼ)をたずさえて来て、泣きながら、イエスのうしろ、足のかたわらに立ち、涙で足をぬらしては自分の髪の毛でぬぐい、足に接吻(せっぷん)しては香油を塗っていた。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、腹の中でこう言った。「この人がもし預言者なら、自分にすがりついている女が何者で、どういう類(たぐい)の者か、分かるはずだ。この女は『道をふみはずした者』なのだ」。そのとき、イエスはかれに向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言った。かれは、「導師、おっしゃってください」と言った。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は二百五十万円、もう一人は二十五万円の借りだった。二人とも返す手だてがなかった。それでその金貸しは、二人とも帳消しにしてやった。ところで、二人のうち、どちらがよけいに、その人を大切にするだろうか」。シモンは、「多く帳消しにしてもらったほうだと思う」とこたえた。イエスは、「そのとおりだ」と言った。そして、女性のほうをふりかえって、シモンに言った。「この女性を、あなたは気にしているのか。わたしがこの家に入ったとき、あなたは足をすすぐ水もくれなかった。けれど、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしにあいさつの接吻(せっぷん)もしなかった。けれど、この女性は、わたしがここに入ってきてからずっと、わたしの足に接吻をくりかえしている。あなたはわたしの頭にオリーブ油もぬってくれなかった。けれど、この女性はわたしの足に香油をぬってくれたのだ。このことから、多く道をふみはずしたこの女性はゆるされている、と言えるのだ。人をとても大切にしたからだ。しかし、ゆるしてもらうことの少ない人は、あまり人を大切にしようとしない」。そして、イエスはその女性に、「あなたが道をふみはずしたことはゆるされている」と言った。すると、いっしょに食卓についていた人たちは、腹の中で、「道をふみはずしたことまでゆるすこの人は、いったい何者だ」と思いはじめた。イエスは彼女に言った。「あなたが信頼してあゆみを起こしたそのことが、あなたを救った。安心して行きなさい」。

【オミリア】3分37秒

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【クララ】聖コルネリオ教皇 聖チプリアの司教殉教者【記】 年間第24水曜日 オミリア2020.9.16.

ガリラヤ湖の朝

コルネリオは二五一年にローマ教皇に選ばれた。対立教皇として立ったノバチアヌスの派閥(はばつ)に反対されたが、チプリアノに支持されて地位を保つことができた。ガルス帝によって追放され、二五三年にイタリア中部のチビタベッキアで亡くなった。その遺体はローマに移され、カリストの墓地に埋葬された。チプリアノは二一〇年頃、北アフリカのカルタゴで異教徒の家庭に生まれた。やがてキリスト教に改宗し、司祭に叙階され、二四九年にカルタゴの司教に選ばれた。その活動と著作によって、多くの困難のただ中にあった教会をみごとに治めた。バレリアヌス帝の迫害のときにまず追放され、その後、二五八年九月十四日に殉教した。(『毎日の読書』より)

第一朗読:1コリント12・31〜13・13/福音朗読:ルカ7・31-35

第一朗読:[皆さん、]あなたがたは、もっと大きな賜物(たまもの)を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言(いげん)、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒(さわ)がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽(つ)くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益(えき)もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨(うら)みを抱(いだ)かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐(た)える。愛は決して滅びない。預言は廃(すた)れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子(おさなご)だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄(す)てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《求めるべきは「人を大切にする」(愛)というカリスマ》 あなたたちは、もっとも偉大なカリスマを、熱(あつ)く求めてください。最高の道としてそれをあなたたちに示します。 たとえわたしが、異(こと)なることば(異言)で話し、み使いのことばで話せたとしても、人を大切にしないなら、わたしは音を立てるドラ、けたたましいシンバルです。たとえわたしが、預言する力をもち、神秘のすべて、あらゆる知識に通じていて、絶対の信頼をもってあゆみを起こし、山を移すことができたとしても、人を大切にしないなら、わたしの存在は無意味です。たとえわたしが、全財産を炊(た)き出しに注ぎ込み、わが身を投げ出して、それを誇(ほこ)りに思ったとしても、人を大切にしないなら、わたしに益(えき)するところはありません。人を大切にするとは、忍耐づよく相手をすること。人を大切にするとは、思いやりをもって接すること。人を大切にするとは、ねたまず、うぬぼれず、思い上がらず、めざわりなことをせず、自分の利を求めず、いらだたず、人の意地悪(いじわる)を根に持たず、人を不正に抑圧(よくあつ)して喜ばず、ともに真実を喜ぶこと。人を大切にするとは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし(信仰)、すべて確かなことに心を向け(希望)、どんなことにもめげずに立ちつづけることです。    《「人を大切にする」こと(愛)こそ、すべてを集約する》 「人を大切にする」ということは、けっして途絶(とだ)えることはありません。いずれ預言のことばは出なくなり、異言(いげん)はやみ、知識への傾(かたむ)きもなくなります。わたしたちは役割に応じて意味を知り、役割に応じて預言のことばを話すものだからです。しかし、この完全なものが登場するとき、役割としてのものは消え去ります。わたしが乳飲み子のときは、乳飲み子らしく話し、乳飲み子らしい感性をもち、乳飲み子らしく考えたものです。それがおとなになると、乳飲み子のふるまいは消え去っています。今、わたしたちに見えているのは鏡ごしのぼんやりしたものです。しかし、そのときがきたら、くまなくはっきりと見えるようになるはずです。今のわたしは役割に応じて知識があるというだけですが、そのときには、自分が神に知られているとおりに、自分をはっきりと知るようになるのです。ところで、永続(えいぞく)するもの、それは「信頼してあゆみを起こす」こと(信仰)、「確かさに心を向けること(希望)、「人を大切にする」こと(愛)の三つです。このうちもっとも偉大なものは、「人を大切にする」ということです。

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは言われた。]「今の時代の人たちは何にたとえたらよいか。彼らは何に似ているか。広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。』洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢(たいしょくかん)で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《底辺から立つヨハネとイエスを、受け入れる人たち—こばむ人たち》 では、この類(たぐい)の人たちを、何にたとえよう、何に似ているだろうか。子どもたちが広場にしゃがんで、『笛を吹いたが、踊らない。哀歌を歌っても、泣きもしない』と、互いに呼びかけ合うのと同じなのだ。沈めの式を行なうヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まないでいると、あなたたちは、『あれは、悪霊に取りつかれている』と言い、『人の子』が来て、食べもし飲みもすると、『見ろ、食い意地のはった酒飲みだ、収税人や道をふみはずした者の仲間だ』と言う。しかし、神の知恵は、それを実践する人たち一人ひとりによって、その解放する力をうらづけられたのである」。

【オミリア】5分35秒

*オミリアの中で引用した世界仏教指導者はティク・ナット・ハン

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教皇「常に対話と和解の促進を」世界各地の市民デモに

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、世界各地の市民による抗議デモが平和的であるよう希望すると共に、市民の人権と自由を尊重しながら、その声に耳を傾けるよう、治世者らに呼びかけられた。

教皇フランシスコは、9月13日(日)、バチカンで行われた正午の祈りで、世界各地で行われている数多くの市民の抗議デモに触れられた。

これらのデモは、政治・社会の危機的状況を前にした市民社会の困難の増大を表すもの、と教皇は述べた。

教皇は、デモに参加する人々に、自分たちの請求を、攻撃的態度や暴力への誘惑に陥ることなく、平和的な形で伝えるようにと希望された。

一方で、公的責任者、政府関係者に対し、人権と自由を尊重しながら、市民の声に耳を傾け、その正当な切望に歩み寄るようにと呼びかけられた。

また、教皇は、こうした社会状況の中にある教会共同体に向け、司教らの指導のもとに、常に対話と和解の促進のために働くようにと願い、赦しと和解の重要さを示された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 17:19

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ギリシャ難民キャンプ火災:教皇、行き場失った人々に連帯

バチカン放送日本語課[2020.9.13.]より

教皇フランシスコは、ギリシャの難民キャンプの火災で行き場を失った人々に、連帯を示された。

教皇フランシスコは、9月13日(日)の正午の祈りの集いで、先日ギリシャの難民キャンプで発生した火災に言及、避難所さえ失った難民たちの身の上を案じられた。

およそ1万3千人が生活するレスボス島モリア難民キャンプで、9月9日発生した火災により、キャンプ施設の大部分が焼失、多くの難民・移民が行き場を失った状態になっている。

この席で教皇は、2016年4月にレスボス島の難民キャンプを訪問した際、エキュメニカル総主教バルソロメオス1世と、アテネおよび全ギリシャ大主教イエロニモス2世と共に「移民、難民およびヨーロッパに亡命を求める人々に、人間的で尊厳ある受け入れ」を保証するようにアピールしたことを改めて思い起こされた。

教皇はこの悲劇的な出来事のすべての被災者に、連帯と精神的一致を表明された。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために13 9月 2020, 15:59

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【クララ】悲しみの聖母 オミリア2020.9.15.

この祝日がローマ教会暦に取り入れられたのは一八一四年である。十字架称賛の翌日にあたるきょう、教会は、マリアがイエスの受難のとき、十字架のもとにたたずんで母としてその苦しみをともにしたことを思い起こしている。(きょうのミサの集会祈願)。(『毎日の読書』より)

第一朗読:ヘブライ5・7-9/福音朗読:ヨハネ19・25-27 または ルカ2・33-35

【入祭唱】 ルカ2・34-35 シメオンはマリアに言った。「この子は逆らいのしるしとなり、イスラエルの多くの人の滅びと救いのもととなる。あなたの心も剣で貫かれれる。」

【集会祈願】 聖なる父よ、聖母マリアは十字架のもとに立ち、御子イエスと苦しみをともにしました。教会が、聖母とともに御子の苦しみに結ばれて、その復活にもあずかることができますように。聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

【福音朗読】 音声 *福音朗読は、ヨハネによる福音書またはルカによる福音書のどちらかを用いる。

【福音】 [そのとき、]イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

【オミリア】6分10秒

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【小郡】年間第24主日前晩 説教【2020.9.12.】

小郡教会の公開ミサ。32人の皆さんと年間第24主日のミサを19時30分から行いました。

第一朗読:シラ27・30〜28・7)/第二朗読:ローマ14・7-9/福音:マタイ18・21-35

【第一朗読】憤(いきどお)りと怒り、これはひどく忌(い)まわしい。罪人にはこの両方が付きまとう。復讐(ふくしゅう)する者は、主から復讐を受ける。主はその罪を決して忘れることはない。隣人から受けた不正を赦(ゆる)せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱(いだ)き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。自分と同じ人間に憐れみをかけずにいて、どうして自分の罪の赦しを願いえようか。弱い人間にすぎない者が、憤りを抱き続けるならば、いったいだれが彼の罪を赦すことができようか。自分の最期(さいご)に心を致(いた)し、敵意を捨てよ。滅びゆく定めと死とを思い、掟を守れ。掟を忘れず、隣人に対して怒りを抱くな。いと高き方の契約を忘れず、他人のおちどには寛容(かんよう)であれ。

【福音朗読】 音声

【福音】 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《貧しい者どうし、立場の弱さを分かり合って、過ちはゆるしてやれ》 そのとき、ペトロがイエスのそばに来て、言った。「主よ、仲間がわたしに対して道をふみはずす場合、何回ゆるせばいいでしょうか。七回までですか」。イエスはペトロに言った。「七回までとわたしは言わない。七回の七十倍までだ。じつに、天の国は、しもべたちと決済をしようと決めた一人の王のようなものだ。決済がはじまると、一兆円の借りのある人がつれて来られた。その人は返さなかったので、主人はその人に、妻も子どもも、持っているすべてを売って返すよう命じた。すると、しもべはひれ伏して、『お怒りにならないでください。きっとぜんぶお返しします』とひたすら願った。しもべの主人ははらわたをつき動かされて、その人を放免し、借金をゆるしてやった。ところが、このしもべはそこを出て、しもべ仲間の一人で、自分に五十万円の借りのある者に出会うと、その人をつかまえ、『借りたものは返せ』としめあげた。しもべ仲間はひれ伏して、『怒らないでくれ。きっと返すから』としきりに頼んだ。しかし、かれは承知せず、借りを返すまえそのしもべ仲間を懲役牢に入れた。なりゆきを見ていた仲間のしもべたちはひどく心を痛め、主人のところに行って、ことの次第を告げた。主人はそのしもべを呼びつけて言った。『威圧的なしもべだ、わたしは、おまえが頼んだので、おまえの借りをゆるしてやった。わたしがおまえの苦しみを分かってやったように、おまえを仲間の苦しみを分かってやるべきではなかったのか』。そして、主人は怒って、借りをぜんぶ返すまで、そのしもべを牢番たちに引きわたした。もし、あなたたち一人ひとりが仲間を心からゆるさないなら、わたしの天の父も、あなたたちに対して同じようになさるのだ」。

【説教】13分54秒

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【基山】年間第23土曜日 オミリア2020.9.12.

第一朗読:1コリント10・14-22/福音朗読:ルカ6・43-49

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨(いばら)からいちじくは採(と)れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺(ゆ)り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒(たお)れ、その壊(こわ)れ方がひどかった。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《神の国に入るのは、底辺から立つイエスの思いを実行する人だけ》 「良い木でありながら粗悪(そあく)な実をつけるということはなく、また、粗悪な木が良い実をつけるということもない。木はそれぞれ、つける実によって知れるものだ。じっさい、茨(いばら)からいちじくは採(と)れないし、野ばらからぶどうは収穫(しゅうかく)できない。誠実な人は、心の中の誠実な倉から誠意あるものを出し、威圧的な人は威圧的な倉から人を威圧するものを出す。人は心につまっていることを口にするものだ。あなたたちは、わたしに『主よ、主よ』と言いながら、どうしてわたしが言うことを、行なわないのか。わたしのもとに来て、わたしが身をもって示すことを聞き、それを実行する人とはどのような人かを示そう。それは、地をふかく掘り下げ、岩盤(がんばん)に基礎(きそ)をすえて家を建てた人のようだ。洪水(こうずい)になり、川がその家に押しよせてきたが、しっかり建てているので、ゆらぐこともなかった。しかし、聞いても実行しなかった人は、基礎なしに地面の上に家を建てた人のようだ。川がその家に押しよせると、すぐにくずれ、しかも、その壊(こわ)れようはひどかった」。

【オミリア】1分42秒

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教皇「患者たちに信頼と希望と愛を」

バチカン放送日本語課[2020.9.11.]より

教皇フランシスコは、国際婦人科がん会議の参加者とお会いになった。

教皇フランシスコは、バチカンで9月11日、婦人科がんの専門家たちとの出会いを持たれた。

この日、教皇がお会いになったのは、ローマで開催された国際婦人科がん会議の参加者たち。

参加者への挨拶で、教皇は患者に対する統合的なケアの必要を強調。

治療に携わる人は、患者たちに信頼と希望と愛を与えながら、その長いケアの歩みを分かち合うことが大切であり、その良好な関係は患者の治療生活を支え、希望を育むことになるだろう、と話された。

特に、患者を単にカルテのデータの中に見るのではなく、一人の人間として認めることで、患者と医療スタッフ間によりいっそうの信頼と前向きさが生まれ、「良い医療関係者との出会いは治療のうち」と言われるように、その良好な関係は、自分の心と健康状態を安心して託す機会を患者に与える、とも語られた。

教皇は、医療現場の効率主義や経済的視点によって、患者との関係構築が軽視されることがあってはならない、と述べる中で、患者の必要や不安に応え、様々なレベルで支えとしての役割を果たす、利益を目的としない多くの組織・団体の活動を称賛された。

患者たちの存在は、自身が抱える困難な状況にも関わらず、人間の命の価値や、相互の必要性、また神に自分を託すことなど、わたしたちが忘れがちな多くのことを思い出させてくれる、と述べた教皇は、婦人科がんの貴重な研究成果が、治療を受ける女性たちに役立つよう、関係者らを励まされた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために11 9月 2020, 14:03

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「国境は出会いの窓」教皇、欧州の移民問題研究プロジェクトに

バチカン放送日本語課[2020.9.10.]より

教皇フランシスコは、移民問題への理解を深めることを目的とした、欧州共同プロジェクトの関係者とお会いになった。

教皇フランシスコは、9月10日、移民問題への理解と対応をめぐる、欧州共同プロジェクトの関係者らを迎えられた。

「国境からのスナップショット」と名付けられたこのプロジェクトは、移民の玄関口、あるいは移民の受け入れ国となっている欧州諸国が参加するもので、相互依存する世界と移民現象についての意識を高め、国境にあるヨーロッパ諸都市間の調整をスムーズにし、ヨーロッパと各国レベルでの政策的調和をはかることを目的としている。

この日、バチカンを訪れたのは、イタリア南部ランペドゥーサおよびリノーサの市長を団長とした同プロジェクト参加者からなるグループ。

教皇は、関係者への挨拶で、移民現象への深い理解を促進し、ヨーロッパ社会により人間的で秩序ある対応を提案する、このプロジェクトの先見性を指摘された。

現在の移民をめぐる情勢は複雑であり、時に悲劇的結果を見ることがある、と教皇は述べ、移民の流れを決定づけるグローバルな相互依存性の研究の大切さを示された。

世界の様々な地域で生じ続ける人道的悲劇に誰も無関心でいることはできない、と訴えながら、教皇は特に地中海での移民の悲劇に言及。これに関連し、今年2月にイタリア南部バーリで開催された、地中海と平和をテーマとした司教の集いを思い起こされた。

そして、この問題に立ち向かうためには、国レベル、国際レベルでの具体的連帯と共同責任が不可欠であるだけでなく、移民問題を語る際に、それぞれの顔・ストーリーを持つ、一人ひとりの人間を中心に据えた視点を持つことが必要、と語られた。

国境はいつも分け隔てるものと考えられているが、それを、相手を知ることで互いに豊かになり、多様性における交わりを推進するための、出会いの「窓」とすることができる、と教皇は述べ、出会いと連帯の文化のために働く同プロジェクトの参加者を励まされた。大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために10 9月 2020, 18:07

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【クララ】年間第23金曜日 オミリア2020.9.11.

第一朗読:1コリント9・16-19、22b-27/福音朗読:ルカ6・39-42

【入祭唱】 詩篇119 神よ、あなたのことばはわたしの足のともしび、わたしの道の光

【福音朗読】 音声

【福音】 [そのとき、イエスは弟子たちに]たとえを話された。「盲人(もうじん)が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行(しゅぎょう)を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑(くず)を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

【本田哲郎訳】*典礼での朗読には使用することはできません。 《金持ち(抑圧する側)には、貧しい人たち(抑圧される側)を裁く資格はない》 イエスはたとえを用いてかれらに言った。「ものの見えない人が、ものの見えない人を道案内できるか。二人とも穴に落ちてしまうではないか。師の上を行く弟子はいない。しかし、自分自身しっかり鍛錬(たんれん)すれば、だれでも師のようになれるものだ。あなたは、仲間の目の中のわらくずは見えるのに、どうして自分の目の中の丸太に気づかないのか。どうして、仲間に、『さあ、おまえの目のわらくずを取らせてくれ』と言えるのか。自分の目の丸太が見えていないではないか。偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取りのぞけ。そうすればはっきり見えて、仲間の目のわらくずを取ってやることもできるのだ」。

【オミリア】4分46秒

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